東京進出①/『山口組東京進出第一号 「西」からひとりで来た男』より

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山口組について語られなかったエピソード・ゼロを記した『山口組東京進出第一号 「西」からひとりで来た男』(著・藤原良)が3月19日に太田出版より刊行されました。

本書では、関西(神戸)で生まれ今でこそ全国に名を馳せる山口組が、関東(東京)で最初期にどのようにして活動基盤を築いていったのか、その道のりが書かれています。

OHTABOOKSTANDでは、全六回にわたって本文の一部を試し読み公開します。第二回は、第二章より山口組がどのように西日本で名を広げ、そして関東へと勢力を伸ばしたのかを紹介します。「喧嘩なんやから勝たんとアカンでしょ」という山口組の精神は徐々に山口組を大きな組織にしていきます…。

※本書は、暴力団や反社会的集団による犯罪・暴力行為自体を肯定したり助長するものではありません。

名もなき菱の代紋

 神戸には資本力、戦闘力ともに日本で最大の暴力団・山口組が本拠を構えている。
百年以上もの歴史を持つこの組織は、そもそも大正時代の神戸港界隈で沖仲士をしていた数十人のヤクザたちが集まって誕生した小さな組だった。
 
 1946年、中興の祖とされる田岡一雄が三代目組長に就任してから、山口組は度重なる抗争を繰り返して、その勢力範囲を全国各地に拡大させた。
 
 山口組による全国侵攻の先駆けとされる徳島県内で勃発した小松島抗争(1956年)も、組員同士の面子を巡る個人的な争いが発端だった。
 
 後に『喧嘩の山口組』と呼ばれるほどの戦闘力を誇った山口組はその後も全国に侵攻していったが、常に利権拡張を目的とした抗争だけを起こしていたわけではなかった。
ただ「喧嘩に勝ちたい」という精神で抗争を繰り広げていた部分もある。
 
 元三代目山口組二次団体幹部の沢木氏(仮名)は

「喧嘩になれば、助っ人(応援部隊)で行くでしょ。理由(喧嘩の原因)なんか知らんでも、行った以上は喧嘩なんやから勝たんとアカンでしょ。
それがあっちこっちで次々と起こったわけや。それで勝ちまくった結果、西日本に山口組の二次団体やその系列が沢山できたんや。そういう行動が全国に広まっていったんやな」

と振り返った。

 当時は高度経済成長の真っ只中で、様々な産業が各地で続々と生まれていた。パチンコ店の進出も新興産業の代表的な光景だった。

 機械仕掛けのパチンコは、それまでの博奕とは違った新しいギャンブルだった。
すでに大正時代から現代のパチンコの原型ともいえる機器が世間に広まっており、第二次世界大戦中の日本では不要不急の産業として全面禁止にされたものの終戦後に復活した。1948年の風営法制定により許可営業方式になると空前のパチンコブームが訪れた。
そして当時の暴力団業界も、この新興産業を手中におさめようとした。

 ある西日本の県は古くからA組という暴力団の拠点だった。そこに県外のパチンコ店が新店をオープンした。そのパチンコ店のオーナーと山口組幹部が旧知の仲だったことから、そのパチンコ店はA組にではなく山口組にみかじめ料を渡していた。

 その結果、A組の地元には山口組の人間が頻繁に出入りするようになった。

 A組は昔ながらの博奕をシノギとし、山口組はパチンコ関連をシノギとしてシノギの棲み分けがなされていたのでバッティングすることはなかったが、A組のほうは、縄張りという概念はなくとも余所者が地元をウロつくことを目障りに感じつつあった。
そして余所者である山口組とA組の組員間で個人的な小競り合いが始まり、やがて組織的な抗争に進展してしまった。

 「喧嘩なんやから勝たんとアカンでしょ」という精神の山口組は抗争に挑み続けた。

 抗争に参加した沢木氏は

「あそこ(三代目山口組二次団体)が勝ったとなれば、こっち(自分の組)も勝って評判をあげな、やるからには頑張らんとってなるでしょ? 言うたらもう競い合いみたいな雰囲気もあったよね」

