1979年に創刊され、世界の不思議や謎と対峙し続けてきた雑誌『ムー』。創刊時、スタッフ欄にデザイン担当としてクレジットされていた寺澤彰二さんは、最新号でもクレジットされています。世の中に雑誌は数あれど、同じ人物が月刊誌のデザインを手がけ続けているケースは、かなり珍しいのではないでしょうか。そんな寺澤さんは現在、御年80歳。人生の半分を「ムー」と共に過ごすことなったきっかけは?
「僕は学研で『ムー』の前に学年誌『コース』のデザインを5年間やっていました。当時の『コース』では超能力やUFOといったオカルト系の読み物の人気が高く、『オグラ』(オフセット印刷とグラビア印刷のページ。つまり写真が主体のカラーページを指している) の編集長だった森田くんと、『コース』で記事を書いていた太田くんが、そういう記事だけで新雑誌を作ろうと考えたんです。じゃあ、誰にデザインをやってもらおうかとなったときに、2人が僕のところに相談に来て、話を聞いてみたら面白そうだったので手を挙げたのが最初ですね」
この「森田くん」と「太田くん」とは、後に初代編集長となる森田静二さんと、3代目編集長となる太田雅男さん。そこに寺澤さんが加わり、中高生対象の雑誌として「ムー」は始まりました。
「しかし、まったく売れなかった。それは『誰に向けて作っているのか?』という部分が不明確だったからだと思っています。例えば、創刊号から5号までは表紙をイラストレーターの生頼範義さんに描いてもらいましたが、実際にもらった絵はセクシーな女性のものばかりだったんです。
高校生はともかく、当時の中学生はお小遣いが少なかったから、雑誌は親に買ってもらうことのほうが多かった。そうなると、この表紙では買ってもらいづらいですよね。中高生向けでいきたいのか、大人向けでいきたいのか。生頼さんには生頼さんの絵のスタイルがありますから、問題はイラストというよりも、雑誌のコンセプトが曖昧だったことです」
その結果、1年後には売上不振により廃刊が議論されるように。
「でも当時の学研の局長が、『せっかく創刊したんだから、もう少し我慢してみよう』と言ってくれて。それで内容をすべて再検討してみることになったんです」
実は寺澤さんたちの間では、これ以前から「中高生だけに向けてやるのは限界があるのでは?」という意見がありました。
「マニア向け雑誌に振り切ってしまえば、中高生だけじゃなく上は60歳くらいまでターゲットにできるわけです。そうやって各世代の好きな人を少しずつとっていくほうが、こういう雑誌は生き残っていけると思っていたんです。だから一回、背水の陣のつもりでマニア向けにやりきってしまって、それでダメだったら潔くあきらめようと。そこでサイズも大判から小さくして、読み物主体に変えていった。それが2年目のことです」
この転機に合わせて表紙のイラストもフランス人のヴォジテク・シュドマクさんに変わりました。後に「ムー」の代名詞となる「表紙に『目』が入っているデザイン」は、このシュドマクさんの絵から発案したものです。
「シュドマクは絵が面白くて、3号分ほど使わせてもらいました。その中でも、女性が『目』のある岩の上に立っているイラスト(1980年7月号)は気に入って、これ以降は表紙に『目』を入れるようになりました」
なぜ、表紙に目のあることが重要だと?
「他人の顔でまず見るのは目です。これと同じように表紙に目を入れたら、まさに書店で目につくわけです。それだけ人間の目というのは惹きつける力が強いんですね。ただ、男性の目だと怖くなってしまうので、基本的には女性の目を入れるようにしています」
【関連リンク】
・ケトル VOL.43(ムー特集号)
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