芽々ちゃんはたぶんラメ入り
第1回

ぼくは光合成

芽々ちゃんはたぶんラメ入り
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恋をするって、人間だったら普通のこと? 静岡県の県立高校を舞台に、不器用で、情けなくて、かけがえのない恋が動き出す。注目の若手詩人・水沢なおが紡ぐ、高校生たちの青春群像劇。

 1

 あ、なんかまぶしいね。

 カーテンの隙間から土のにおいの風が吹いて、葉と葉がこすれるように目を細める、笑っているみたい、シャツから伸びる腕は重なり合うたび透き通って、ぼくはきみと、光と水を湛えて揺れていた頃を思い出す。

「緑じゃん」

 カーテンに隠れていたモクがぼくを見て言う。

「葉緑体。ここから光合成するんだ」

 傘をひらくように耳の後ろの毛束をつかむと、緑色のインナーカラーがぴょんと飛び出る。

「刈り取られるんじゃない、次の頭髪検査で」

 モクは、かにのように指ではさみをつくって、ぼくの頭皮に広がる草原を切り落とす仕草をした。

「そうしたら、ぼく元気なくなっちゃう。わかる? 髪の毛が緑色だと、なんとなく元気でいられるんだ。ほんとうに、たったそれだけのことで」

「ふうって、植物みたいなこと言うね」

「植物だよ」

 そう答えると、モクはいたずらっぽく笑った。

「でも、最近は植物っていうより、ちょっと幽霊じゃない?」

「やめてよ」

「部活、また来ればいいのに」

「ぼくは、水やり専門だから」

 地平線のそばがふつふつ燃えるように赤く染まり始めてきた。モクは園芸部。ぼくは園芸部の幽霊部員。ジャージに着替え終わったモクを見送ると、ぼくは誰もいない教室の窓から、中庭の畑を眺めた。吹奏楽部の生徒たちが、大きな楽譜を持って長い廊下をぱたぱたと駆けていく、プォー、と人間の吐息が飴色の音になる。

「幽霊じゃないのに」

 ロッカーの上に置いてある、パキラの植木鉢に水をそそぐ、ぼくにはぼくの姿がよく見えている。

 ホームに滑り込んでくる橙色の電車に乗り、荷台にリュックを置く。肩紐につけていたふわふわあざらしのキーホルダーと息ぴったりに揺れる吊り革を握る。スマートフォンの小さな画面に、ただぼんやりと指紋をこすりつけているだけで、ホットケーキのタネみたいにダマだらけの情報がどろどろ流れ込んでくるのですくすくと吸う。

 十代に大人気のアイドルがまさかの熱愛発覚!

 という見出しのすぐ下にある解像度の低い写真をピンチすると、ぼんやりとした影は、夜中、手をつなぎながら歩いている。そういうふたりのかたちになっていった。

 しりとりをしながら手をつなぐ同級生△さんと平井しずく

 写真のキャプションにはそう書いてある。

 平井しずくって、モクが応援しているアイドルじゃん。昨日も、平井しずくの描く犬は耳が垂れていていつもくつろいでいる、と語るモクの幸せそうな顔を見たばかりだった。

 △さんは、もっとたくさん、犬の絵を見たことがあるんだろうか。しりとりをするくらいだから、あるんだろうな。プレゼントのメッセージカードや、一緒に食べたファミレスのレシート、テスト範囲のスクショを共有するときのちょっとした落書き。いたるところに、△さんのためだけの犬がいるのかもしれない。そんなことを思わせる力があのぼやけた写真にはあった。

 大丈夫? と、メッセージを送ろうとして、やめた。まだ、モクはニュースを見ていないかもしれない。ずっと知らないままだったら、平井しずくは、ずっと熱愛をしていないことと同じだ。大好きだからといって、なにもかもすべてのことを知る必要なんてないんだ。

「おはよう」

 早朝の教室、机に突っ伏しているモクのつむじにむかって声をかける。

「大丈夫?」

 のっそり身体を起こしたモクは、気だるそうに二度、まばたきをした。

「なんか、心にぽっかりと穴が空いた気分」

「失恋したってこと?」

「いや、多分、失恋とかじゃないけど」

 モクは、さっきからぼくと目を合わせようとしない。窓の外、そのずっとずっと奥に山があって、空気の膜に包まれたその青い三角形を見やっている。野球部がランニングをするときの掛け声が四階にいるのにすぐそばに、まるで空気の上を走っているみたいに近く聴こえる。

