接続する柳田國男~戦時下固有信仰論をめぐって

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来訪者たち~戦時下での抵抗

それでは『先祖の話』を執筆するに至るまで柳田が帰属した言語空間はどのようなものだったのか。

その光景を少し確認したい。

以前、『偽史としての民俗学』という本の中で、柳田國男の敗戦直前の1944年から1945年にかけての日記『炭焼日記』の登場人物、即ち柳田邸の訪問者たちに注意を促したことがあった。絶版になっているし電子書籍も刊行されていないから重複もあるが、その来訪者を改めて確認しておきたい。それは戦争末期の2年間の柳田が生きた、やや大仰に言えば知的環境が見てとれるからだ。言い換えればどのような空気の中で(時代の圧力の中でそれに相応に抗したり、損なわれたことも含めて)最終的に『先祖の話』書かれたのが見えてくると考えるからだ。

日記が『炭焼日記』と題されたのは、実際に成城の私邸の庭で自家製の炭を焼こうと竈を四苦八苦してつくるさまがかなりの諧謔をもって描写されるからだ。これは柳田が燃料の類に窮していたわけではなく、翼賛体制下、空き地を家庭菜園にするなどの自給が求められ、しかも、このような行動を「隣組」への範となるべく知識人が率先することを求められた時局への一種のパフォーマンスでなかったかとぼくは思いもする。実際、情報局の刊行する『週報』の炭竈制作の記事を参照する記述も『炭焼日記』にはある。少なくとも家庭菜園同様、炭竈も翼賛体制が求める「暮しのファシズム」であったことは知れる。

このような戦時下の柳田國男の周辺に転向マルクス主義者が集っていたことは、その光景を目撃しもした千葉徳爾がぼくの大学時代の講義で述懐し、鶴見太郎が後に詳細に検証もしているが『炭焼日記』では、その代表格であるはずの日本プロレタリア美術家同盟出身の橋浦泰雄はもっぱら炭竈の設置や修繕係としてのみ登場する。橋浦に竈を人目につく屋外で大騒ぎしていじらせることもあるいは周囲への牽制であったのではと想像もする。

その橋浦の如き元マルクス主義者の弟子を含めて『炭焼日記』に登場する人々はおよそ5つに区分できるだろう。

すなわち、

(1)元マルクス主義者の弟子
(2)外地に出征した弟子
(3)軍などのインテリジェンスの関係者
(4)文化映画関係者
(5)偽史・新宗教関係者

の5つである。これ以外に親族や従来からの弟子や地方の研究者・郷土史家の類も加わるが、戦時下を特徴づけるのはこれらの人々だ。元マルクス主義者の弟子たちは、橋浦泰雄などは少し前までは、東宝や映画芸術者など文化映画関係者との接触があった際には、彼らも多くは転向組だったので必ず駆り出されたが、『炭焼日記』ではもっぱら柳田の戦時下の「日常」の側の登場人物である。

次に、外地の弟子たちに注意を促すのは、直江廣治や千葉徳爾といったぼくの直接の師たちが含まれるからでもあるが、柳田の記述の端々から比較民俗学なのか川村湊がかつて指摘したような「大東亜民俗学」なのかはともかく、共栄圏を前提とした汎アジア民俗学への関心がちらつく。『桃太郎の誕生』復刊時の序文では南方における共栄圏の民俗学的整合性を求められることへの距離感を表明もしていたが、柳田の学問が「民俗学」として整備されるのは国策との整合性との恩恵でもある。昭和10年代初頭の農村山村の大規模な民俗調査も地方更生運動という国策にも連なるものであり、その流れで戦時下、柳田と交流のあった地方の研究者や郷土史家が「戦争」や「国策」が研究としての柳田民俗学の環境を相応に用意したことは無視できない。ナチス型民俗学をウイーンから持ち帰り、植民地政策や対外プロパガンダに邁進した元弟子の岡正雄ほどではないにせよ、「柳田の学問」は戦時下の環境の中で全く国策の影響を受けなかったわけではない。

その検証は今後、不可避である。なぜなら柳田の「国策化」した部分が「新しい戦時下」などとさえ言える現在、召喚されつつある民俗学であり、その最たるものの一つが「固有信仰論」だからである。

