政府から見放され、警察が去り、無法地帯と化した東京・町田。そこで暗躍するのは、当事者たちの間に立って事件を仲裁する「探偵」だった──。『布団の中から蜂起せよ』で注目を集めた気鋭のアナキスト/フェミニスト・高島鈴による新時代左翼小説。
1
どこを見ていいか分からない、率直に言って。
いや、そのラッパーは歌っているのだ。やたら眩しい青っぽい光が降り注ぐなか、小さなターンテーブルを回すDJを背負い、前屈みになって。だがここからでは、いまいち表情が読み取れない。われわれの座っている席からあのMCは、あまりに遠すぎる。
街は暗い
後戻りしない
足が重い
どこへ行きたい?
曲はフックに入る。シンプルな言葉の連なりだが、チルい感じのビートのうえに低く呟くような声で乗ると、妙な閉塞感があり、それがなんとも言えず気持ちいい、ような気がする。ような気がする、と言っているのは、実のところ今の状況では、目の前のラッパーにとてもじゃないが集中できないからである。
「ご覧ください、りんごちゃんが喜んでいま〜す!」
ちょうどフックが終わり、次のバースへ移行するタイミングで、中央に設置された巨大な水槽から水飛沫があがった。イルカ――ふつうのイルカにしてはスナメリに似たずんぐりした身体つきで、灰色である――が跳ねたのだ。それを飼育員が説明し、観客は拍手を送っている。ラッパーはさすがにちょっとイルカのほうを見たが、引き続きどうにか、歌っている。歌おうと、している。
あの頃の友達どうなったとか話して
ネット使えねえ俺らからはfade away
人の縁で繋がったもんが全部全部消えてく
それでもまだ生きてるってここで歌う意味
お前ら何してるんだよ 遠くから聞こえるかmy lyric
「これマジでなんなんすか」
「いや、なんなんだろうね」
さすがに何か言いたくなって検校さんを見ると、検校さんも半笑いのまま、困ったように長い指で顎をさすっていた。いつもの意味不明な雑談もこれではする余地がないのだろう。水槽を囲んだコロッセオ型の空間、一番後ろの全体が見渡せる席に陣取って、われわれは互いに首を傾げる。
ラッパーのパフォーマンスを置いてけぼりにして、観客は再び水面に姿を現した「りんごちゃん」に熱中しているようだった。ばしゃん、ばしゃん、という水の音に混じり、「ちっ」という音がスピーカーを通じて耳に届く。あれ、今の、何?と思う前に、ラッパーはマイクを置き、足元からラベルの剥がされたペットボトルを取って、こちら側に背を向けながら水を飲み始めた。
肩甲骨のあたり、Tシャツがしわになって濃い影を作る。その若い背骨は、やけに尖って見える。
*
それは、ウーロウ、と呼ばれている。
「町田市立水族館のパンフレットによれば、えー、ウーロウとは、日本列島太平洋側の一部にのみ生息するイルカの一種。昔は鎌倉や三浦あたりで頻繁に確認されていて、地元の人は迷い込んできたやつを捕まえて油を採ったりしていたらしいです。そういうことやってたら、近代には乱獲に発展し、いつの間にか絶滅危惧種になっていて、人工繁殖が試みられたもののことごとく失敗。ただ一五年前、町田市立水族館、通称まちすいが世界で初めて人工繁殖に成功したそうですね。一説には、電波不通の状況がなんらかの好影響を与えているのでは、という話もあるらしい」
ライブ終わり、町田市立水族館内に併設されたカフェのテラス席で、われわれはテーブルを囲んでいた。テーブルの上には、私が先ほどチラシのラックから人数分もらってきたパンフレット「ウーロウのひみつ大公開!」とともに、カフェの看板商品らしい「りんごちゃんのティーソーダ」が人数分並んでいる。一応飲み物を頼まないとカフェに入れないのでこれを頼んだが、メニューには「りんごちゃんの……」という枕詞が目白押しで、とにかくあからさまにウーロウが推されているのが見てとれた。
パンフレットの文章を読み上げてティーソーダを啜ると、私の声の調子にひっかかったのか、検校さんが口を尖らせる。
「なんか全然興味なさそうだね。町田で暮らしててウーロウのことそんなに知らないってある? 嫌でも目に入らない?」
「興味ないですよ、私動物苦手ですもん。普通にでかい海獣って怖くないすか?」