「しずくさんも、ひとを好きになったりするんだ」

「モク、アイドルに夢見すぎなんじゃない」

「夢?」

 ぽつり、とモクはつぶやいた。

「人間って、恋愛をするいきものなんじゃないの」

 ぼくは言った。なぜか喉の奥がぴりぴりと痺れた。

「ふうもそう思う?」

 モクはぼやけた瞳でぼくを見た。それはどこか怯えているようにも見えて、頷くのには勇気が必要だった。

「ふつうの人間なんだから恋愛くらいしてあたりまえって、ファンのひとたちは言うんだけど。みんな、言うんだよ。アイドルだって人間だ、健全な人間だったらふつうに恋愛くらいしているって」

「うん」

「だれかと恋愛をしたいって、一度も思ったことがないんだ。おれって、人間じゃないのかな」

 人間だよ、モクも、ぼくも。そう言いたかったのに、チャイムが鳴ったから、ぼくはなんにも言えなかった。

 その日の放課後、久しぶりに園芸部に顔を出すことになった。授業にはあまり集中できなくて、恋愛のことばかり考えていた。モクと並んで階段を降りる、踊り場の壁に立てかけてある背の高い鏡に緑色のスリッパが映り込む。

 中庭の畑では、すでに何人かの部員が作業をしていた。部長のやんやん先輩は、半年ぶりに現れたぼくに対して特に言いたいことは無いようで「ミニトマトやろうか」と、小さい種を渡して去っていった。

「箱まきにしようか」

「うん」

 育苗箱に土を入れ、表面を平らにならしたあと、割り箸で等間隔に溝を掘っていく。種を均等にまくための溝が必要だった。

「進路とかもう決まった?」

 向かい合い、背中を丸めながら手を動かしていると、いつもは気にならない無言の時間がなんだか重苦しくて、ぼくはつい将来の話をしてしまう。

「隣の席の大壺さんは散歩の研究員になりたいんだって。ぼくはまだなにがしたいとか全然わかんないから、今年の夏はいろいろ、オープンキャンパス行こうかなって」

「ふうん」

 モクはなんだか上の空だ。

「モクは将来、なにになりたいの」

「植物になりたい」

「どうして?」

「人間って、なんかざわざわするから」

 そう静かにつぶやくモクの、土に穴をあける軍手の、人差し指に穴が空いていたから、ぼくはそこに自分の指を突っ込んだ。わっ、とモクが小さく声を出した。

「E.T.みたい」

 ぽつり、とモクがつぶやいた。

「E.T.?」

「光るんだよ、こうすると」

「へえ……」

 ぼくは、ぶあつい布でくるまれた指先が光る瞬間をじっと待った。

「なにが起こると思う?」

「どういうこと?」

「ふうは、たとえば地球外生命体と、指と指を合わせて、指先がちょっと光ったら、なにか期待しない?」

「期待するかも」

 ぼくは言った。

「いつかきっと全部見て。おれたちみたいに、植物を愛でている地球外生命体が出てくる映画なんだ。E.T.はこの宇宙にあるすべての植物を採取していて、光る指を合わせると、傷口が治るんだよ」

 じゃあ、いますぐ光って。モクのすべての傷を癒やして。ぼくははじめて自分の指にお願いをした。

2

《今度の土曜日空いてる? ヨドバシカメラに山を見に行かない?》

 ベッドに寝転がりながら、モクからのメッセージをもう一度ひらく。ふぅーっと息を吐いてから、言葉を打ち込んでいく。さっき、風呂に入ったばかりなのに、爪の中にまだ土が残っている。

《明日は、ハハと朝からふわふわあざらしのぬいぐるみ買うために早起きするから、ヨドバシにあるインクジェットのでかい山、見に行けないやごめん》

 送信ボタンを押すと言葉は黄緑色の吹き出しになって、ふたりだけの空間にぽんと漂う。既読にならないうちにスマホを裏返しにして、部屋の電気を消す。モク、一緒に遊びに行けなくてごめん。つらいことがあったのに、ひとりにしてごめん。でも、今日は部活に誘ってくれてうれしかった。久しぶりに土を触ったら、石と葉っぱと日光の混ざったにおいがふかふかして気持ちよかった。モクに言いたいこと、伝えたいことが、ふくらんだねこじゃらしの種みたいにたくさんあるよ、いつか学校で、かつてぼくは風の中ですくすく水を吸うたんぽぽだったって、そういう話を笑わないできいて。