再び『炭焼日記』の来訪者に戻れば、そういった国策との距離を証明するかのように、軍などのインテリジェンス関係者の出入りが記述される。

1944年11月1日には「憲兵隊本部の酒井一治来、匿名の悪口投書の中の方言についての相談なり」とあることはよく知られる。炭窯の用意を始めた頃である。翌年3月5日にも「憲兵隊本部から、先日来た酒井君及び他一人来る、また無記名投書の方言の相談なり」とある。酒井一治なる人物の詳細は不明だが同名の憲兵隊員がいたことは記録で確認できる。これと合わせて引っかかるのは憲兵隊本部・酒井の接触があった2日後の同年11月13日、「海軍研究所とかいうものから電話」と一行だけある点だ。その後に「木の葉を集めてやく」と「戦時下の日常」の記述がある。

インテリジェンスなど大げさなとも思われるかもしれないが、この時期、憲兵隊と海軍研究所が心理戦のツールとして流言の収集や研究を行っていたこと知られるところである。憲兵隊司令部の主導で各地区憲兵隊は、流言を月単位で報告、それを綜合して毎月の流言飛語の発生状況を文書で軍や内閣にも報告していた。他方、海軍研究所では実験心理学研究室を経て、敗戦直前には戦争心理対策本部第4課第9班が流言や暴動などの社会心理研究を担当する流れにある。まさにインテリジェンス機関であり、戦争が長引けばこれらの機関との接続がより強固に求められたことは想像に難くない。

関東大震災で流言がトリガーになって普通選挙の担い手となるべき市民の「個」が「群」に収斂することに危惧を覚えていたはずの柳田にとって、彼らの接触は否応なく彼の学問が流言管理という「国策」への接続を求められている状況が見てとれる。そういう「圧」が柳田の日常に入り込み、それが彼の思考や書くものに全く影響を与えなかったとはやはり言い難い。

対して文化映画関係者も「国策」絡みであるが、これは具体的にはもっぱら、東宝の村治夫とカメラマンの三木茂の柳田詣である。東宝と芸術映画社の2グループが文化映画に柳田國男をオルグしようと接触し、東宝の村・三木が柳田詣でを敗戦直前まで続けている。村と三木が柳田の重出立証法の文化映画への実装を求められ、罵倒されつつも柳田のカメラアイたらんとした三木と、そしてその三木の撮りためた写真を柳田の意に沿う形で組み写真集『雪国の春』として「編集」しようとした村は「国策」の側に柳田を引き込むのではなく「映画」が柳田の方法として吸収されることにむしろ奉仕した点で特異だ。

このように「国策」と柳田の学問の関係は当たり前だが単純ではない。そこは冷静に見ておきたい。

この時期の村の頻繁な来訪は、主として写真集『雪国の春』の製作のためである。つまり、柳田はこの『炭焼日記』に書かれた時期、『雪国の春』をつくり終え、それから『先祖の話』を書くのである。そういう流れを「国策」への態度を知るために確認しておく。

そして来訪者で、その評価に注意すべきは、偽史や新宗教の関係者である。

柳田と偽史やオカルト領域の接点は明治期にまで遡る。

そもそも明治期、柳田國男に佐々木喜善を紹介した第二世代の自然主義作家・水野葉舟は、その後、スピリチュアリズムに傾倒するし、喜善も大本教に入信し、『赤松庫吉』なる、電気治療士が登場するメスメリズム的小説さえ残す。これは近代科学や近代文学が心霊主義やオカルティズムと未分化であり、柳田がその名を必ずしも好まなかった「民俗学」は西欧においてはまさにボーダー状にあったからだ。民俗学者であり心霊主義者であったアンドリュー・ラングなどはその代表で、漱石もその書を読んでいて、この時期の文学者の「教養」の一部だと言える。そういう周縁を切り捨てることで、日本でも文学やアカデミズムは成立するが、柳田と相性が悪かったのはアカデミズムの方で、転向マルクス主義者を除くと柳田は岡正雄などが代表的なようにアカデミアの人間と離反を繰り返す。