「怖い……怖いか? まあラッセンとか確かに怖いか……」
「ラッセンの怖さはなんか文脈違う気がするけど」
「えー、じゃあイルカが怖いんじゃなくてラッセンが怖いのかな? 歯医者に飾ってあるもんね? あれ? じゃあ怖いのって結局歯医者?」
「いや歯医者も怖いけどイルカも怖いよ」
「歯医者の方が怖いね。国保切れた状態で数年放置して、これ絶対やばいわ神経いってるわ限界だわってなって歯医者行ったときあらゆる意味で死ぬほど怖かったからね」
「それもう話違くないすか?」
「……あの、そろそろ本題いいすか」
「あ、すいません、どうぞ……」
目の前に肩を丸めて座る今回の依頼人がついに口を挟み、われわれは謎に上がってしまったテンションを整えて、相手に向き直った。
「えー、自分はラッパーで、ジャッキーって名前でやってます。今日は、すいません、なんか情けない感じのライブ見せちゃって」
ジャッキーと名乗ったその青年は、ステージで見るよりかなりあどけない印象だった。何かのロゴが入った黒いTシャツに無地のバケットハット、シャカシャカした素材のハーフパンツを身につけていて、ひょろっと長い足がカフェの丸椅子に沿って伸びている。ただし笑顔を浮かべてこそいるものの、雰囲気は「柔らかい」とは形容できない、なんともいえない緊張感を帯びていた。
検校さんはそれを感じ取っているのかいないのか、いつもの調子で応じる。
「いや、情けないなんてそんな。あの状況でまともにライブできるほうがおかしいと思います」
「じ、自分もそう思います」
私が検校さんに同意すると、ジャッキーは少し恐縮したように軽く頭を下げる。
ジャッキー――一応事前に少し調べはした。町田を拠点にするラッパーで、年齢は21歳。関西ローカルの音楽オーディション番組で町田の貧困家庭で育ったことのリアルを歌う楽曲「街は暗い」を披露してバズり、名が知られるようになった。その後発表された二枚目のアルバム「kizuato」も高く評価されているという。
私より年下なのに、なんか……「成し遂げてるな」、と思ってしまう。遠目に見る相手はちゃんと他者だなと思えるのに、目の前にいるとその肌理や表情の若さに気圧されて勝手に身体が身構えるのは、自分の悪いくせだ。
何かを取り戻すように、私は質問を投げかける。
「なんか、あれは……なんだったんですか?」
ジャッキーは首を掻きながら、「なんか、俺も言われたことうまく分かってないんで、あれなんですけど」と前置きし、言葉を続けた。
「こういうの、なんて言うんでしたっけ。あの、お腹の赤ちゃんにベートーベンとか聴かせるといい子になる、みたいなやつ」
「胎教?」
「そう、それです。胎教」
「胎教……」
日常会話ではあまり出てこないよな、という単語を咀嚼しつつ、私はあらためてパンフレットに目を落とす。人工繁殖の項目に、確かにその一文はあった。
「ああ、本当だ……具体的な関連性こそまだ解明されていないものの、ウーロウの人工繁殖では、水槽前で音楽を流す、いわゆる胎教に効果があったと報告されている……それ以来、ウーロウが妊娠すると、必ず胎教を行なっていると」
「そうらしいです。俺も、よく知らなかったんですけど……でもなんか、やっぱ胎教って言っても税金でやるんで、なるべく町田のアーティストを呼んでライブにして、それでお客さんも喜ばせる、みたいな感じにしてるって」
「それでジャッキーさんが?」
「そうっす。先週から始まって、えーと、今月いっぱいは毎週やる感じです」
「結構長いですね」
「ええ……いやでも、しんどいっすね」
視線を下に落としながら、あはは、と低く乾いた声でジャッキーは笑った。そりゃあそうだろうな、と思う。「お客さんを喜ばせる」と言われても、あのありさまでジャッキーのパフォーマンスに集中していた人がどれだけいただろう。自分がジャッキーの立場だったらキレて帰るかもしれない。
「ジャッキーさんは町田出身町田育ちなんですよね。あんま私も左岸もヒップホップに明るいわけではないですが、ディスクユニオン行ったらめちゃくちゃ手書きのポップと試聴の棚があって。すごい人気なのは分かりました」
検校さんがそう語りかけると、ジャッキーはまた軽やかに肩を揺らして笑う。
