『日本エロ本全史』『日本AV全史』など、この国の近現代史の重要な裏面を追った著書を多く持つアダルトメディア研究家・安田理央による最新連載。前世紀最後のディケイド:90年代、それは以前の80年代とも、また以後到来した21世紀とも明らかに何かが異なる時代。その真っ只中で突如「飯島愛」という名と共に現れ、当時の人々から圧倒的な支持を得ながら、21世紀になってほどなく世を去ったひとりの女性がいた。そんな彼女と、彼女が生きた時代に何が起きていたのか。彼女の衝撃的な登場から30年以上を経た今、安田理央が丹念に辿っていきます。(毎月第1、3月曜日配信予定)
※本連載では過去文献からの引用箇所に一部、現在では不適切と思われる表現も含みますが、当時の状況を歴史的に記録・検証するという目的から、初出当時のまま掲載しています。
飯島愛が2007年3月いっぱいで芸能界を引退してから21箇月後の2008年のクリスマス・イブの夕方、彼女の急死が報じられた。
引退後もその動向は折りにふれマスコミで取り上げられており、直前にもイベントに登壇していただけに、そのニュースはあまりにも唐突だった。
飯島愛さん 自宅で急死
24日午後3時15分ごろ、東京都渋谷区桜丘町のマンションの一室で、この部屋に住む元タレントの飯島愛(本名・大久保松恵)さん(36)が倒れているのを知人の女性が発見、119番した。救急隊員が現場に駆けつけたが、飯島さんはすでに死亡しており、警視庁渋谷署は、遺体を25日にも解剖して詳しい死因を調べる。
同署副所長によると、知人の女性は数日前から飯島さんと連絡がとれなくなったため、マンションの管理人に鍵を開けてもらい室内に入った。飯島さんはリビングルームでうつぶせの状態で倒れていた。飯島さんに外傷がなかったことなどから、同署は病死の疑いが強いとみている。
飯島さんはバラエティー番組を中心にテレビで活躍。アダルトビデオ出演などの経験をつづった自伝「プラトニック・セックス」はミリオンセラーになり、映画化もされた。しかし、腎盂炎などを患ったこともあり、2007年3月末、「体調がすぐれず厳しい世界で生き残ることは不可能」として芸能界を引退。今月6日には、宇都宮市で開かれた世界エイズデーのキャンペーンに参加していた。
(読売新聞 2008年12月25日朝刊)
発見された時点で、死亡からかなりの時間が過ぎており、その発見現場は凄惨な状況だったらしい。『フラッシュ』2009年1月20日号は「飯島愛『どこにも書けない』発見現場の腐乱惨状!」という記事で、その様子を悪趣味なまでに詳細に描写で報じている。
室内に横たわった遺体の状況は、生前の彼女には似つかわしくない凄惨なものだった。本誌は捜査関係者からその詳細な状況を入手した。
「遺体は全体にどす黒く、腐乱が進んでいた。とくに左の腰回り上部のあたりがグチャッとした状態で完全に腐っていて、ベロンと皮が剥がれていた。指でうっかり触ろうものなら、もろく崩れそうな感じだった。何よりもかわいそうだったのが、顔の状態。上唇の腐敗が進んでいて、歯の一部が唇から外側に突き出していた。とてもあの飯島愛には見えなかった。うつぶせに倒れたときに床に当たって歯が唇を突き破ったのかとも思ったが、出血の跡はなかった。腐敗が進むにつれて、歯が剥きだしになっていったようだ」
室内には異様な臭気が充満し、耐えられないほどだったという。飯島さんの遺体は、翌25日には東京・大塚の監察医務院で行政解剖され、死後一週間が経過していたことが判明した。しかし、依然、死因は特定されていない。
「警察は、行政解剖の跡に肝臓、腎臓など臓器の病理検査までやっている。現時点では自殺の線は薄いと見られているが、ハルシオンなど複数の薬が部屋から発見されており、酒と薬の服用で意識不明となった後に死に至ったとの見方が強い」(社会部記者)
