森友学園、加計学園のいわゆる「モリカケ問題」や財務省の書類改ざん問題など、国会ではこの数年間、嘘がまかり通ってきた。選挙を経て国民の信託を得た政治家は、誰もが羨むような学歴や経歴の持ち主ばかりだが、そのような人物が集まった場で、なぜあのような茶番が繰り返されるのか。
政界きっての論客である立憲民主党幹事長・福山哲郎と精神科医の斎藤環が、この4年間、この国で何が起こってきたのかを解き明かす『フェイクの時代に隠されていること』を、7月13日(金)に発売した。同書の中で斎藤は、「なぜ政治家は馬鹿になるのか?」という誰もが抱く疑問について、このように分析している。
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本書のタイトル案は、はじめ「なぜ政治家は馬鹿になるのか」だった。その後対談を重ねるなかで、福山さんからの強い「抵抗」(笑)もあり、現タイトルに落ちついたわけだが、結果的にそれで良かったと考えている。
この対談が企画されたのは約三年半前のことだった。それまで私は精神科医として、基本的には政治には深くコミットしない姿勢を維持していたが、東日本大震災と原発事故をきっかけに、否応なしに政治的発言をせざるを得ない立場になっていた。そんな折、「新しいリベラル」を考えようという趣旨の福山哲郎さんが主催する勉強会に誘われた。2014年のことだ。ここから福山さんとのご縁が生まれ、今回の対談にもつながったのである。
この三年半の間、安倍政権がいかに信じがたい迷走を重ねてきたかは、福山さんの「おわりに」に詳しい。ひとつの政権がこれほど高頻度に出鱈目をやらかしたことはおそらく前例がなく、その意味でも歴史に残る汚点というべき状況が今なお続いている。冒頭で述べた元々のタイトルは、そんな状況を眺め続けたなかから浮かび上がってきた、ごく自然な疑問だった。あの愚かしさは戦略なのか生得的なものなのか、あるいは「民度」を持ち出すべきなのか。
日本の政治家は基本的にはエリートコースを歩んできた者が少なくない。にもかかわらず、政治家として頭角を現してくると、なぜあれほど愚かしい振る舞いに陥ってしまうのだろうか。実に不可解としか言いようがない。安倍内閣のメンバーはもとより、対談中に出てくる鳩山由紀夫元総理にしても、学歴を見れば超のつくエリート(東京大、スタンフォード大博士課程卒)であり、知能においてトップクラスの人材であることは疑いようもない。しかし、総理としての彼の業績を評価する声は、「リベラル」の側にも今やほとんど存在しない。
本文中では詳しく触れる機会がなかったが、私自身はその原因のひとつが、いわゆる「ドブ板選挙」的なものであると確信している。想田和広監督の映画『選挙』『選挙2』を観ればその構図がよくわかる。二作品の主人公である元川崎市議の山内和彦著『自民党で選挙と議員をやりました』(角川SSC新書、2007年)にも、ドブ板選挙の構造がかなり詳しく記されている。
氏名を大書したタスキを掛け、白手袋をはめ、駅頭では市民に頭を下げつつ自らの名前を連呼し、選挙カーで街を練り歩き、当選すれば万歳三唱でダルマに眼を入れる。こうした我が国の選挙スタイルが、国際的な視点から見て、いかに特殊なものであるかを、想田監督は身も蓋もなく描き出す。
ひとことで言えば、日本の選挙は、組織力と資金がある方が圧倒的に有利なのだ。断っておくが、これは必ずしも「金権選挙」という意味ではない。いわゆる「地盤・看板・カバン(金)」の三バンが重視される、ということだ。自民党候補者の強さは、地元の後援会の組織力の強さによって支えられている。詳述はしないが、この構造は公職選挙法という縛りに過剰適応するなかで独自進化を遂げてきた、一種の伝統芸のごときものなのである。
ひとたび立候補すれば、候補者の周りには先輩格の議員や選挙運動のプロのような人たちが現れて、上から目線であれこれと指示を出す。どの有力者に挨拶に行け、どこそこの運動会に顔を出せ、などなど。当選のためには個人の美意識やプライドは徹底して抑えこまれ、ひたすら群衆の前で自分の名前を連呼し、握手とビラ配り。この過程が私には、カルトや自己啓発セミナーの洗脳と同じに見えて仕方がないのだ。洗脳と言って悪ければ、一種の「去勢」である。
容易に見て取れるように、日本の選挙制度においては「頭の良さ」にはさしたる価値が置かれない。「政治的な正しさ」についても同様だ。そもそも政策を訴えたり、他の候補と討論したりする機会が圧倒的に限られている。理想を語るよりも汗をかけ、ひとりでも多くの有権者に名前と顔を覚えてもらえ、これが現場のルールなのである。いささか我田引水めくが、こうしたルールの背景にあるものは、私がかねてから提唱している「ヤンキー文化」にほかならない。
そういえば私が安倍内閣の反知性主義ぶりを「ヤンキー政権」と朝日新聞紙上で揶揄したのが2012年(12月27日)だった。その見解はこの六年間で変わるどころかいっそう強化されてしまった。まことに残念なことだ。
多くの政治家が、当初は青雲の志を抱いて立候補を決意したであろうことを私は疑わない。この国を、この社会を少しでも良くしたいという願いは、間違いなくあったはずなのだ。しかし、選挙の洗礼を重ねるごとに、彼(彼女)の願いは削られ抑え込まれ、矮小化させられていくのではないか。国家の利益から党の利益、地元の利益へ、さらには後援会の利益や意向を最優先にせざるを得なくなるような視野の狭窄化が、そこで生じているのではないか。そして最終的には「とにかく政治家であり続けること」が自己目的化していくのだろう。ちょうど多くの官僚が、国を良くしたいという当初の理想―それは確実にあったはずだ―から、省内での出世や省益を最優先とするような態度へと“洗脳”されていくように。
政治家が愚かになっていく過程はつまるところ、高邁な初心が、慣例や因習、しがらみや内輪意識に敗北していく過程であるという、かなり凡庸な結論に落ちつきそうだ。
意外に思われるかもしれないが、私は歴代総理のなかでは小泉純一郎を比較的高く評価している。それは彼が精神医学で言うところの「分裂気質」であり、群れることを嫌い単独行動が多い人物であったことへの親近感ゆえでもある。しかし顧みれば、彼はまさにそれゆえにこそ、内輪にもしがらみにも取り込まれず、さまざまな慣例を次々と破壊できたのではなかったか。異論もあろうが個人的には、彼と福田康夫元総理(公文書管理法を制定した)の二人が、知性を感じさせる最後の総理、という印象である。
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こういったシステムが出来上がってしまったのも国民の要請なのかもしれないが、改めてその構造を説明されると、国民は溜息をつかざるを得ない。思えば、こういったシステムを作り上げたところが、政治家の賢さなのだろうか……。
同書ではこの他、忖度がなぜ暴走したのか、真実よりもフェイクが氾濫する理由、最悪の法改正案、増え続けるひきこもり、続く貧困と差別など、「政治の現場」と「精神分析」の視点から、この時代の裏で起こっていた事を解説している。『フェイクの時代に隠されていること』は、2018年7月13日(金)に発売。2200円+税。
【関連リンク】
・フェイクの時代に隠されていること-太田出版
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