「いやそんなそんな、マジで、まだ全然っす。たまたま聴いてもらえる機会があって、それでちょっと、声かかるようになって、で今回、みたいな」
あまりに感じのいい謙遜に、またどこかで引け目を感じている自分に気づく。いや、よくない、自分と相手は違う人間だ、と言い聞かせて、左腕をさすった。それを知ってか知らずか、検校さんは引き気味だった上半身を整えて、わずかに前のめりになる。
「それで……まあ、われわれのこと、私立探偵だって分かっていただいたうえでのご相談、ということだとは思うんですけど。今回は、どういうお話ですか?」
「……いいすか」
ジャッキーがわずかに周囲を見渡し、喉仏を上下させた。この若い成功者には何かが起きているのだと、私は嫌でも察する。
「どっから話せばいいのか……って感じですけど。最初は、まあ、ここのライブのオファーが来たのが、今年の春くらいでした。自分、最近やっと仕事もらえるようになったっすけど、普段別にそんなでかいことしてるわけでもなくて。でも今回の話はちょっとギャラがすごくて。いつものライブハウスでやるときの……三倍くらいすかね。すごい、破格の仕事だったんで、まああと町田の人、普段ライブ来ない人の前でライブできるならいいなって思って、それで受けたんですよ」
「へええ」
普通のライブのギャラ、というのがそもそもどれくらいか分からないので、三倍のギャラと言われてもいまいち想像がつかないのだが、私はとりあえず「町田市の依頼 ギャラが三倍」とメモする。あれ、ちょっと韻踏んでる?
ジャッキーはわれわれの表情を確認してから、話を続けた。
「それで、まあそれは俺もよくなかったんですけど、ちょっとその話を周りにしちゃったんすよね。何人か……正直酔ってたから誰が聞いてたかは定かじゃないけど、ライブとかあったときに、今度まさかのまちすいでライブやるから見にきてよとか、そういうふうに」
「よくなかったっていうのは……口止めされていたとか、そういう事情があったんですか?」
検校さんが追加で質問を投げると、ジャッキーは答えづらそうに眉を顰めた。机が揺れている、と思い、反射的に前を向けば、ジャッキーが細かく足をゆすっているのが分かる。苛立っているのか、不安なのか、私にはそこまで推察することはできないが、何かあるのだろう、とだけ思う。
「いや、特には言われてなかったです。そういうことではなくて……その、五月くらいですかね。多分そのへんのどっかから漏れて、白金さんっていう、まあ、なんていうんだろう、地元のちょい悪い先輩っていうのかな。別に俺はあんまり付き合い長いわけじゃなかったっすけど、その人に呼び出されたんです」
「シロガネさん……白いに金色の金?」
「そうです。この人もラッパーで、いわゆるギャングスタラップ系、ハスラー系のラップで有名な人……って言って伝わるっすかね」
「なんか、つまりドラッグディールとか、そういうのを曲のテーマにしてる人ってことかな」
「あー、だいたい合ってます。んで……その人、年が一回りくらい上で、いつもいるクラブとかがあんまり被ってないから、そんな会うこともなかったんだけど。でも、ちょっと裏でいろんな人と繋がってるって噂もあったから、すげえビビりながら、でも呼び出しに応じないわけにもいかなくて、行くことにしました」
ジャッキーは骨っぽい腕で身振りをつけつつ、説明を続ける。
「場所が、えーと、中央図書館の方にある、moodっていうちっちゃいクラブ、てかライブハウスかな、そこで。そこで白金さんに楽屋みたいなとこ呼ばれて、でも普通に座らしてくれるし、あんまキレられるとかそういう感じでもなかったんで、なんだろう、みたいな」
「ああ……mood」
「え、知ってます?」
検校さんが何か訳知り顔で顎をさするのにジャッキーが反応する。検校さんは「うーん」とちょっと唸りながらコメントを入れる。
「何年か前にいろいろドンパチあったとこだね。今どうなってんのか分かんないんですけど」
「いろいろ、ですか」
私がつい口を挟むと、検校さんはそれ以上話すつもりがないようで、「ま、これは後で考えるとして」と話の流れをさっさと元へ戻す。
「白金さんからは、なんて?」
「ああ、そう、そこで言われたんです。……『ウーロウを殺せ』って」