 朝、八時に起きて、ハハの運転する車の後部座席に座る。運転席から放られたチョコスティックパンを、奥歯ですりつぶしながら食べる。先端にチョコがたくさん集まっている個体にあたると、ざくざくしてご褒美みたいだって思う。

 二十分ほど走らせたところにあるショッピングモールの駐車場に車を停めると、早足で裏口へと向かう。すでに五十人ほど開店待ちの列に並んでいる。その全員が、今日発売のふわふわあざらし限定ぬいぐるみがほしい。端午の節句に合わせて、かしわ餅になりきったおおきなあざらしがほしいのだ。

「うわ、もうこんなにひとがいるんだけど。買えなかったらどうしよう」

 列を見た途端、ハハは落ち着きが無くなって、顔いっぱいに不安を滲ませた。

「大丈夫だよ。いつもこのくらいの時間に来たら絶対買えるじゃん」

 そう宥めてみたものの、ハハは気が気でないようだった。大丈夫だよ、と言えば言うほどハハの焦りはふくらんでいって、開店後、ついに弾けた。ハハは、走ってはいけないと言われたのに、三階にあるふわふわあざらしの専門店へ向かってエスカレーターを駆け抜けていった。きちんとルールを守っていたひとたちを二段飛ばしでぐんぐん追い抜いて、そうして整理券を手に入れた。

 おひとり様ひとつまで。

 店頭のPOPにそう書いてあるのが見える。順番通りに並んでいたぼくも整理券をもらって、ハハはぬいぐるみを二個購入できることになる。

「ふうがいてくれてよかった」

 券を手渡すと、心底うれしそうにハハが言った。頬の高いところに生えた産毛が桃のように赤く染まって見える。ぼくはたったのそれだけで、指先がちりちりするような、居心地が悪いくらいの安心感に包まれていった。それもほんとうに不思議だ。

 無事にぬいぐるみを買うことができたので、一階にある広場のベンチで休憩することにした。

 ハハが買ってきてくれたペプシを飲みながら広場の巨大なモニターをぼんやり眺めていると、歌い踊る五人の姿が映し出された。平井しずくの所属するアイドルグループ『スイスイ』が、来週この噴水広場でライブをするらしい。平井しずくはミントグリーンの衣装を着ていて、穏やかな雰囲気にその色はよく似合っていると思った。モクは、平井しずくのどんなところが好きなんだろう。やっぱり、顔が好き? 歌声やダンスが好き? がんばっているところが好き? たくさんのアイドルがいるなかで、どうして平井しずくだけが、モクの心にきらきらと木漏れ日のような光を差すのだろう。

「平井しずくの熱愛報道を見て、モクは落ち込んでた」

 ぼくは隣に座っているハハに言った。

「若いなぁ、モク君。アイドルなんて恋人がいるに決まっているんだから」

 するとハハはやりすぎなくらい、にやりと口の片方をもちあげた。

「そんなの、わかんないじゃん。恋愛をしないって決めている人もいるだろうし、それに、恋愛感情を抱かない人だっているっていうし」

 モクのことを思い浮かべながらそう言ったけれど、ハハはなんだかピンときていないようだ。

「もしそうだったとしても、アイドルってすごい魅力的なひとでしょ? みんなそのひとの特別になりたくて、たくさんのひとが言い寄ってくるわけ。そのなかにはきっと、恋愛関係じゃなくてもいいから、いっしょにいてくれないかってひとももちろんいる。そういう相手と、お互いにたくさんの喜びや安心感をもたらすような関係を築いたりしているわけだよ、アイドルは」

「でもそれって、恋人じゃなくない?」

「ファンからしたらその違いなんてわからないくらい、大切な存在がいるんじゃないのって話。美しいひとがひとりでいることを世界は許さないから」

 そう言うと、ハハはまたニッコリと笑った。友達が同じようなことを言っていたら、自分の考えとか、反論とか、きちんとまとまりそうなのに、ハハの言葉の前では、自分のかたちがちぎれた雲みたいに、なにもかもぼやけてしまう。

