光に照らされた惑星──失われていく暗闇のサイクル

学び
スポンサーリンク

2022年度 英ウォーターストーンズ ポピュラーサイエンス部門 ベスト・ブック獲得。スウェーデンから、アメリカ、ドイツほか各国で続々翻訳された、生物学者・ヨハン・エクレフが詩的に綴る、感動の科学エッセイ『暗闇の効用』(太田出版・刊)の邦訳版が、2023年9月20日(水)より発売されました。
本書では、街灯の照明をはじめとする人工の光が多くの夜の自然の光を奪った結果起きている自然への影響(=光害:ひかりがい) をひもとき、失われた闇を取り戻そうとする呼びかけています。
OHTABOOKSTANDでは、本書から冒頭の一部を抜粋して試し読み公開します。(全2回)
暗闇が作り出す自然界のサイクルは、今まさに失われようとしています。

暗闇のサイクル

 オジギソウには奇妙な特性がある。触られたことを鋭く感じ取り、なでればその葉を傘のように閉じ、たちまちしぼんでいく。夜にも葉は閉じる。そして毎朝、葉はまた開き、衛星放送のパラボラアンテナのごとく、太陽の光をとらえるために向きを変える。フランスの科学者ジャン=ジャック・ドルトゥ・ドゥ・メラン(1678~1771年)は、オジギソウをずっと暗いところに置いて観察してみた。すると、太陽とまったく対面していないにもかかわらず、外が昼になると、その葉が開くことを発見した。ドゥ・メランは、この植物は暗闇のなかでも太陽の存在を感じ取れるのだと解釈したが、その仕組みの解明にまでは至らなかった。

 その謎が解けたのは、20世紀後半、遺伝学の飛躍的な進歩が起こってからだ。1960年代に、生物学者・遺伝学者のマイケル・W・ヤング(1949年~)は、オジギソウやその他の植物が1日のさまざまな時間に応じて特定の振る舞いをするのはどういうわけなのか、深く考え始めた。それがヤングにとって、その後の人生で生物時計への関心を持ち続ける発端となった。2017年、ヤングはジェフリー・C・ホール(1945年~)とマイケル・ロスバッシュ(1944年~)とともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。彼らは、バクテリアから人間まで、あらゆる生物において生活リズムをコントロールしている遺伝子の特定に成功したのである。「概日リズム」と呼ばれるこの生活リズムはつまり、食事や睡眠の基準となる体内時計だ。これははるか昔から私たちに備わっており、暗闇から光へ、そしてまた暗闇へ、という自然の1日の連続に従って動いている。

 何十億年もの間(地球は誕生してから45億年になる)、地球はゆっくりと、あるいは突発的な出来事によって、その形を変えてきた。山脈や海ができ、川の流れは移動し、いくつもの種(しゅ)が生まれては絶滅してきた。磁極でさえも、決まった点にとどまっているわけではない。まさにいま、北磁極は1年に7マイル(約11キロメートル)の速度で、カナダの北からシベリアに向かって東に移動している。しかし、大まかには変わっていないことがひとつある。それは昼と夜、光と闇が交替するということだ。太陽はいつでも西に沈み、また東から昇る。そして日の入りから再び日が昇るまでの時間は、いつも夜であった。

 といっても、1日の長さは常に同じではなかった。現代の原子時計によると、地球の自転は少しずつ遅くなっており、1日が長くなっているという。昼間が少しずつ長くなり、夜も少しずつ長くなっているのだ。変化の度合いは劇的なものではなく、量にして100年間で2ミリ秒に満たないくらいである。しかし、仮にずっと一定の度合いでこの1日の長さの変化が続いてきたとすると、30億年以上前の、地球で最初の生命体が過ごした1日は、私たちが過ごす1日のたった半分の長さだったことになる。

 自己複製する分子にすぎなかったこの最初の生命がどこで生まれたかについては、多くの仮説がある。深海、厚い氷の下、山の割れ目の大きな泥の塊のなか、あるいは地球以外の宇宙のどこかだったかもしれない。しかしどこで生まれたにせよ、最初の単細胞生物は急速に発達し、未踏の世界で新たな可能性を見出したのだった。

