KUSHIDA 「僕のプロレス人生は衣食住を確保するための闘いから始まった」

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2017年、ジュニア最強決定戦の「BEST OF THE SUPER Jr. 24」で優勝し、ジュニアヘビー王者になったKUSHIDA。彼は子どもの頃からプロレスラーに憧れていましたが、「自分がなれるとは思っていなかった」と言います。なぜなら、そもそも当時の新日本は入門テストを受けるための条件に「身長180センチ以上」を課していたから。ケトルVOL.46で、KUSHIDAはこう語っています。

「あの募集要項を見たときの絶望感はすごかったです。それで悶々とした青春時代を送っていたんですが、中学3年生のとき、近所に高田道場ができるんですよ。僕はグレート・サスケさん(みちのくプロレス)の『サスケが翔ぶ』という自伝に、ものすごく影響されたんですが、そこに『学生時代に神のお告げがあってプロレスラーになると決めた』と書いてあって。『これがサスケさんの言っていた“神のお告げ”か!』って思いましたね」

プロレスラーで格闘家の高田延彦が設立した道場で、レスリングや総合格闘技の技術を学んだKUSHIDA。次第に総合格闘技の基礎も身について、大会にも出場するようになり、「プロレスラーになりたい」という思いは募るばかりでした。

「どうするか悩んだ結果、メキシコに行くことにしました。ライガーさんが雑誌のインタビューで、『背が低いから同じような体格の選手が活躍しているメキシコに行った』と語っていたことを鵜呑みにしたんです。あの一文に人生を狂わされました(笑)」

ほとんど思いつきでメキシコに向かったものの、いくつかの幸運が重なり、現地最大のプロレス団体「CMLL」の道場に潜り込むことに成功。言葉が通じない中でも必死に練習に取り組み、念願のプロレスデビューも果たしました。

それから1年後、高田延彦が中心となり、当時ブームとなっていた「ハッスル」のオーディションに参加するために帰国すると、その素質を買われて同団体の練習生として入団。WWEでも活躍したレスラー、TAJIRIの内弟子になり、2009年に「ハッスル」を退団すると、TAJIRIが旗揚げした「SMASH」に合流します。そして翌年5月には新日本が主催する「SUPER J TAG トーナメント」に外道選手と参戦。これが子どもの頃から夢見た新日本のリングに初めて上った瞬間でした。

「そのときのことは今でも覚えていますよ。『ハッスル』は非常に特殊な団体(ファイティング・オペラを標榜し、コメディ要素もふんだんに盛り込んだ興行で人気を集めた)でしたから、新日本のお客さんの反発がすごかった。『ハッスルに帰れ!』ってヤジが飛んできましたね。『ハッスルは潰れたんだけど……』と思いながら試合をしたことを覚えています。あの頃はまだ、正統派のプロレスラーしか認めないって雰囲気が新日本の客席にはあったんですよ」

そういった雰囲気を見返してやるという思いがあったのか、初参戦直前の団体公式サイトのインタビューでは、〈大きな団体にいるのはラクチンというか、新日本プロレスとか全日本プロレスという名前があるだけで海外でも仕事がもらえるんですよ。僕はとくに後ろ盾もないまま、仕事をしてきましたから。「うらやましい」って反面、「そんなの実力じゃねぇだろ?」〉という挑発的な言葉を残しています。

「そんなことを言っていたんだ。尖ってるなあ(笑)。でも、そうやって一生懸命に背伸びしないと自分が参戦する意味はないと思っていました。僕のプロレス人生は衣食住を確保するための闘いから始まっているんですよね。そこからいろんな経緯があって新日本にたどり着いた。紆余曲折ありましたけど、たくさんの経験をしてきたことは今でも僕のアイデンティティになっています」

1月4日の東京ドーム大会終了後に、海外参戦を理由に新日本を退団することを発表したKUSHIDAですが、メキシコ修行を経てプロレスに飛び込んだ“タイム・スプリッター”は、また一層大きくなって、いつの日か我々の前に姿を現してくれそうです。

【関連リンク】
ケトルVOL.46

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※この記事は、「太田出版ケトルニュース」に当時掲載した内容を当サイトに移設したものです。

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