一瞬時間が止まったような気がした。それはジャッキーがわずかに息を呑み、その低くよく通る声をさらに低く小さく絞ったからかもしれず、あるいは検校さんのタトゥーまみれの右手がびくりと震えたからかもしれなかった。私はどういう意味か分からず、瞬発的に「は?」と口にしていた。
「いや、そうですよね、俺も『は?』って言いました……」
ジャッキーは情けなさそうに頭をかき、少し周囲を見回してから下を向く。検校さんはジャッキーの目をしっかり見据えて、「白金さんは、それはなぜだと言っていましたか?」と続きを促した。
「なんか……なんて言ってたんだったかな……正確にどう言ってたかは、俺も意味わかんなかったから頭まっしろで全然覚えてないんですけど、確か『日本のため』だと、言ってました」
「日本のため……」
「そうです。あんまり、事情がどうこうっていうより、ウーロウを殺すのが日本のためになるんだ、日本は今やばいから、お前がそれを救うんだって……」
「それだけでしたか?」
「いや、あの……報酬を払うとも言われました。三百万円やると……」
「さ、三百」
ジャッキーがまた息を潜めているのに、私はつい食い気味に驚きの声で応じてしまう。ね、年収、いやそれどころじゃない金額だけど。
「それは……やばい話ですね?」
「やっぱやばいですよね? 俺も、意味わかんなくて。三百万って金がどっから出てるのかとか、日本のためってどういうことなのかとか、全然繋がらないし、すいません、考えさせてくださいって言ったんですけど」
「白金さんはなんと?」
「俺はお前のことを見込んでいるし、このままここで、町田で無事にやっていきたいなら、答えは一つだって分かってるよな……みたいな……」
ジャッキーはその広々とした肩を狭めて、水を飲むキリンのように首をダラリと下げた。先ほどまで頼もしさのように見えたその若さが、今では心細さそのものに変わっていた。
「脅しですね。それは」
「白金さんって、さっきも言った通り、バックに誰かいるっぽい、誰と繋がってるのか分かんない、って話だし、実際ビーフがあった相手をボコしたみたいなのも聞くから……俺ちょっとこれやばいなって思って」
「うん」
「今回……ちょっと、助けてほしいです。俺、どうしたらいいですか」
ジャッキーの目の奥の光が、すがるように頼りなく揺れていた。思わずどきっとする。今、自分は助けられる側ではなく、人を助ける側なんだと、この瞬間に突きつけられる。
検校さんが、静かに深く頷いた。
「大丈夫。……一緒にどうにかしましょう」
「すいません、お願いします……」
ティーソーダのカップを掴んで濡れた私の皮膚が、ジャッキーのか細い声の震えをわずかに感じ取っている。送信され、受信された。この人を追い詰めるものを、私は、われわれは、どうにかしなくてはいけない。
*
「なんか……どっから調べ始めればいいのか、ですよね」
夏の真昼でも妙に薄暗い芹ヶ谷公園を町田駅方面に向かってとぼとぼ歩きつつ、検校さんにそう尋ねると、「ううーん」という煮え切らない返事が返ってきた。
「なんかさあ……左岸から見て、どうだった?」
「何が?」
「ジャッキー。どういう人だと思った?」
あまり依頼人本人のことをあれこれ聞かれた経験がなかったので、一瞬たじろいだ。こういうとき、私はつい「正解」を探そうとするあまり、つい言動がぎくしゃくしてしまう。
「どうって……ええと、思っていたより若い感じだなというのと、あと、なんだろう、あんな若くて有名人になって、そのせいでいろいろ大変な状況にあるのに、ちゃんと相談できてえらいなあ、とか……?」
「なるほどねえ」
検校さんの刺青まみれの横顔がこくこくと揺れ、真っ黒いボブカットもさらさら動く。カーテンみたいだ、と思う。その向こう側に、私には理解できない文字が見え隠れする。
その様子をぼやっと眺めていたら、ふと思い出した。
「あ、でも、気になったことは、あります」
「なになに」
「ライブの最後、なんか、……舌打ちしてなかったかな?って」
「舌打ち」
「なんか、最後の曲の終わりがけのとこで、ちょっと明らかノイズじゃない『ちっ』って音がマイクに入ってて……確証ないけど、なんか、やっぱあの状況だとイライラして当たり前なんかなあ、と思いはした、かなあ」
