来年1月の生誕100年を前に、三島由紀夫が愛した店や旅行先、執筆場所や作品の舞台などを紹介するガイドブック『三島由紀夫 街歩き手帖』が、8月20日(火)に刊行されます。全三部構成で、現在も営業中の飲食店やホテル、観光地、風景を手がかりに、三島とその作品に迫る本書(一部、休業・閉店中のものを含みます)。第三部では遺作となった大作『豊饒の海』四部作の謎解きも試みられています。
わたしは作品論や作家論を、このガイドブックに託そうとしているわけではない。三島由紀夫の作家論や評伝は膨大である。それらに感銘をうけ、新たな発見に愕かされることも少なくなかった。これほど評者たちに愛された作家は珍しい。だがその多くは、評者たちの思想や哲学のなかで加工され、あるいは観念化・独自化されたものだ。その理由も、三島の仕掛けた「謎」の大きさによるのだ。そこで本書は、ひたすら作品の解説につとめることで、「謎解き」のための「事実」のみを明らかにしよう。言うまでもなくそれは、三島が語った「事実」である。
刊行を記念して、OHTABOOKSTANDにて、本文の一部を全6回にわたって公開します。ゆかりの地に行き、思いをはせる三島作品の新しい読書ガイドブックをお楽しみください。
三島が取材でここを訪れたのは、昭和四五年四月十九日と二十日のことである。この時期はすでに、十一月の市ヶ谷蹶起の計画が日程に上っていた。
八月十日にも下田から漁船をチャーターして、清水港に取材している。『天人五衰』の透が勤務していた通信社のコンクリートの建物は移設され、記念の標識に「主人公ゆかりの地」と表示されている。
肉体こそが美である
『天人五衰』が衰亡の物語であるならば、美もまた衰亡するものであった。
それでは美しい心身の境地とは、人間に属さないものなのだろうか。そうなのだ、そもそも美は肉体にしか属さない、と三島は云うであろう。本多が松久慶子に語って聴かせるシーンだ。
「人間の美しさ、肉体的にも精神的にも、およそ美に属するものは、無知と迷蒙からしか生まれないね。知っていてなお美しいなどということは許されない。同じ無知と迷蒙なら、それを隠すのに何ものも持たない精神と、それを隠すのに輝やかしい肉を以てする肉体とでは、勝負にならない。人間にとって本筋の美しさは、肉体美にしかないわけさ」
蓄積によって研ぎ澄まされる知性の美、様式をかたどってもたらされる美しさ。あるいは心根の美しさなどは、許されないというのだ。無知と迷蒙にこそ、美がやどる、と。
人間は心身とも、知識を得ることで美をうしなう。一見して矛盾するような審美評価は、三島が持っている頑迷なまでの確信である。肉体はともかく、ふつう心の成熟は修練や精進によるものではないか。悟性や高次な境地といったものは、経験値によって得られるはずだ。
いや、世俗の経験や知識の蓄積が、かえって悪意の取得や愚劣な考えを蓄積させる。ひとことで言えば、それが老残というものであろう。三島は老いることを厭い、ひたすら美しい天折を望んだ。危険な思想の淵源は、じつはそこにあったのだ。
作品の構想は変化した
『天人五衰』の創作ノートには「本多はすでに老境。……ついに七八歳で死せんとすとき、一八歳の少年現れ……この少年のしるしを見て、本多はいたくよろこび、自己解脱の契機をつかむ。……本多死なんとして解脱に入る時、光明の空へ船出せんとする少年の姿、窓ごしに見ゆ。(バルタザールの死)」とある。
解脱は輪廻から解きはなれることであって、そこに輪廻転生の物語の大団円が想定されていたと考えられる。「バルタザール」とはプルーストの『バルダサール・シルヴァントの死』の主人公で、幸福な死を迎えるという意味であろう(『幻の遺作を読む』井上隆史)。
初期の創作ノートによれば『春の雪』が恋愛小説の「和魂」、第二部の『奔馬』は行動小説としての「荒魂」、第三部の『晩の寺』はエキゾチックな「奇魂」、そして第四部の『天人五衰』は「幸魂」へと導かれるはずだった。じっさいに書かれた最後の長編作品の結末は、しかしそうではなかった。最初からそうではなかったはずだ。
幸福な大団円などというものを、そもそも三島が作品の中に計画したことに、われわれは驚愕する。何もない「空」に、容れられる幸福はないはずではないか。
結論からいえば、安永透という本多によく似た人物を生まれ変わりに設定したことから、計画はおおきく曲がらざるをえなかった。なぜならば安永透の「悪意」はそのまま、本多のものだからである。二十歳になって死ぬ運命にある少年を、自分の養子にするという悪趣味を、われわれ読者は、覗き見をしたい欲望と同伴して読み進めてしまう。その段階で、三島(本多)の悪意は成功したのだ。
そして頭脳明晰な本多が見込んだとおり、透は頭が良すぎた。お互いに傷つけあう明晰な頭脳の関係に、「幸魂」などあろうはずがない。悪意は暴力に変わり、善は策略をきわめる。
しかも十数億単位の財産の存在が、本多をとりまく人々の関係をひき裂くのだ。あからさまに、財産目当ての縁談が持ち込まれてくる。悪意と悪意が対立すれば、あとは残酷な化かし合いだけである。読んでいるわれわれの気持がすさんでくることまで、作家は意図しただろうか――。
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文学には「住所」がある。
三島作品の舞台や執筆場となった、数々の店や場所、風景。
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