しかし、この時期、柳田の周辺に偽史関係者や新宗教関係者が私邸を訪問し、追い返すでもなく、話すことには相応に耳を傾けているのは、彼の周縁的な人々への単なる寛容さにとどまる問題ではない。

それはまさに戦時下の言語空間の「偏差」だといえる。偽史と新宗教の関係者をオカルティズムの側に分類するのは無論、やや心ないが、しかし戦時下の国策にはそれらの言説が入り込んでいる事態があることは、ぼくの偽史小説の話ではなく、もう少し、真剣に取り組んでいい、一つの事実である。無論そこに何かの陰謀なりがあるというのはフィクションの側にぜひとも任せていただきたいが、しかし、現在のこの国で、国会議員やメディアで相応の発言権を持つ人々が、いわゆる陰謀史観を公言し、カルト教団とひどくカジュアルに政策協定を交わすさまが常態化していることを考えれば、戦時下の同種の光景が、多少、異常ではあってもありうる光景だとは実感できるはずだ。それが柳田周辺にもあった、ということだ。

例えば、『炭焼日記』ではなく、大正末期の『瑞西日記』に名前の出る藤沢親雄は柳田の「正史」の中ではジュネーブの国連時代に出入りしたエスペラントということになるが、彼の戦時下の言説は以下のごときであった。

チャーチワードの説く処によると日本人はミュウを出発しインドネシア・マレーを経由して渡来せるものであり、今から百年前の日本は其の母国たるミュウ其ままの姿を呈していた。又旭日旗は彼等の祖国の国旗であり日本語の内にはミュウ言葉が沢山に残っている。(中略)即ち皇国が人類の発祥地であり、其の住民がミョイ即ミュウに移住したということになっているのである。(中略)我々の考え方を以てすれば皇国惟神の大道がミュウ大陸にも光被していて太陽神崇拝が行われていたものと信ずる。されば今日皇軍が占拠している南方の諸地域に於て「日の神」並「日の御子」に対する根強き信仰が残っていることは決して偶然ではないと思う。即ち上古に於ける太平洋の諸地域は皆皇領であり日の神の「みこともち」たる日の御子が統治せられていたものと想像する。

(藤沢親雄『国家と青年』潮文閣、1943)

この藤沢の仲介で劇作家を経て松竹の脚本家でもあった仲木貞一(文化映画の論客でもある)がムー大陸本を1942年に『南洋諸島の古代文化』なる邦題で刊行したのはオカルトファンには周知のことだ。

仮説の域を出ないが、この時期の柳田はこういうマージナルな思想家や宗教家に対し、ある種の求心力があったのではないか。それは転向マルクス主義者や文化映画の中でもルーペ論争で問題視された三木茂ら他の領域の異端者を含めてこの時期の柳田の奇妙な「求心力」の一部でもありようにも思える。その評価が難しい。

とにかく、それが求心力なのかオルグが何らかの折状の類いなのかはわからないが、例えば以下の2名の来訪とそこで言及される偽史文書の名には注意すべきだろう。

(昭和十九年)三月一日水よう午後曇
散歩を見合せる。
名古屋の織田善雄君より漬物一桶鉄道便にて。その織田君やがて訪来る。竹内文書のことなどを話す、この人古神道ということをいう。

(昭和十九年)四月八日土よう なお曇午後再び降り出す
(中略)
増田正雄君来。此家に来たのは始めてか。なお猶太人史に没頭す。前の著の続きのような話をする。満州の黄寺といふ寺の古文書、浜口憲雄といふ人、本にして出した話、祇園はシオンでないかという話など。

(昭和二十年)一月七日日よう 晴霜雪の如し
二児今日帰ろうとしてまた庭にて游ぶ、又堀へ行き、叔父叔母伴ない来る。増田正雄君見まいに来る。「知識民族としてのスメル族」という高楠博士の本をくれる。但しこの人のユデア研究は邪道のようなり。

(柳田國男『炭焼日記』修道社、1958)

あまり深く分け入った説明はしないが、織田善雄とは僧侶であり、エジプト文化の前代が日本の神代文化だと主張する人だが、一方では1939年に柳田の主催する『民間伝承』第4巻第6号に前号の柳田の巻頭論に呼応する形で「味噌買橋に就いて」という報告をしている在野の民間伝承研究者でもある。「味噌買話」とは柳田が『昔話覚書』の中で言及して、以下のように要約されている。