「だからモク君も、キャラクターに心を預けたら安心なのに。不倫も犯罪もしない。キャラクターによっては恋愛もしない。なによりもかわいくて、やわらかくて、ずっとずっとそばにいてくれる」

 ハハは、かしわ餅みたいなふわふわあざらしをぎゅっと抱きしめた。ぼくも真似してそうした。ハハがうれしそうだと、ぼくもうれしい、というより、ほっとする。でもそれは、ぬいぐるみを抱きしめたときのほっとする感じとは、また少し違う。

 ぼくの家には、数え切れないほどのふわふわあざらしが住み着いている。どうしよう、卒業後はすぐに働いてほしいと言われたら。ふわふわあざらしを買うためにがんばってね、と言われたら。べつに、いまはまだやりたいこともわからないし、卒業後に働く選択肢もあるけれど、それ以外の選択肢が消えてしまうのはこわい。もう、高二だし、そろそろ将来の話もしないといけないような気がする。

 パパにお昼ごはん買って帰ろう、とハハが言う。ショッピングカートを押すハハの後ろを、時折スマートフォンをいじりながらついていく。恋愛をしないふわふわあざらしが、ハハとぼくのリュックの上でぽんぽん揺れている。

 月曜日、モクはぼくの顔を見るなりこう言った。

「仲のよい友だち」

「なにが」

 唐突な友達宣言に驚いていると、モクは『スイスイ』のステッカーが貼ってあるスマホをぎゅっと握りしめながら続けた。

「昨日の晩、しずくさんのブログが更新されたんだ。この前の報道の相手は、仲のよい友だちだって。小学校からの同級生で、恋愛関係ではないって、不安な気持ちにさせてごめんなさいって書いてあった」

 窓枠に寄りかかりながら語るモクの瞳が、早朝の湖面のように静かにきらめいている、底が澄み渡っているのがよくわかる。

「でも、本当にそうだと思う。ふたりが並んで歩いているだけで、手をつないでいるだけで、なんで恋愛だって思っちゃったんだろう。しずくさんは謝る必要なんてなかった。本当のことは、ふたりにしかわからないのに」

「信じるんだね、平井しずくを」

 モクは強く頷いた。

 信じるって、ちょっと不思議な言葉かもしれない。でも、平井しずくが、ファンに信じてほしいと思った関係性が友達ならば、そう伝えようとしてくれたのであれば、ぼくもそうしたい。平井しずくはモクのことを傷つけないって、そう信じるしかない。

「純粋だね、モクは」

 斜め後ろの席から話をきいていたらしい吉岡が、声をかけてきた。

「別に、純粋とかじゃないよ」

「ふうん」

 椅子をがたがたと引きずりながらこちらに近づいてくる、その妙にうんざりした口調がまぶしくて、ぼくは口の端を硬く結ぶ。

「ていうか、良くない? アイドルが恋愛していたって。本当のファンだったら、推しの幸せが自分の幸せだろ。平井しずくの幸せを一番に喜べよ」

 本当のファン、とささやくモクの声が、ぼくにだけ聴こえた。

3

「でも、おれはショックだったんだよ、しずくさんが恋愛しているって知ったときは」

 そう言ってモクは俯いた。薄い前髪がさらりと流れて、まつ毛のふちが濡れた目を覆い隠す。吉岡は、顎先を微かに上げ、笑みを浮かべながらモクのことを見つめている。

 普段、吉岡とぼくたちは、あまり会話をするような関係ではない。中学の頃と比べるとクラス内のカーストはずいぶん穏やかになったけれど、吉岡は特別に陽当たりがよいグループにいて、ぼくたちはほどほどの陽当たりの場所にいる、程度のことは、なんとなく自分でもわかる。

「なんでショックなわけ? わかんない。恋愛していたらショックとか、ファンを辞めるとか、それってアイドルとなんの関係があんの。恋愛していることを責めて、悪口言って、モクみたいなファンってなにがしたいの」