 それからほどなくして、太陽光を利用して酸素を生成できる有機体「シアノバクテリア」が、世界中の海へと広がった。毎朝、その日一番初めの太陽からの光線が水面を温めると、藍藻(らんそう)という名でも知られるこのシアノバクテリアが、光エネルギーを集めて大気に酸素を放出した。シアノバクテリアは大気の化学的な構成が決まるにあたって重要な役割を果たし、そのおかげで、人間を含む動物の生命の発達が可能になったのだ。そして、シアノバクテリアに備わったこの働きは、植物の発達と光合成の基礎を築いた。そのリズムは世代を超えて伝わっている。

 地球で最初の多細胞生物は6億2000万年前、1日が22時間ほどだったときに日の光を見た。といっても、日の光を文字通り「見た」わけではない。目をはじめとする、真に高度な感覚器が現れるまでには、そこからまだ何百万年もかかったからだ。この頃には、この時代特有の生物が繁栄した。それらはいまから5億年以上前に絶滅したが、当時は青々と茂った藻のカーペットの上で、天敵に襲われる危険もなく、1ミリたりとも動く必要もなく、何百万年にもわたって静かに生きることができた。昼間は、太陽の光が水面から差し込み、水深によって性質を変えながら水中へと到達する。そして夕暮れになると、太陽光の作用はやみ、自然の夜が根を下ろす。毎日繰り返されるこの交替に、生命は適応していた。

 生物時計、つまり私たちの概日リズムは古くからあり、さまざまな生物に共通しており、きわめて根本的なのだ。今日生きている存在のすべては、日ごと、年ごとに状態が変化する世界のなかで発達してきた。だが、夜が長くなったり短くなったりする周期のなかでも、私たちの体は光と闇の交替を当然のものと想定する。どんな生物も、その先天的にプログラムされた体内時計をさまざまな形で利用している。たとえば、オジギソウが夜に葉をたたむとき、オンシジウムは生き生きと目覚め、ガ(蛾)を惹きつけるためのにおいを強める。ミツバチなどの昼行性の昆虫は仕事を終え、夜行性の送粉者が仕事にとりかかる。種(しゅ)、生息地、ライフサイクルを問わず、25億年前からあるシアノバクテリアから、コウモリ、そして人間まで、すべての生物が同じ基本的なメカニズムを利用しているのだ。

 生物時計の目盛りを刻むのが、光と闇である。環境の変化に関する情報がなくても、この体内メカニズムはおよそ1日を一周とする通常のリズムで動き続ける。朝日は、そのサイクルが一周してまたゼロから始まるという合図、新たな1日が始まったという合図である。生物時計はその後、日中、夕暮れ、そして夜と、太陽のさまざまな光が入力されることで動き続ける。ランプ、ヘッドライト、投光器などから出る人工の光はこの方程式に含まれていない。そして控え目に言っても、それらの人工の光は、生物時計のシステムに混乱を生じさせる恐れがあるのだ。

暗闇での体験

 私はいつも、静かな場所に腰掛けて、夜の調査を始める。できれば水の近くがよい。魔法瓶からカップにコーヒーを注ぎ、たそがれの雰囲気に心を委ねる。闇が深まり、風のない水面近くの空気が冷えていくなかで、魔法瓶から立ち上る湯気が、水の上の霧と混ざり合う。鳥のさえずりはまばらになり、キリギリスのギーギー鳴く音が強まる。そして森には深緑色の背景幕が下ろされる。スカンジナビアの夏、昼から夜への変化には時間がかかる。そこでは、光や動物たちの活動が少しずつ入れ替わっていく。その間、昼の動物は夜の動物と出会い、ヤマシギのすばやい飛行がたそがれを告げても、スズメ亜目の鳥たちのさえずりはほとんどやまない。ところが熱帯では、まるで劇場の場面転換のように、この変化は急に起こる。舞台と観客は同じだが、スポットライトが暗転して俳優が入れ替わるようなものだ。

 コウモリが出てきてくれるまで、時間がかかることもある。その無限にも思える時間がここでは一番大事だ。自然の小休止を受け入れ、暗闇が自分のペースでやってくるのを待つほうが、長い目で見れば効率よく作業ができるのだと私は信じたい。自然を感じれば優秀なフィールドワーカーになれるわけではないが、自然ともっと調和した存在になれる。このときにネットサーフィンをしたり、携帯電話を使ったりして、光や通知音で気を散らせば、集中力も暗視視力も失われてしまうだろう。