むかし丹生川の沢上の長吉という正直な炭焼が夢を見た。高山の味噌買橋に行けば好い事があるという夢で、早速出かけて来て橋の上にいつまでも立って居ると、そこへ橋の袂の豆腐屋の親爺が遣って来てどうしたと尋ねる。長吉の答えを聴いて豆腐屋は大いに笑い、夢をまに受けるとはおろかなことだ。わしはこの間から乗鞍の麓の沢上の長吉の屋敷の杉の樹の下に、金銀が埋まって居るといふ夢を見るけれども、夢だと思うから気にも止めないといった。長吉はそれを聴いて、帰って我家の杉の根をほって忽ち大金持になったという。

(柳田國男『昔話覚書』三省堂、1943)

つまり炭焼が長者になるという昔話の類型で、戦時下に炭を焼く諧謔を考えると、織田の日記へ登場は出来すぎの感もないが、柳田の主宰する雑誌の寄稿者の中に「竹内文書」の話をすべくやってくる神代文化研究者の顔を持つ織田がいるのは事実である。織田は桑山好之による写本「金鱗九十九之塵」など郷土資料の稀覯書を収集もしていたようで所蔵の資料が絵葉書で販売もされていた。

他方、増田正雄は起業家だが反ユダヤ問題研究団体を戦時下主宰をしてもいる。ジュネーブからの柳田の帰国歓迎会に出席しているとされるから、彼も相応に古い付き合いである。この増田が『日記』中の最初の訪問では「満州の黃寺という寺の古文書」の話をしたとある。言うまでもなく「契丹古伝」のことである。二度目の訪問では高楠順次郎『知織民族としてのスメル族』(教典出版、1944)を持参したとある。これだけで「竹内文書」「契丹古伝」「スメル族」と、古史古伝のエース級の文書や言説が『炭焼日記』の中に揃ってしまう。

高楠の研究にこそ「邪道」と疑問を記すが、知己である織田や益田の来訪は歓待し話の概要も日記に残す。その点では最も歓待されたのが岡田建文であろう。

昭和十九年三月六日
岡田建文老来、高談。巻紙一本くれる、いろいろのめずらしき話あり。

昭和十九年八月四日
岡田建文老来、二月あまり寝ていたよし。神の示しにて草を採り食う夫婦の話をする。本を買う金三十円おくる。

昭和十九年八月十三日日よう曇
岡田建文翁来、月おくりの盆迎に畠の物をさがしに来られたよし、紙色々くれられる。又「わかなみ」という昆布製のくすりも。

(柳田國男『炭焼日記』修道社、1958)

岡田は他にも幕末の旗本・宮崎成身の『視聴草』の写本を差し入れている。柳田が好みそうな文書で、宮崎が見聞した事件や怪異が記録されていて「筑後川のカッパ」の話があったと柳田は記す。

岡田は柳田の書評が残る『動物界霊異誌』の著者・岡田蒼溟の名も持ち、大本教の信徒ではないが教団の機関誌の記者でもあった。心霊主義者であったがその怪異の具体的な記述は資料として柳田は価値を認め、先の書は柳田の肝いりで刊行されている。

彼らに共通なのはかつて『遠野物語』の執筆へと至る中で葉舟に紹介された喜善が「お化問屋」と柳田に呼ばれ歓待された様を彷彿とさせられる点かもしれない。

今夜はお化会のある夜なので、牛込の柳田氏邸へ行く。

「佐々木様で御座いますか──と言うので導かれて応接間を通り抜け細い廊下を幾廻りか廻って十二畳ばかりの奇麗な室に通された。さすがに立派なものだな。と思って床の間の飾り物、花電灯などを眺めていると白足袋式の柳田国男氏が柳ッとして現われた。

「大変おそかったじゃありませんか」
「え、ちと内藤君の処へ寄って一縮み縮み上つて来たんです」
「ははははは全くあなたはお化の問屋ですね」

(佐々木気喜善「△四月廿八日」「岩手毎日新聞」1909年5月6日『佐々木喜善全集』Ⅲ 遠野市立博物館、1992)

