1月4日に行われる新日本プロレスの東京ドーム大会で、チャレンジャー・棚橋弘至の挑戦を受けるIWGPヘビー級王者・ケニー・オメガ。世界トップレベルのテクニックとパフォーマンスでプロレスファンを熱狂させ、“ベスト・バウト・マシン”として知られる彼ですが、これまで歩んできた道のりは、決して平坦なものではありませんでした。「ケトルVOL.46」で、ケニーはこのように語っています。
「子どもの頃からプロレスラーに憧れていた。WWF(現在のWWE)が好きで、ハルク・ホーガンやランディ・サベージに夢中になった。当時の私はアイスホッケーの選手でもあり、大学のスカラシップ(奨学金)がもらえるほどいい成績を収めていた。でも断った。どうしてもプロレスラーになりたかったんだ」
出身はカナダのマニトバ州ウィニペグ。ここでケニーは10代の頃から自身が“バックヤードレスリング”と呼ぶ自主興行を行っていました。自宅の庭や公園に簡易的なリングを作り、そこでプロレスを披露するもので、観客はもっぱら地元の友人たち。「日本の学生プロレスのようなものだよ」とケニーは言います。
「テクニックは全然なかったけど、それでも友人たちは喜んでくれた。私のプロレスから何かを感じ取ってくれたんだ。だから、ちゃんとトレーニングをして、いろんなプロレスのスタイルを学んだら、もっと観客にいろんなものを与えることができるんじゃないかと思ったよ」
その後はWWEの下部団体に所属してみたものの、目指す方向性の違いから1年余りで離脱。「ビジネスのやり方が面白くなくて、ここは本当の自分が出せる場所ではないと思った」と振り返ります。それからケニーはプロレスの可能性を追求するため、リングの外、湖や砂山などあらゆる場所で試合を行っていきました。その過激なスタイルによりついたニックネームが“カナダの路上王”です。
「ずっと自分を表現できる一番いい方法を探して、いろんな失敗もした。でも、そうしたらDDTで飯伏さんを見つけたんだ」
当時は日本の小さなインディー団体だったDDTは、「路上プロレス」に代表される型破りな興行で話題を集めていました。その中心人物だったのが、後に“愛する人”と呼ぶようになる飯伏幸太です。自分と同じようなプロレスをやる男が日本にいる。こいつと一緒なら世界を変えることができるかもしれない──。そしてケニーはDDTに参戦するため、2008年8月に初来日を果たし、やがて飯伏を追う形で新日本へ移籍。今や堂々たる新日本のチャンピオンへと上り詰めたのでした。
◆ケトルVOL.46(2018年12月15日発売)
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