 私は暗闇での視力を失いたくないので、少なくとも戸外ではヘッドランプをほとんど使わないようにしている。さもなければ、小さな昆虫を狩るオサムシや、月光を浴びて独特な光り方をするクモの巣を見逃してしまうだろう。ほかにも、這うナメクジや光るキノコなど、多くのものを素通りしてしまうはずだ。そう、キノコには、暗闇できらめく海中生物やツチボタルと同様に、生物発光するものがあるのだ。この種のキノコは光でハエ、甲虫、アリを惹きつけ、胞子を運んでもらう。このような現象が最も多く見られるのは熱帯だが、ここスウェーデンでも、糸のような菌糸という組織がほんのり緑に光る、ナラタケ属のキノコがある。昔の人は、夜道を照らすためにキノコの菌糸がまとわりついたオークの木を使ったと伝えられている。人間よりも暗闇でものがよく見える動物にとっては、光るキノコは明るいランタンのように目立つのだろう。

 夜行性の動物が暗闇のなかでどのように自分の存在を感じているのか、それらの脳内で感覚刺激がどのように処理されているのか、想像してみるのはとてもおもしろい。私の近所では月が出ると、通常は見えないノッティンガム・キャッチフライという白い花が何百も、きらきらと輝く。それはほのかに光っていて美しいのだが、紫外スペクトルを知覚できる動物にとっては、その花が生えた地面は蛍光色のダンスフロアのように輝いて見えるだろう。感覚に限界がある人間の私たちは、このような動物の視覚を知識として知ってはいるものの、それをリアルに体験することは決してできない。カメラでフィルターをかけたり、何かほかの機器で視覚的な拡張をおこなったりすれば、手がかりは得られるかもしれないが、本物の昆虫やネコの目でものを見ることは不可能だ。哲学者のトマス・ネーゲル(1937年~)は1970年代の有名なエッセイ「コウモリであるとはどのようなことか」において、人間の言語でコウモリであるとはどのようなことかを記述するのは、地球外生命体であるとはどのようなことかを記述するのと同じくらい難しいと論じた。他者の体験を理解できるのは、自分と相手が同じ種(しゅ)である場合のみだ。そしてネーゲルの推論をさらに広げるなら、私たちは「ほかの人間であるとはどのようなことか」も知り得ないことになる。私たちにはそれぞれ、自分の感覚、フィルター、解釈があるのみなのだ。

 だがそれでも、踏み固められた道路から離れて、観察者として静かな場所に腰を落ち着け、暗闇と向き合えば、夜の暮らしに近づいたことがありありと実感できるようになる。視覚以外の感覚が研ぎ澄まされてくると、音やにおいが質感を変え、空気の湿りが肌で感じられる。たそがれ時の鳥であるホイッパーウィルヨタカが、その存在を示す間違えようのない、うなるような風切り音とともに傍らを飛んでいく。何匹かのカエルが鳴く。遠くでオオハムが物憂げに歌う。どこかで、静かな水面に何かが跳ねる。次第に目も慣れてきて、マツヨイセンノウ、オンシジウム、夜に開花する種類のムシトリナデシコなど、暗闇の花が活動を始める様子もわかるようになる。この花々はにおいの分子や胞子を風に乗せて、夜行性の送粉者を導く。たそがれ時が長くなる初夏には、ライラックが満開になる。真夜中近くに生まれた人は日曜日の夜、ライラックの茂みの影に幽霊を見ることができると伝えられている。8月には、スイカズラ科の植物のにおいが夏の夜を支配し、においの跡をたどってヤガ(夜蛾)が引き寄せられてくる。ヤガはその長い吻で蜜を吸って喉の渇きを癒し、花粉を運ぶのだ。ガは動物界のなかでも類まれなる嗅覚を持っており、触角でにおいの分子のひとつひとつをとらえ、数マイル(数キロメートル)先の花や交尾相手を見つけられる。たそがれ時に屋外に座って、ガが精力的に飛んでいく様子を観察することで、目に見えないにおいの跡がすぐに感じられるだろう。ガは少なくとも、日中のミツバチと同じくらい重要な送粉者であることがわかっているし、さらにはミツバチよりも多くの種類の花に立ち寄るため、地球の生態系を維持し、繁栄させるにあたって非常に重要な役割を果たしているのだ。