柳田は共同体の外部から物語をもたらす者を「世間師」と呼んでいた。

だから外部からもたらされる「物語」は「世間話」である。「世間」とは社会であり公共的な空間でもある。網野善彦が「公界」と呼んだ公共空間のイメージに近い。事実、柳田は戦後、社会科に民俗学を適用させようと試行錯誤したおり、民俗学教本の冒頭に日本型「公共性」として「クガイ」を掲げてもいる。その公共空間としての「世間」はしかし、彼がロマン主義に傾斜すると「異界」に変わる。

炭を焼きながら、しかし、それが味噌買橋の如き昔話に成長する物語要素ではなく、情報局の『週報』をもってもたらされた翼賛体制の「新しい日常」としてあった時、岡田らはその「新しい日常」の外から別種の「非日常」をもたらす「世間師」のように映る。彼ら偽史の語り手によって柳田が翼賛体制を相対化しようとしていたとまでは言わないが、その「日常」のもたらす閉塞感については最低限、理解しておく必要がある。

「新しい日常」と書いたが『「暮し」のファシズム』で論じたように、近衛新体制とは「生活」即ち「日常」の更新を求める抑圧であった。科学合理主義で裏打ちされる一方、その「日常」は知識人の「転向」圧力の場であった。

と書くと、またもや大仰なと言われそうだが、1944年、公開されたのが島津保次郎監督による東宝映画『日常の戦ひ』で前年、『毎日新聞』に連載された石川達三の小説が原作だ。英文学の教授でリベラルな知識人の主人公が、隣組の組長となることで「お国のために働く」ことに覚醒する話で「日常」=隣組が真綿で首を絞める転向の装置であることをあからさまに示す。「生きてゐる兵隊」で執行猶予付きの有罪判決を受け、以降は戦時下はもっぱら「女性もの」に徹し家庭小説を書いた石川だが、翼賛体制発足時から文化人を隣組組長にとして新しい「日常」の担い手とするプロパガンダがあからさまにあった様が確実に反映している小説だ。

柳田が隣組にどう関わったかは空地を隣組が開墾するさまを記した文章があるのみだが、この時期、つまり、偽史作者が出入りしていく時期、確実に「日常」が知識人の抑圧の装置となっていた。中野重治が描いた転向圧力としてのムラとはまた別の転向装置が戦時下の都市空間には機能していた。

こういう「日常」に迫られつつ、偽史作者をあしらい、慰みともしつつ、柳田は村らとの『雪国の民俗』の製作を終えると、とうとう、『先祖の話』に着手する。

柳田が「先祖の話」という講演をするのは『炭焼日記』に1944年5月20日とある。内容的に書籍としての『先祖の話』に連なるものであるかは不明だが、『炭焼日記』には「十分には言えなかったよう也」とある。

それから半年後に『先祖の話』を書き始めるのだが、折口信夫から養子・藤井春洋が硫黄島にいると伝わる。千葉や直江らが大陸で地理や民俗の調査を行うことで得た厚遇に春洋は恵まれていないとわかる。春洋のいる「硫黄島の状況おもしろからざる」と危惧を記す。折口の痛みに柳田の「固有信仰論」の急激な形成が相応に呼応している可能性が高いのは「註」を参照されたい。

『先祖の話』を書き始めるのは空襲警報が繰り返され炭焼きに頓挫し続ける1944年11月10日である。そして脱稿するのは「『先祖の話』を草し終る」とある、翌5月23日である。

これに東京での空襲の時期を重ね合わせてみる。東京都への空襲は1944年11月24日に始まり1945年5月25〜26日まで続く。「今夜夜半過ぎ空襲、全体で130機ばかりという、東京の空を覆いしもの50機、窓をあけて見ると東の方大火、高射砲雷の如し。3時過まで起きてふるえて居る。いつ落ちるかしれぬという不安をもちつつ」という前日の日付の記述を受けて1945年3月10日の東京大空襲明けの日記にはこうある。

三月十日 土よう 午後又曇
焼出され大へんな数、幸いに三原は事なし、為正小石川大島へ見まいにゆく、ここも先ず無事。しかし焼夷弾落下の個所は中々多きようなり、東京へ出て見たら驚くことならん、夕七時首相放送あり、慰問の為。
勿論きょうは一人も来ず、『先祖の話』を書いてくらす、ふみ子清彦後藤氏までゆく。 