 冗談めいた口調のわりに、言葉のひとつひとつは切れ味の悪いナイフのようにざらりと尖っている。

「おれは、熱愛報道を理由にファンを辞めるつもりはなかったよ。ショックだったけど、べつに、嫌いになったわけじゃない」

「そもそも、平井しずくに彼氏がいてもいなくても、モクが付き合えるわけないのに」

 モクが、唇の端をぎゅっと噛んだのがわかった。瞳を包み込む水の膜がみるみる分厚くなっていく。瞬間、ぼくは思わず口を開いていた。

「本当のファンとか、そんなの誰にだってわかんないじゃん。好きな人の幸せが、自分にとっては不幸なことだったとしても、別にいいじゃん」

 つい、大きな声が出てしまった。教室内に満ちていたざわざわとした話し声が、一瞬しんとなる。だけど、もう自分で自分を止めることができない。

「そもそも! アイドルと付き合えると思っていたとして、なにが悪いの!?」

 びりびりと喉が震えた後、頬と耳たぶにぎゅっと血が集まって、薄い皮膚が爆ぜそうに熱くなる。吉岡は、ぽかんとした顔で首を傾げている。

 ガララ、と扉が開く音に反応して、みんな一斉に廊下の方を見た。

「おーい。一限は全校集会だから、みんな廊下に並んで」

 担任の先生のひと声で、教室内の三十人はぞろぞろと列になって体育館へ向かう。ぼくよりも背の高いモクは、ぼくよりも少し後ろを歩いている。

 体育館の冷たいフローリングに四百人ほどが膝を抱えながら座ると、全校集会が始まった。分厚い窓がいくつもある、天井のネットにピンク色の縄跳びが引っかかっている、気がついたら、表彰式が始まっている。先週の土曜日、陸上の県大会が行われたらしい。吉岡の名前が呼ばれて、賞状が渡される。ぼくは拍手をする、吉岡がグラウンドを駆け抜けてゆく、銀色のスニーカーが白くカーブしたラインを踏む。それを頭の中で追いかけているうちに、終わりの言葉が始まっていた。

「みなさん、恋愛関係はほとんどの場合一瞬です。そのとき限りです。でもこの時期の友情は永遠です。先生も、いまでも高校時代の友人とは縁が続いています。だからみなさんも、いまは友情を大切に、日々過ごしてください」

 教頭先生はそう締めくくって壇上から降りていった。ざわめきの隙間から、鳥の鳴き声が白い泡のように聞こえてきて、隣にあるプールの青い水が揺れる。膝と膝の間に額を乗せて生まれたほのかな暗闇で、もう一度言葉を反芻させる。そんなこと言うんだったら、好きになった人のそばから一生離れない。永遠にしてやる。恋愛も、友情も、なにもかも。ぼくってなんだか単純だ。

「ふう、スイスイのライブ一緒に行かない? 今週の土曜日、噴水広場でやるんだけど」

 昼休み、窓際の席でコンビニのサンドウィッチを食むモクは、数時間前まで涙目だったとは思えないほど、けろっとしている。

「あ、行きたい。でも、ちょっと待って」

 ハハが握ってくれたおにぎりを持っていない方の手で、スマホのスケジュールをひらく。

「ふわふわあざらしの発売日、確認してんの?」

「うん。でも、今週は大丈夫そう。ライブ行けるよ」

 その翌日は、ハハとふわふわあざらしのコラボカフェに行く予定で埋まっていたので、ギリギリセーフだ。

「じゃあ、待ち合わせしよう。十二時にドトールの前でいい?」

「わかった。ライブとか行くの初めてでさ。なんか、準備していくものとかある?」

 アイドルの現場には、コールとか、独特の作法があることはなんとなく知っている。

「手ぶらで大丈夫。曲聴いてきてくれたらうれしいけど。コールとかも、あるけどやらなくていいし。でも、もしミントグリーンの服があるなら、それを着てきてほしい。平井しずくのメンバーカラーだから」

「りょうかい」

 と、いいつつ、白と黒以外の服なんて持っていないので、困ってしまった。

 

 土曜日、スマホのアラームで起きる。両親はまだ眠っている。ふたりを起こさないよう、音を立てずに階段を降りると、テレビも照明もつけないまま身支度をして、自転車で集合場所へ向かう。

 十二時、ショッピングモールの一階にあるドトールの前に、ミントグリーンのティシャツを着たモクが立っていた。小さく手を振るぼくのポロシャツも、ミントグリーンだ。パパのクローゼットで見つけたゴルフウェアをこっそり借りている。