乱れ飛ぶ憶測と都市伝説
元有名タレントの変死は、様々な憶測を生む。当時、最も信憑性をもって囁かれたのは、彼女の覚醒剤使用に関しての疑いだった。
年の瀬の有名人の変死という重大事態に、慌てて駆け付けた渋谷署の捜査官たちは事件性が薄いと知り、一瞬、胸をなでおろしたに違いない。だが、直後、検視官の手にした白い板状の試薬に赤色の線が浮かび上がったのを目撃して、再び現場には緊張が走ったという。
「これは、遺体から覚醒剤の陽性反応が出たことを示していました」
と、捜査関係者が話を続ける。
「渋谷署の検視官が、トライエージという薬物スクリーニング検査キットを持ち込んでいました。このキットは尿からコカイン、大麻、モルヒネなど8種類の薬物を同時に検出することが可能で、陽性反応の場合、おそよ10分あまりで赤色の線が検出された薬物のところに浮かび上がります。なぜ、現場でこの検査を行ったかと言えば、1年ほど前、飯島本人にはドラッグ使用が疑われる事情がありました。それもあって、解剖に運ぶ前に、現場で検査を行ったのです」
昨年1月、飯島が渋谷署に赴き、
「薬を呑んでおかしくなっちゃった」
「一人で寂しいから話を聞いてほしい」
と、訴えたことが飯島の死後、スポーツ紙で報じられている。しかし、実際は、飯島が、
「私、覚醒剤をやった」
と、口走り、慌てた捜査官が別室で捜査をしていたのだ。幸か不幸か、結果は陰性で、飯島はお咎めなしで帰されたという。
この経緯を踏まえての覚醒剤検査だったわけだが、遺体の陽性反応を受け、マンションの室内は、警察によって徹底的に捜索された。(『週刊新潮』2009年1月15日号)
記事中にもあるように、飯島愛が警察署を訪れ、「精神的におかしくなった」「一人で寂しい」などと訴えたという奇行は、多くのメディアで報道されていた。
『週刊新潮』のこの記事では、彼女の部屋からは睡眠導入剤や風邪薬はあったものの、覚醒剤の現物や注射器などは発見されなかったと伝えている。
それでも、この「奇行」を証拠として、「飯島愛の覚醒剤使用疑惑」は、以降も多くのメディアで語られることになる。『週刊文春』2009年1月15日号の記事タイトルは「『覚醒剤常用』死して中傷される飯島愛『絶望的な孤独』」であった。
また、怪死はオカルト的な噂も呼ぶ。『女性セブン』2009年1月22号では、テレビ番組で共演した青森の霊能者がこんな発言をしている。
飯島さんの死がわかってから2日後のこと。こんな出来事があったという。
「ある自殺した20代の青年の除霊をしていたんです。そのとき、飯島さんが、私のそばに立ったんですよ。
スカートをはいていて、ひざのあたりから見えたので、いるなという感じがしていたのです。
そして青年が成仏するときに、ソファのところでにっこり笑って立っていたんですよ。にっこりです」
また『アサヒ芸能』2009年1月29日号の記事では、台湾で飯島愛急死のニュースが大々的に報じられた原因をこう説明している。
実は、これほどまでに飯島さんの「衝撃死」を台湾メディアが報じるのはもう1つ理由があった。それは、過去に飯島さんが台湾人の占い師から「3年後に死ぬ」と予言されていたからだという。
前出・台湾マスコミ関係者が言う。
「こちらの報道によれば、01年、『プラトニック・セックス』の中国語版の現地販売キャンペーンの時に、友人の紹介で有名な占い師に見てもらったことがきっかけだった。その後もプライベートで台湾を訪れるたびに占ってもらっていたと伝えられています。実際に占ったことのある台湾人占い師のコメントも掲載されています。ただ、『3年後に死ぬ』と予言した人物は特定されていませんが」
飯島さん自身がバラエティ番組でその事実を語ってこそいたが、どこまで信用していたのか……。