(柳田國男『炭焼日記』修道社、1958)

このように『先祖の話』執筆は東京への空襲期間とほぼ正確に重なる。空襲下、『先祖の話』が書かれた、というのは比喩でなく事実なのである。

柳田は知識人への抑圧としての「日常」に対する諧謔として炭を焼き、偽史的世間師らとロマン主義的に逃避を試みた。柳田が竹内文書を真に受けるわけもなく、ロマン主義文学者時代の山人論を「ロオマンスが過ぎる」と揶揄した花袋が生きていればまたかと笑ったろう。

しかしそういった柳田の「抵抗」は空襲下で機能しない。

死者の報が次々と柳田の元に入る。

1945年6月15日の日記には、岡田建文と娘が書き写した『視聴草抄』を読むとあるが「三分の一ほどが開くなった娘の字なり、あわれ也」と記される。岡田は東京大空襲で消息を絶ったとされ、柳田は異界に遊ぶ友人を失いもする。

1945年になると柳田は『先祖の話』の出版にするとともに大きな変化が読書傾向に見られる。つまり、『先祖の話』執筆以降に柳田の関心が大きく変わったのである。以前ではなく、以降であるということは『先祖の話』が転換点であったことを意味する。

具体的には、神道関連・国学関連の書が異様に増えるのだ。

六月十四日木よう 小雨 外に出ず
誰も来ず書斎の整理に伴ない、思いがけぬ本を読むこと多し。昨日から矢野玄道の『八十の隈手』をよむ。平田の『霊の直柱』は之に比べると散漫なり、又小寺清之の『皇国神職考』を読む。きょうは来訪者なし。

(同)

はからずも平田篤胤が引き合いに出される。平田神道の「傲慢」さとは何かはまた別に論じる必要があるだろう。国学的固有信仰論と柳田式固有信仰論に距離がないわけではないのだ。

その翌日も「幽冥道」についての本を読んだ、ともある。まるで「幽冥」について思いを馳せていた日露戦争後の柳田を想起させる。

それが敗戦を超えてもなお続くのである。

注意すべきは敗戦の前後である。

八月九日 木よう 晴 昨日の如し
午後萩原龍夫君、「大神宮叢書」五冊をしょって来てくれる。この人も五部書の成立や祓禊のことなどを研究して居る。「御巫清直集」を先ずよむ。

八月十日 金よう けさも霧後はれてあつし
早朝から艦上機、大型とまじり何度も入ってくる、中部と合せて六百餘機といふ。

八月十一日 土よう 晴あつし
早朝長岡氏を訪ふ、不在。後向ふから来て時局の迫れる話をきかせらる。夕方又電話あり、いよいよ働かねばならぬ世になりぬ。
創元社秋山君来る。出版の計画話、「木綿以前の事」は焼けてしまったよし。
関口健一郎君九州へ行くよし、桜井君と共に来りて玄関にて話してゆく。(後記)十一月急死、是が永訣也。
きょうも何度か警戒警報、夜しめきって暑くてたまらず。
「大神宮叢書御巫清直集」所々抄出、「年中行事大成」にて氏神祭山宮祭のことをよむ、又「私幣考弁」、「旧事紀析疑」も。

(同)

このくだり、柳田は一般人より早く敗戦の報を知ったとも取れる。そういう前提で「いよいよ働かねばならない世になりぬ」というあの有名な決意をとれば『先祖の話』さえ、戦後社会に向けた書だというイメージが作りやすい。しかし、柳田は戦況の悪化を知っても「敗戦」まで予見しえたのか。

この前後、柳田は神道書を読み進めている。だとすればそれを持って、いかに「働く」つもりだったのか。何か神道や国学の復興のようなことを念頭に置いていなかったのか。 柳田が戦後社会に対応を見せるのは最も早くて敗戦翌年の「喜談日録」で「国語」について論じることである。だがそれは戦時下に描かれた「国語の将来」(1939)の延長にある。柳田國男の戦時下「国語」論は例えば花森安治のそれにも近い。そのことは稿を改める。

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