思い返してみると、カフェにいたときもジャッキーはわずかに足をゆすり続けていた。自分も気持ちが落ち着かないと人前でも貧乏ゆすりやささくれを剥く仕草で気を紛らわそうとしてしまうから、そういう不安かなと思ったのだが、実のところ、もっと直接的な感情の表出だったのかもしれない。
検校さんは私の印象を聞き取ると、「そうだね」と一度深く頷いた。
「なんだか……分かんないよ。これは極めて感覚的な話だけど、ジャッキーは多分、まだ何か言っていないことがあると思う」
「……嘘ついてるってことですか?」
「ただちにそう、というわけじゃないよ。本人が自覚してるのかしてないのかも分からん。ただ、何か、後ろめたそうなところがあるし、ジャッキー本人も、何か言いたいことをぶちまけられないことへのフラストレーションっていうのかな、そういう感じの苛立ちは、私も感じた」
「フラストレーション、ですか」
「そう。……ただ、それを全部暴くのが正解なのか、というと、それも分からない」
検校さんの話に感想を抱く前に、あ、噴水だ、と思う。巨大な鉄の板が交差したような形のそれは、ゆっくり上下しながら水を吐き出している。どしゃーん。噴水ってこんなに意味ないのに、なんでこれに水を使うことをみんな許容しているんだろう。いつも不思議だ。
私の気が散っていることを、検校さんはおそらく理解していて、そのうえであえて放っておく。話は続いている。
「分からないというか、正解不正解じゃないんだよね。依頼人にとってわれわれに話せないと思ったことを探るのは、仕事の手段かもしれないが、目的じゃない。それは絶対的にそうだ。……何にせよ、状況確認から入るしかないかな」
「了解です」
公園の出口に向かって水路が伸びているのを、われわれは辿る。それしかできないみたいに、それだけはできるみたいに。
*
「なんかやたら人いません?」
駅前に近づくにつれて、何かを待っているかのような人びとが集まっているのに気付く。マツモトキヨシのあたりまで歩いてくれば、カメラを持っている人やら、私服であって私服でないようなシャツとスラックス姿の手ぶらの人――このテの服装の言葉にならない不快感はいったい何なんだろう――やらとすれ違って、いつもよりものものしい雰囲気だ。
「あー、州知事選じゃん?」
「ああ……あれ? 選挙ってまだけっこう先じゃないですか?」
「選挙期間中ではないね。投票しろとは言えないけど、それ以外なら……なんたら党のなんたらですよろしくお願いします、みたいな、いわゆる政治活動はできる」
「そういうことですか……それでこんな人来る?」
「まあ来るでしょ。東京州知事選とは言うけど、実質町田知事選みたいなもんなんだから」
ごく平坦なトーンで発せられる検校さんの言葉を聞きながら、すれ違う人を見る。その身振りは「待ち」の姿勢を取っているわりに、表情はなんだか凪いでいるような気がする。もし東京23区大規模電波障害=〈擾乱〉がなく、京都遷都もなければ、州知事選はもっと全国規模で注目されるような大イベントだったはずだ。〈擾乱〉以後、地域の主体性がなんちゃら、という理屈で無理やり導入された道州制は、結局東京という巨大な廃墟に大きな混乱をもたらした。その一つの極地が、ずたぼろの南関東にむなしい権力を発揮しうる、ゴーストタウンの王様決め――東京州知事選なのだ。
みんなうるさくて意味がなくてバカみたいだと思っている。が、誰かがこのカスみたいな生活をひっくり返してくれないかと、どこかで期待している。
「どうせまた現職なんじゃないですか?」
「宿直朝子(とのいあさこ)ね。今回は……どうだろうね」
宿直朝子は今の東京州知事だ――というか、道州制導入以降の東京はこの人以外の首長をほとんど知らない。町田市議会のそれなりに野心的な若手議員だったところを、老いた悪い政治家たちにおだてられ、自ら〈擾乱〉直後の東京州知事という最悪の貧乏くじを引きに行ったのだ。評価としては、まあ、それなりに嫌われている、といったところだろうか。ただ、どうしたって東京州知事などという汚れ仕事に手を出す対抗馬は少なく、まともな候補はもっともっと少ないので、ここまで選挙に勝ち続けている。
「なんか、どうせ勝つって分かっててまだこんな演説とかしにくるのか、って感じですよね。暇そう」
