ゼロ年代の音楽を振り返ると、iPod、夏フェス、スマートフォンやSNS、ボーカロイド、アニソンなど、時代を読み解くキーワードがいくつかありますが、「日本語ラップ」もその1つ。日本語ラップがメジャー化したのもゼロ年代でした。
きっかけは1999年にリリースされたDragon Ashのシングル「Grateful Days」。90年代から日本語ラップをリードしてきたキングギドラのZEEBRA による「俺は東京生まれHip Hop 育ち 悪そなやつはだいたい友達」というフレーズが有名な同曲の大ヒットにより、それまでアンダーグラウンドなものだったヒップホップをお茶の間に届けることに成功したのです。
こうして幕を開けたゼロ年代の日本語ラップシーンからは、KICK THE CAN CREWやRIP SLYME といったメジャーで活躍するグループやMCが誕生します。カラオケの人気チャートに日本語ラップの曲がランクインすることも増え、ヒップホップが身近なものになっていきました。
一方、日本語ラップのメジャー化に対して、インディーズにこだわり、自分たちの流儀を貫くラッパーたちも数多く存在していました。そうしたラッパーたちがスキルを競い合ったのがMCバトル。「B BOY PARK」や「ULTIMATE MC BATTLE」などの大会は、東京だけでなく、地方の若手ラッパーたちにもシーンの注目を集める機会を与え、各地の才能を掘り起こすことに貢献しました。MCバトルの浸透には、主演のエミネムが劇中でバトルを披露する映画『8 Mile』(2003年)のヒットも大きく影響しました。
90年代までの日本語ラップのシーンはZEEBRA が「東京生まれHip Hop 育ち」とライムしたように、長らく東京が中心でした。しかしゼロ年代に入って日本語ラップがチャートを賑わせるようになると、東京から地方に波及し、それぞれの地元感覚に根付いたラップが生まれていきます。そうした日本語ラップの多様化がメジャーとインディーズの双方からシーンを活性化させ、近年ブレークしたMCバトル番組「フリースタイルダンジョン」につながる流れを生み出していくのです。
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