と当時の組内の空気感を明かした。

 関東のような縄張りというセーフティゾーンがなかっただけに、西日本では常に何かあればそこがたちまち戦場に変わる時代が続いた。
その状況下で頭角を現した山口組は西日本各地で『喧嘩の山口組』と呼ばれるようになった。

 大正時代に港湾労働者たちの集団から始まった山口組は、当時の暴力団にしては珍しく、多くの組員が違法薬物や違法賭博のみに頼ることなく、港湾、海運、運送、土建などの正業を持ち、ほかの組織と比べて経済的に安定した組員も多かった。
そのような状況もあってか関東圏で見受けられた縄張りの利権争いよりも、暴力団と呼ばれている以上は必ず『喧嘩に勝たなければならない』という一念を達成したいがための抗争が多かったようにみえる。

 1950年代における山口組は各地の組織に比べれば、江戸時代から続く老舗組織でもなく、外部の評価としては単なる『小さな喧嘩屋集団』という認識で占められており、全国侵攻を開始していたとはいえ、知名度はまだまだ「神戸に勢いのある組があるらしいな」「最近、神戸にあるナントカいう組が西日本で喧嘩を繰り返しているようだ」と言われているに過ぎなかった。

 1960年代、関東の老舗暴力団・住吉会の元最高顧問で、この当時『東京・赤坂の天皇』と呼ばれた浜本政吉ですら、古くから親交があった菅谷政雄(元三代目山口組若頭補佐)との雑談で

「神戸にいるボンノって奴が凄い勢いなんだってな。どんな奴なんだい?」

と話していたそうである。ボンノとは菅谷本人のニックネームであった。

 このように西日本各地で山口組による喧嘩の勝ち星が目立ちはじめ、徐々にその名が全国に浸透していた時期であったが、関東では山口組の名をまだ知らない暴力団員たちも大勢いた。

 暴力団員は誰もが当然のように暴力団情勢に詳しい研究家と思うのは間違いだ。
また山口組が起こす抗争が常に全国レベルの報道がされるほどのバリューもなかったので、世間に知らされることなく抗争の当事者のみが山口組の恐ろしさに直面するという状況も多かった。

 全国的な知名度で言えば、同じ神戸を本拠地としていた本多会の方が当時は有名だった。
すでに数千人規模の大組織となり、各都道府県に兄弟分や傘下団体、関連企業を多く持っていたため、暴力団業界だけではなく実業界でもその名を広く知られていた。

 そんな状況下にあった1964年、警視庁と各県警本部が全国各地に点在していた暴力団壊滅を目指し、第一次頂上作戦が展開された。

 西日本各地での抗争事件数が多い山口組も広域暴力団のひとつに指定されたが、その担当は山口組の本拠地がある神戸を取り締まる兵庫県警のみで、当時の山口組はまだ全国組織としての扱いを受けてはいなかった。

 1972年、関東の興行界で力を誇っていた浅草・山春一門の紹介が縁で、関東の老舗暴力団・稲川一家(名称当時)で理事長を務めていた石井隆匡と三代目山口組若頭の山本健一が五分兄弟盃を交わした。
また、のちに稲川会専務理事となる趙春樹と当時の三代目山口組若頭補佐・益田佳於も五分兄弟となり、稲川会と山口組が正式な親戚関係を結んだことで山口組の名がようやく関東でも知られるようになった。

* * *

80年代初め、東と西の「境界」はいかにして崩れたか?知られざる最初期の拠点選びから単独隠密行動、そして拡大まで。「シマ荒らし」はいつも静かにはじまる――。

1980年代、神戸の山口組四代目組長(当時)・竹中正久が率いた初代竹中組の最高幹部でありかつ「山口組東京進出の一番手」として、当時まだ山口組組員がひとりもいなかった東京に単身乗り込み、“たったひとりの山口組”として在京勢力と戦い、その後の東京での山口組の初期地盤を築いた男のドキュメント。

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