雑誌『ケトル』は、6月号として「みんなの大好き」特集を制作中。みんなの大好きをつくる方々と、各々が好きなものに焦点を当てた内容になります。そして現在、note公式アカウントでは、特集「みんなの大好き」にちなんで「#わたしの大好き」をテーマに1000〜1500字のコラム・エッセイを募集中。新型コロナウイルスによって、人と人だけではなく様々なものと距離を取らざるを得ない日々が続きますが、「いまは触れらないが、収束後は……」「外では難しいが、今は家の中で楽しんでいる」「あらためて自分にとって大切なものだと気づいた」など、大好きなものや、愛が深まったものへの想いを寄稿いただいてます。今回はその中から、石倉康司さんの原稿を紹介させてください。
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開演のチャイムが鳴り、明かりがふっと落ちる。暗闇の中でスクリーンにぱっと映画が映る瞬間は、何歳になっても「映画が大きな画面で、大きな音で観れるぞ」という喜びで胸が躍る。僕は映画館で映画を観ることが大好きだ。
もちろん家で映画を観るのも楽しいし、感動する。なぜ、映画館がそこまで好きなのだろう。大きな画面も大きな音も、場所さえあれば家で用意できるのに、なぜだろう。
僕は思う。劇場のあの空間に大勢の他人がいるのがいいのだ。知らない人たちを同じものを観て、それぞれ感動したり、悲しくなったり、笑ったり、怒ったりするのがいいのだ。なんだか、あの暗闇の中で僕たちは友達になった気すらしてしまう、というのはちょっと変だろうか。
当たり前だけど、他人が一つの場所に集まるあの空間は、不意の出来事や出会いにあふれている。昨年『アス』という映画を観に行ったときのことだ。僕の隣にとある親子が座った。母親と娘で映画に来たのだろう。親子で映画、いいなぁ、と思っていると映画が始まった。
その映画は、不穏な描写に始まり、痛々しいシーンが満載の、まぁ僕は大好物の作品だったのだ。隣に座るお母さんは、「あら……すごい……血が……えっ……大丈夫なのこれ……」と呟きながら、ある意味でものすごく映画を楽しんでいた。もちろん映画は大変面白かったが、僕は“隣に座っためちゃくちゃ怖がって鑑賞する人”が居たということが、体験として映画を楽しむ要素になって、忘れられない一本になったのだ。もうほんと、観終わったあと「怖かったですねぇ」と話しかけたかったほどだ。
こんなこともあった。吉祥寺にバウスシアターという映画館があったころ。爆音映画祭という素晴らしき映画祭があり、大好きな『キャリー(1976)』が上映されるというので僕は観に行った。この映画は終盤にあっと驚く恐怖シーンがあるのだが、そのシーンのときに、僕の前方に座る人たちが皆「ビクッ!」となって身体がぴょんと一瞬浮いたのだ。(僕は何度も観て知っているのでそこまでは驚きはしなかった)
未だに、この時跳ねた人々の動きは鮮明に思い出せる。あれ、びっくりするよね。爆音だものねぇ。ふふふ。
はたまた、今度は新橋文化劇場という名画座で『チャップリンの独裁者』を観に行ったときのこと。チャップリンの演説シーンで、僕は涙が止まらなくなり、鼻をすすりながら観ていた。すると、もらい泣きしたのか隣に座っていた女性の鼻をすする音が聞こえてきた。鑑賞後、ちらと隣を見ると、目を真っ赤にしたマダムがはにかみながらペコリとしてきたのだ(多分僕も泣きすぎて目が真っ赤だったはずだ)。世代が違えど、共に感動出来たことが僕は凄く嬉しかったのを覚えている。これも忘れられない映画体験だ。
大勢の知らない人たちと、驚き、笑い、怒り、泣く。この経験の豊かさは、家では味わえないことだ。その場限りの、2時間の友人たち。みんな、今なにしてる? 落ち着いたら、また一緒に同じスクリーンで映画を楽しもう。その時を、僕は心より楽しみにしているよ。
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いただいた言葉の一つ一つが、また誰かの文化との出会いになれば幸いです。お好きなものについてぜひご寄稿ください。宜しくお願い申し上げます。
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コラム/エッセイと同テーマ「#わたしの大好き」でTwitterでも想いをつぶやいていただけると嬉しいです。#わたしの大好き とともにTwitterでつぶやかれた言葉を誌面に載せさせていただければと存じます。
新型コロナウイルスによって、人と人だけではなく、好きなもの自体と距離を取らざるをえなくなったことが多くあると思います。大好きなものへの想いを #わたしの大好き とともにお教えくださいませ。投稿いただいた言葉の中から、雑誌『ケトル』6月号紙面でも掲載させていただければ幸いです。 pic.twitter.com/BTt6TQfdf3
— 太 田 出 版 ケ ト ル ニ ュ ー ス (@ohta_kettle) May 1, 2020