 ガを観察していると、突然地面に向かって急降下し、アクロバティックな宙返りでまたにおいの跡に戻るときがある。ガは、私の調査の目当てであるコウモリが出す音を感知する能力を備えているのだ。ガの急な方向転換は、天敵であるコウモリから逃げるためのものだ。私はコウモリの出す音を人間に聞こえるようにする超音波検出器を持っているが、そこからはまるでポップコーンが弾けるような音が聞こえる。ガが近づくほど、コウモリは獲物の場所を特定するための信号を速いペースで出すようになる。すると、ガはすばやく向きを変えてフェイントをかける。こうして、夜空の下で、一定のリズムを持った決闘が進行する。地上では、何匹かの甲虫が先を急いでいる。葉がガサガサと鳴り、やがて交尾のダンスを踊るコフキコガネが現れる。一瞬、コフキコガネの羽音は超音波検出器の音をもしのぐほど大きくなる。

 脊椎動物の3分の1、そして無脊椎動物の3分の2ほどが夜行性であるため、交尾、狩り、分解、授粉といった自然界の営みの多くは、私たちが眠っている間におこなわれている。コウモリ研究者として私は、私たちがいかに夜について、その秘密について知らないかをいつも再認識する。樹木の周りで自らの位置を測って飛ぶコウモリについて、音と反響だけを頼りに1マイクロ秒のうちに自分の周囲の様子を把握してしまう能力について、私たちが知っていることはとても少ない。暗闇は人間の世界ではない。私たちは、あくまで訪問客にしかなれないのだ。

光に照らされた惑星

 コウモリ、ホイッパーウィルヨタカ、コフキコガネはみんな、たそがれ時に活動する。対して、私たち人間は極度に昼行性だ。人間は多くの点で、完全に視覚からの情報に依存しているので、私たちにとって光は安全と同義だ。それゆえ、私たちが生活の場を光で照らしたいと思うのはおかしな話ではない。この150年間で、電灯や電球が世界中で輝かしい支配力を確立したし、最近では革命的なダイオードランプの登場によって、この世界を照らすという取り組みはますます急速に進んでいる。私たちはよく、安全のために家の庭、通り、工業施設、駐車場などを、電灯、投光器、ワイヤーライトで照らす。私の家から数百ヤード(数百メートル)のところにある学校の駐車場には、約50本の街灯柱がある。12平方ヤード(約10平方メートル)のアスファルトにつき約1本の街灯が置かれている計算になり、そこは主に夜間にたむろする場所を求めて車でやって来る若者たちの憩いの場となっている。ほかの場所でも、どこも同じような状態だ。誰もいないオフィス、車のない駐車場、高速道路沿いにある倉庫の正面入り口などでも、光が輝いている。人間は夜に生きる動物を追いやりながら、昼を押し広げてきたのだ。

 現在の夜の地球を人工衛星から撮影した写真を見ると、この星は煌々と輝いているように見える。世界中の人口密集地域はどこも、遠い宇宙からでも見えるような、光り輝く斑点を作り出しているのだ。明るい通りは光の網目のように街と街を結び、最も人が集まる場所には、ひとつの光のもやができている。人工衛星写真からは、都市化された世界がどのように広がっているかをありありと知ることができる。そしてこの広がりこそがおそらく、人新世と呼ばれるもののひとつの代表的な象徴なのだろう。人新世という発想は1980年代に生まれたのち、オランダの化学者でノーベル賞受賞者のパウル・クルッツェン(1933~2021年)が、私たちの生きる時代を指し示す用語として使うことを提案した。だが、人間が世界に影響を与えているという事態を考慮して新たな時代を名づけようとする考えは新しいものではない。その源流は1860年代、アメリカの政治家・外交官・言語学者であったジョージ・パーキンス・マーシュ(1801~1882年)にまでさかのぼれる。彼はやや思いがけない形で、初期の環境保護運動の創始者的な人物となった。彼の1864年の著書『Man and Nature; or, Physical Geography as Modified by Human Action(人間と自然、あるいは人間の活動によって変化するものとしての自然地理学)』に影響された人々によって、その後20年にわたり、人間が環境に害をもたらしていることを念頭にその時代を名づけようという試みが相次いでなされたのである。ただ、人新世という考え方が定着したのは現代になってからだ。