「なんかペアルックみたいだね」

「ペアルックでしょ。それに、会場ついたら、ペア以上になるよきっと」

 その言葉通り、イベント会場の噴水広場にはミントグリーンのティシャツを着た人がたくさんいた。ちょうど、ふかふかの土から芽を出したばかりの若葉のように。赤やイエロー、水色など、さまざまなカラーを身に着けた老若男女で溢れている。その中にぼくたちは紛れ込み、無料エリアの最後列にたどり着いた。会場自体は体育館より少し狭いくらいで、ここからでもステージはよく見える。

「よかった。ふうが来てくれて。ちょっとビビってたから」

「なんで?」

「熱愛報道があってから、ファンが荒れてたんだ。しずくさんのアンチがこの場にたくさんいるんだって思うと、怖かった」

「ふうん」

 ライブの開演が近づくにつれて、モクの口数は少なくなっていった。緊張しているのかもしれない。ライブが始まってからも、ぼくはモクのことが気になってしまって、スイスイのパフォーマンスに集中できなかった。モクの頬の高いところを、ひと筋の涙が伝う。透明で、あたたかそうで、モクは泣いてる。どうして? 悲しくて、苦しいの? 感動だったらいいのだけれど。

 会場は、熱気でうねっている。みんな、思い思いにメンバーの名前を叫んだり、飛び跳ねたり、一緒に踊ったりしている。ぼくたちは、そこに深く根を張る木々のように、ただそこに立ち尽くしていた。

 

4

「スイスイ、すごかったね。テレビで見るよりずっとキラキラしてた。ダンスも揃ってるしキレッキレだし、衣装も裾のところがグラデーションになっていて素敵だし」

 ライブが終わってから、ぼくばかり喋っている。ファミレスであつあつのドリアを食べているモクのたましいは、まだ噴水広場を漂っているみたいだ。ぼくは最後のひと口をスプーンで掬っているというのに、モクのお皿は半分以上残っている。

「モクは、平井しずくのどこが好きなの? どうして応援しようって思うの」

 ストローを吸う、カルピスとメロンソーダを混ぜたまろやかな炭酸と、細かく砕かれた氷が舌の上を転がる。

「どうしてだろう。たまたまオーディション番組の切り抜き動画みたいなのが流れてきて、そこから本編を見ていくうちに、しずくさんのことを知ったんだ。それまでアイドルを好きになったことはなかったんだけど……」

「うん」

「純粋でいることを恐れていないっていうか、わからないこと、理解できないことを、そのまま放っておかないところが好き。世界に対していつでも興味津々なところも。あとすごい、友達みたいでいてくれるところも好き。なんていうんだろう。ファンに向けての言葉とか、距離感とか、どきどきするっていうよりは、水とか土に触れたときのような親密さがあって、すごく自然でいられるんだ」

「見た目も好き?」

「うん。かわいいって思うよ」

「ふうん」

 がり、がりと底にこびりついたホワイトソースをスプーンで刮げる。もう食べるところなんてほとんど残っていないのに、ついそうしてしまう。

「そのかわいいは、恋愛感情とは違うんだよね」

「うん、そうだと思う。恋愛ってなんなのか、全部わかっているわけじゃないけどさ、そうじゃないってことはわかるんだ。でも、だからといって、べつに純粋とか、誠実とか、そういうわけじゃない」

 ぼくも、平井しずくのことは、素敵だって思う。 モクの言葉や眼差し越しに見る彼女はより一層かわいくて、生真面目で、大切なものをファンと分かち合おうと心を砕いてくれていることが、よく伝わる。でも別に、平井しずくに夢中にはなれない。他のメンバーに対してもそうだ。アイドルに限らず、ぼくはなにかひとつのことを、自信を持って好きだと言えたことがまだない。

 ただ、平井しずくの話をしているモクのことは、面白いし、たまに情けないし、モクの熱が伝播して、ぼくまでぽかぽかして楽しいんだ。こんなふうに、誰かのことをまっすぐに見つめることができたなら。それは幸せなことなんだろう。

「ふうが吉岡にさ、アイドルと付き合えると思っていてもいいじゃんって、言ってくれたの、あれすごい、よかった」

「だけど、後々考えてみたら、モクが平井しずくと付き合いたいと思っている、みたいに聞こえたかもしれないなって、ちょっと反省した。ぼくすごい、大きな声が出ちゃったから」

