音楽を媒介に、一大ムーブメントとして広がっていった「渋谷系」。その洗練されたイメージを形成した大きな要素がデザインでした。中でも重要な役割を担ったのが、フリッパーズ・ギター、コーネリアス、ピチカート・ファイヴなどのCDジャケットを手がけたアート・ディレクターの信藤三雄さんです。信藤さんは『ケトルVOL.48』で、こう語っています。
「初めは渋谷系云々なんてことは意識してなかったんですよ。そんな言葉もなかったし。ただ、フリッパーズも、ピチカートが88年に出した『ベリッシマ』の時も頭にあった気分は、アンチロックでした。昭和の終わり、平成の始まりの時期は、ロックもかなり成熟して、音楽的にもファッション的にもルーティン化していたんです。
それに対して、僕は『そんなものはロックじゃねえ』って思っていた。時代の流れか、小西康陽くんや小山田(圭吾)くんや小沢(健二)くんは、同じようなアティチュードを持っていたんです。だから、それをデザインとして昇華するにはどうしようかなというのは、常に考えていましたね」
音楽が産業として急成長を遂げた昭和を経て、ロックといえば、アイドルといえば、ポップスといえばという大衆イメージも固まってきていた80年代末。既成概念を壊すことが、そもそもの始まりだったということです。そこで信藤さんが何よりも大切にしたのはユーモアだったとのことですが、それはどういう意味なのでしょうか。
「素直にそのまま……ではなくて、捻ってベクトルを変えて表現するのが面白いと。それにはユーモアが必要なんです。パスティーシュ的なものが僕のデザインには多いわけですが、そのままやったらただのパクリ。でも、アーティストが目指している方向性に合致させながら、元ネタを仕込むかたちでウインクする。渋谷系の音楽自体がそういうものだったでしょ。
DJというか、ヒップホップというか、組み合わせには当人の審美眼が必要だし、かたちを変えて作品にするにはユーモアのセンスが必要になってくる。今考えると、時代の気分と僕の気分も合っていたんですよね。だから若い人たちと一緒にできた。ロック的な言語は使わずにやるぞって」
ロック的でないことによってロックを体現しようとした信藤さんですが、それが実現できたのは「それが許されたから」だと言います。
「仕事をするアーティストにも恵まれたんですね。捻ったデザインなんていらないと言われたらそれまでじゃないですか。でも、一緒に面白がってくれたんです。僕に仕事がたくさん舞い込むようになったのは間違いなく彼らとの出会いのおかげだし、当時もう40歳ぐらいだった。遅咲きなんです。やっと気が合う人たちに巡り会えたって思いましたよ」
本人たちの才能はもちろんのこと、出会いとタイミングの良さがムーブメントの広がりに一役買ったのも間違いないよう。凝り固まった概念を壊すロック精神が、音楽とシンクロしたデザインを生んだのでした。
◆ケトルVOL.48(2019年4月16日発売)
【関連リンク】
・ケトルVOL.48
【関連記事】
・カバーされ続ける『今夜はブギー・バック』 それぞれの魅力
・フリッパーズ・ギターが特別だった理由 「何を選んで、何を選ばないか」
・「渋谷系」とは何だったのか? “最後の渋谷系”が当時を語る
・渋谷系ファッション トレンドの最先端を行く鍵は「反射神経」だった