 夜の衛星写真は、現代の人間の活動が時間的にも空間的にも大きく拡大しているという事実をはっきりと示す。技術の発展は人間に多くのメリットをもたらしたとはいえ(実際の光という形でも、比喩的な光という形でも)、その過程にはエネルギーのむだ遣い、いきすぎた大量消費主義、生態系の崩壊などが必然的に伴っていたことも確かだ。私たちが光害と呼ぶもの、つまり不必要な人工の光は、自然を変えてしまったが、人新世の例としてはこれまで過小評価されてきた。人工の照明は私たちのエネルギー総使用量のちょうど10分の1を占めているが、その光のうち実際に役に立っているのはほんの一部だ。光の多くは、歩道や屋外の扉を私たちの狙い通りに照らすのではなく、空へと漏れていく。ヨーロッパとアメリカ合衆国でおこなわれた調査によると、的はずれな方向に向いていたり、過度に強かったりする照明は、2000万台の自動車が排出する二酸化炭素と同レベルの汚染を引き起こすという。また、2017年には、光害は低く見積もっても全世界で毎年2%ずつ増加していることもわかった。

 この星をこれほどまでに明るくしようと思う理由ひとつは、間違いなく私たち人間の暗所恐怖症にある。暗闇に対する恐れは文化や歴史に、そして同様に遺伝子に刻まれている。それはまったく自然なことであり、ほかの多くの恐怖や反応と同じく、生存のための特性だ。私たちの視覚は、慣れれば暗いところでもしっかり見えるようになるが、慣れるまでにある程度の時間を要する。日光が大量に流し込んでいた光の粒子が減り始めたとき、私たちの目のなかで正しい色素が集まるまでには少なくとも30分かかる。そこから、光の感度が最大まで高まり、暗闇のなかで自分の立ち位置をしっかり把握できるようになるまでにはさらに時間がかかる。そして暗闇のなかで最大まで高まった視力は、一瞬で元通りになってしまう。街灯をちょっと見たり、携帯電話の画面がついたり、ヘッドライトをつけた車が通り過ぎたりするだけで、光を感じる視覚色素であるロドプシンは、まるでトランプのタワーのように崩れてしまい、目が慣れるまでまた一からやり直しになるのだ。

 今日、私たちが暮らす都市では、本物の暗視視力を確立するのはほとんど不可能だ。というのも、光のある場所がとても多く、ロドプシンの集結がすぐさま妨げられるからだ。地球上でトップクラスに明るい都市だと言われており、なかでも光害が最も著しいであろう香港やシンガポールには、目の自然な暗視視力を動員できるほどの暗い街角がほとんど存在しない。香港の人々は、光で照らされていない場合よりも1200倍も明るい空の下で眠っている。シンガポールで育った人は、暗視視力を一度も体験したことがないだろう。このような状況は、世界のどこであろうと、都市に住む人にはますます当てはまるようになっている。

 夜を体験する機会を人々が失っているという話は、懐古主義的で本題から外れているように思えるかもしれない。けれども、人新世を生きる人間が、過剰な人工の光によって大きな悪影響を受けていることを示す研究は数多くある。人工の光は私たちの生物時計を乱し、睡眠障害、うつ、肥満の原因となる。夜に光を浴びすぎることが、ある特定のがんの直接の原因であると唱える研究論文もいくつかある。それについてはのちほど詳しく取り上げよう。

* * *

本書『暗闇の効用』(ヨハン・エクレフ=著、永盛鷹司=訳)では、光害の実例はもちろん、生態系と夜の関係、人類への影響、宇宙における闇、さらには闇を求めるダークツーリズム、作家・谷崎潤一郎『陰翳礼讃』についても言及。「光」だけに当てられがちなフォーカスを「闇」にあてています。
『暗闇の効用』は全国の書店・電子配信先で発売中です。

関連商品