検校さんにそう話しかけると、隣から「いや? 見てあれ」とまっすぐ何かを指す指先が伸びる。急いでその先を追えば、そこには幟がはためいていた。
「まどの、しずか? 宿直じゃないっぽいぞ」
「え? 本当に州知事選の人すか?」
「知らん。……ついでだし、ちょっと見ていくか」
ペデストリアンデッキに続く階段を上り、〈光の舞〉――町田駅前に聳え立つ謎のオブジェ、通称「町田のぐるぐる」。昔は実際にぐるぐる回っていたが今はもうびくりともしない――に近づけば、確かに「いつもと違う空気」は濃くなっていた。
なんというか、若いのである。支持者らしき人たちが。
オブジェの周りには「町田駅前に窓野静きたる! 16時〜」という看板を掲げたスタッフが数名いて、みな緑色のポロシャツを着用していた。学生みたいな年頃のビラ配りからチラシを渡されたのでつい受け取ってしまう。検校さんと二人で覗き込めば、そこに載っていたのはなんだか見覚えのある顔だった。
「へえ、窓野静39歳、町田市議会から羽ばたく、ねえ……何がとは書いてないけど、まあ、どっかから立候補するってことなんだろうね」
「……誰だっけこれ?」
「何? 左岸知ってる人?」
「いや、知らないんですけど……何か見たことあるというか」
どこで見たんだろう、と首を傾げつつ、パンフレットをぺらっとめくると、詳細なプロフィールが掲載されていた。
「……あ」
「え、何? 左岸、友達?」
「んなわけないでしょう。思い出しましたよ。これ」
「ほう?」
私が指さしたのは、経歴の中の一行である。
「思い出した。この人、それなりに有名な元探偵です。殺人事件系のでかいヤマを助手と二人だけで解決して、五、六年前に話題になってたはず」
つい大きな声を出してしまい、周囲の視線に気づいてはっと口をつぐめば、検校さんは目尻の上がった瞳を訝しげに細めていた。
「ふうん……」
「な、なんかありましたか……?」
「いや別に。探偵かあ、と思って」
あなたも探偵でしょう、と冗談めかして言おうかと思ったが、検校さんから発せられている空気に触れれば、そんな言葉は喉奥に引っ込んだ。これは、なんだろう。言葉にするのは難しいが、苛立ち、諦め、何かそういう、どうしようもないものを前にしているときのような、そんな眼差し。
「検校さん?」
「……ま、今考えることじゃないね。飯行こう」
検校さんはすぐにその剣呑な空気を引っ込めると、「今日は絶対アサノのカツカレーと決めてきたから」とご機嫌そうに呟く。この人が何か意図的に出し入れしているであろう腹の奥の何かを、私はまだ、ほとんど知らないでいる。
2
「本当にあそこのカツカレー食うたび人生に納得してる。この納得のために人間は飯を食うんだよね」
「そうすか……でもちょい辛くないですか?」
「左岸メニュー見なかったの? あそこちょっと足せば甘口にできんだって」
「え、早く言ってくださいよそれ」
町田で最もうまいカレー(検校芳一談)ことリッチなカレーの店アサノのカツカレーで豪遊したのち、事務所に戻って来る。闇市の跡地めいた細長い形の町田仲見世商店街は、その名前から想像されるよりよほど暗く、内側で「入っちゃいけない感じ」の道に枝分かれする。
そのうちの一本を曲がり、ポケットに入れたままの事務所の鍵に手をかけると、ドアの前に人影があるのを認めた。
「……あれ? 客? 誰か来てますよ」
よく似た体格、細身だが一定の厚みを伴った身体が、スリーピーススーツのベストとスラックスを纏った状態で、ドアの前を塞いでいた。
「ほんとだ。すいませーん、ご依頼ですかね。今開けまーす」
検校さんが間延びした声で呼びかけると、路地を埋めるようにして立ち尽くしていた二人の人物がこちらを振り返る。
「え」
思わず声が漏れた。その顔は、驚くほどに似ていた。双子か、という一瞬の理解ののち、理解不能な言葉が降ってくる。
「ご依頼、じゃあねえな」
「お久しぶり、姉さん」
「……想真、結愛……」
隣から、勘弁してくれえ……と煙のようなか細い声が漏れ出す。あからさまに歯を食いしばっている検校さんの横顔と、目の前に並んで微笑む二つの顔――片方はアルカイックスマイル、片方は好戦的――を、私は交互に見比べる。
え? 姉さん? お、弟?
