『あなたのことはそれほど』『G線上のあなたと私』『潔く柔く』『いとしのニーナ』など、数々の作品が映像化されている漫画家のいくえみ綾さん。作品の魅力は数知れませんが、静止画でありながら映像作品のように見ることができるのもその1つです。映画監督としてヒット作を生み出す一方、写真家や文筆家としても活躍する枝優花さんは、瞳の描き方にポイントがあると指摘します。ケトルVOL.57で、枝さんはこう語っています。
「ほかの漫画だと、キャラクターの瞳は基本的にベースがあって、表情によって変わるというイメージがあります。でも、いくえみ先生の描く瞳は、どれが基本の形なのかわからない。『デフォルト』とされているものがなくて、角度や表情で変化をつけている。それでいて、どのキャラクターなのかがちゃんとわかるのがすごいと思いますし、瞳をどうやって使い分けているんだろうと不思議に思います。
私たちも日々の生活で同じように、表情や目の動きで感情を表現していますよね。だからリアリティがあるというか、映像的な漫画として成立しているのかもしれません」
枝さんが最初にいくえみ作品を読んだのは、映画監督としてデビューする前の学生時代のこと。「コマによって、瞳の色を黒と白に使い分けるだけで、表情がガラッと変わる」と、“目で語るシーン”の巧みさを説く枝さんは、大事な場面ほど情報量を減らして表現する作中で扱われるテクニックにも驚いたそうです。
「物語の核心では、背景がほとんど描かれなくて、キャラクターが本音をポロっとこぼしたり、ドキッとするような場面は、黒のカットバックだけのことが多いですよね。
たとえば、心が『バキッ』と折れるような擬音や、汗が『サー』っと流れるような描写など、漫画だからこそできる表現技法はたくさんあると思うのですが、いくえみ先生の作品は大事な場面ほど、極限まで情報を削って、瞳の色や繊細な表情の作りだけで完結させます。これは漫画だからこそできることですし、削ることでリアリティを伝えられるということは、今まで漫画を読んできたなかで、初めて気づきました。
そして、素直に羨ましいと感じるのは『デフォルメ』です。コミカルなシーンでは顔を丸っぽくしたり、ゆるキャラのような表情をしたりするだけで、物語の空気をガラッと変えることができる。実写の映像では、音楽で雰囲気を変えたり、テロップを入れたりして『今はコミカルなシーン』だと表現するしかありません。やっぱり、そこが羨ましいなと思います」
時として映像よりも漫画の方が、キャラクターの感情を雄弁に語れる場合もあるということ。2017年に波瑠の主演でドラマ化された『あなたのことはそれほど』は大きな話題になりましたが、「あなそれ」にはいくえみさんのエッセンスが詰まっていました。
「『あなたのことは~』の魅力は、登場するキャラクターがみんな秘密を抱えていて、それが次第に明らかにされるところ。それを、キャラクターの心情によって黒と白の背景を使い分けたり、シーンを反転させることで表現されていたりします。決して特殊な画角から描かれているわけではないのだけれど、胸が詰まるような暗い雰囲気を感じますよね。シンプルだからこそ演出意図が明確で、鋭さが際立っていて、漫画ならでは。とても好きです」
漫画は気楽に読むものですが、普段、何気なく読んでいるシーンにも、作者の様々な工夫が込められているということ。これまで何回も読んだ作品でも、表現技法に気を配ってみると、また新たな発見があるかもしれません。
◆ケトルVOL.57(2020年12月15日発売)
【関連リンク】
・ケトル VOL.57-太田出版
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