 そう言うと、モクはじっとぼくの目を見た。

「もしも、だよ。もし、しずくさんに、付き合ってくださいって言われて、いまのおれのままでいいって、全部を受け入れてくれたなら、しずくさんと付き合うかもしれない」

「そういうもん?」

 ぼくはびっくりして、ソーダを吹き出しそうになった。付き合うって、つまりは恋愛そのものだって、そのときのぼくはそう感じていたから。

「そういうもんでしょ」

 モクは尖った犬歯を光らせて、ゆっくりと笑った。

 月曜日、ぼくたちは向かい合ってなすの種を蒔いていた。中庭の畑には、すでに夏へと向かう水粒を含んだ風が吹いている。

「どうして、平井しずくは手をつないだんだろうね。△さんと手をつないでいたら、多くの人から付き合っているって判断されて、それを知ったファンは悲しむって、アイドルだったらわかっていたような気がする。もちろん、写真を撮るほうが悪いのは、それは本当にそうなんだけどさ」

「うん」

 厚紙の上に乗せたちいさな種を、ひと粒ひと粒、土に並んだ溝へと弾きながら、モクは慎重に頷いた。

「でも、こうやって、ふうと一緒にライブに行ったり、種を蒔いたり、ドリンクバーのソーダ飲んだり、動物の名前でしりとりしたり、そういう時間ってすごい、心地いいよ。大切だなって思う。生きていく上で必要だって」

「ぼくも、ライブ楽しかった。あざらしもいいけど、スイスイもよかった。モクがいなかったら、そんなの知らないままだった。それに幽霊じゃなくなってよかったって、本当にそう思ってる」

 平井しずくの熱愛報道があってから、毎週、園芸部の活動に参加するようになっていた。モクが心配だから放っておけない、とかそれ以上に、いまはこの植物たちがどう育っていくのかを、見守っていきたい気持ちで溢れている。

「すごい癒やされるよね、土や根に触れている、たったのそれだけで」

「うん」

「幽霊じゃなくて、いまは植物なんじゃないかって、そう思うよ」

 首筋に飴色の日光があたって、そこがちりちりと痛くて気持ちいい。土のほろほろとした感触を指先に覚えながら、ぼくはゆっくりと口を開いた。

「なんかさ、ぼくが隣にいることで、モクが少しでも元気になったらうれしいんだ。植物が光合成するみたいに、モクの苦しいこと、悲しいこととか、そういうの、全部吸い込んであげられたらって思うから」

「ありがとう、ふう」

「こうやって、ぼくらずっと笑って過ごしていけたらいいね」

 モクは眩しそうに目を眇めながら頷く。

「うん。永遠に」

「それは、友情だから永遠?」

 全校集会での言葉がふとよみがえって、ぼくは思わずそう尋ねていた。

「いや、おれとふうだから永遠なんだよ、もっと前から出会っていたとしても、未来で出会っていたとしても、きっとそうだった」

 モクがそう伝えてくれたから、ぼくは思いっきりうんと言った。自然とはにかんでしまう、ねこじゃらしで皮膚の薄いところをくすぐられているみたいで、草を結ぶように硬く指切りをしているみたいで。

 土埃が舞い上がる、野球部のボールが青いフェンスにぶつかり、常緑樹の葉が相槌を打つように揺れる。砂粒の混じった目に涙が浮かんで、風から種を守ろうとする手のひらの、そのかたちが瞬きをするたびに滲んでいく。ぼくは一体、なにになりたいんだろう、永遠を確かめるには、どんな光が必要なんだろう。手のひらの上にあるこのちいさな種も、ぼくたちも、これからどうなっていくのだろう。やがて大きな葉を広げるのだろうか、緑いっぱいに光をたくわえて。そうだったらいいね、お互いに。

 ぼくらは光合成をするように、このあたたかくこそばゆい日々を生きている。

(おわり)

第2回は8/27更新です

筆者について

みずさわ・なお 1995年、静岡県生まれ。詩人。2019年刊行の詩集『美しいからだよ』で中原中也賞受賞。2023年、初小説集『うみみたい』(河出書房新社)を刊行

  1. 第1回 : ぼくは光合成
連載「芽々ちゃんはたぶんラメ入り」
  1. 第1回 : ぼくは光合成
  2. 連載「芽々ちゃんはたぶんラメ入り」記事一覧
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