飯島愛怪死の理由については、この後も多くの噂が囁かれ、都市伝説化していくことになる。
彼女の思い出
そして3月1日、東京プリンスホテルで飯島愛の「お別れの会」が行われた。
『女性セブン』2009年3月19日号の記事では、会場の様子をこう描写している。
会場は生前彼女が好きだったというものでいっぱいだった。静かに流れる音楽は、よく聴いていたという小田和正の曲『たしかなこと』。1600本も用意された祭壇の花は、彼女のお気入りだった真っ白なカサブランカとカラーの花だ。
さらに、春になると自宅に飾っていたという桜の花も用意された。(中略)会場の一角には、170万部を超すベストセラーとなった自伝的小説『プラトニック・セックス』(小社<引用者註・小学館のこと>刊)とその直筆原稿、そして雑誌の対談で撮った芸能界の友人・知人との2ショット写真が展示されていた。
(中略)そして何より会場に続々と駆けつけた芸能界からの弔問客の顔ぶれ。
午前11時からの関係者向けの会には著名人ら700人が参列した。発起人は中山秀征、志村けん、大竹しのぶ、島田紳助、うつみ宮土理、加賀まりこ、古舘伊知郎、ホンジャマカ、ネプチューンら。司会は発起人の一人でもある徳光和夫が務めた。
他にも出川哲朗、モト冬樹、中居正広、草彅剛、神田うの、青木さやか、テリー伊藤、おすぎとピーコらも参列。錚々たる顔ぶれである。
午後1時からは1500人ものファンが献花を行った。20代後半から30代の女性が中心だった
集まった香典は、飯島愛が生前に取り組んでいたエイズ啓発活動に役立てるため、財団法人エイズストップ基金に充てられたという。
この「お別れの会」を皮肉めいた視線でとらえたコラムもあった。テレビ批評などをこなすライターの今井舞による『アサヒ芸能』での連載「今井舞のスーパー辛口TV時評 どくダネ!」2009年3月19日号掲載回だ。
いやはやすごかったなあ。「お別れの会」。生臭いのなんのって。生前彼女と縁の深かったタレントが集まり、それぞれが彼女を偲んで弔事を述べたわけだが、飯島愛を悼むというより、完全に弔辞を使っての「一大自己演出大会」。
(中略)みんな、我こそがNO.1とばかりに、自己演出たっぷりに遺影に語りかけてた。「お別れの会って名前だけど、お別れする気はないから心配しないで」と、温もり系で攻める大竹しのぶ。(中略)島田紳助は、ちょっとええ話は俺にまかせろとばかりに「お前死んじゃうから、お前くれたFAX、まだ替えられずに置いてある」と謳い上げる。まるで「悲しみの無礼講」とでもいうべき「俺が俺が」状態。
中でもいやらしさNO.1だったのが中山秀征だ。わなわな口を震わせ、時には歯をくいしばり、消え入りそうな声を絞り出したかと思えば、急に大声を張り上げる。ずっと目ぇ見開きっぱなしで口元薄笑い。「感極まって」の演出のつもりが、やりすぎて完全におかしなことになってる。
それからしばらくの間、飯島愛と「仲のよかった」芸能人たちが、彼女との思い出を語る記事が、週刊誌などに掲載され続けた。
※次回、最終回
筆者について
やすだ・りお 。1967年埼玉県生まれ。ライター、アダルトメディア研究家。美学校考現学研究室卒。主にアダルト産業をテーマに執筆。特にエロとデジタルメディアの関わりや、アダルトメディアの歴史の研究をライフワークとしている。 AV監督やカメラマン、漫画原作者、イベント司会者などとしても活動。主な著書に『痴女の誕生―アダルトメディアは女性をどう描いてきたのか』『巨乳の誕 生―大きなおっぱいはどう呼ばれてきたのか』、『日本エロ本全史』 (以上、太田出版)、『AV女優、のち』(KADOKAWA)、『ヘアヌードの誕生 芸術と猥褻のはざまで陰毛は揺れる』(イーストプレス)、『日本AV全史』(ケンエレブックス)、『エロメディア大全』(三才ブックス)などがある。