「ま、積もる話は中でしようぜ。開けてくれるんだろ」
「そうそう。僕らも僕らで、言いたいことがいろいろあるんだよねえ」
検校さんの顔がさらにどん底まで曇る。こんな表情、初めて見た。
*
心底逃げ出したそうにしている検校さんを宥めながら事務所の鍵を開け、二人をソファに案内し、人数分冷たいお茶を淹れて持っていく。検校さんはソファの端にほとんど寝転ぶみたいに身体を預けて、「左岸もういいよこういうの、もうすぐ帰ってもらうし」とまだうだうだ言う。
「左岸さん、とおっしゃるんですね」
向かって右――センター分けの方――がそう言って微笑む。
「公立探偵で言うところの助手の方、ってことか? ともかく、姉貴がいつも世話んなってます」
向かって左――前髪が重めの方――も、そう言って麦茶のグラスに口をつける。
クソ暑いのに当然のように汗染みひとつないシャツ、手入れされていると私ですら理解できる肌理、広告で見るような洗練された空気。二人ともやけに身だしなみがぴちっとしているから、こっちもかしこまってしまう。
「あ、はい、こちらこそお世話になってます、左岸です。助手というか、雑用係なんですが」
「左岸、返事しなくていいって。こいつらいろいろめんどくさいんだ」
「姉さんがなんか言ってますけど、気にしないで。あ、僕たちこういう者です」
そこで二人がそれぞれ携えてきた小ぶりのビジネスバッグをまさぐる。お高い本屋で売ってるタイプの革製の名刺入れから、スマートに取り出されたるは、箔押しの「お名刺」だった。
「……探偵、なんですね?」
「はい。僕ら双子でタッグを組んで公立探偵をしております。僕が探偵の紺野想真で」
「俺が助手の紺野結愛っす」
「よろしくどうぞ」
「あ、よ、よろしくお願いします……」
公立、という単語の発音だけ語気が強かったのは、果たして気のせいなのか。「あい探偵事務所」とゴシック体で刻まれたその名刺を、どう扱っていいか少し迷い、ローテーブルの上に並べて置く。
センター分けが想真さん、前髪重めが結愛さん……と一生懸命脳に焼き付けながら、失礼だとは思いつつ、二人の顔をあらためて眺めてしまう。眼前の公立探偵たちの風貌は、はっきり言って検校さんにはまるで似ていない。まあきょうだいで顔が似ていないことなんてざらにあるのだろうし、実際複雑なおうちの事情があるのかもしれないし、と思い、検校さんの方をちらと見やれば、さっきよりさらに眉間に皺が寄っていた。もはやそういう仏像みたいだ。
「二言目には姉姉って、毎回わざとらしいんだよお前ら。何しにきたんだよ」
「うわ、ひでえ言い草」
「姉さんが僕らを弟だと思ってなくても、僕らにとっては姉さんは姉さんなんだよねえ。母さんたちも心配してるよ」
「うげ、あいつらにここ教えてねえだろうな」
「そこはさすがに」
「姉さんもかわいそうだからね」
「クソっ……要件はなんなんだよ」
いつも以上に砕けた口調になっている自覚はあるんだろうか、と思いながら蚊帳の外にいる。私が出る幕じゃない会話、そんなのいくらでも経験してきたはずだが、それにしてもこの口が出せない空気、やっぱりこの人たちは何らかの形で家族だったんだろう、と察した。
私から何かしょんぼりとしたオーラが出てしまっていたのか、斜向かいに座っていた想真さんが「ほら、左岸さんが置いてけぼりだよ」と口にする。
「姉さんから説明したほうがいいんじゃないの。相棒でしょ?」
「そうそう。姉貴はいつも不誠実だ。このまま俺らが話してもいいけど、仕事って信頼関係だろ」
慌てて私は手をぶんぶん振った。
「あ、あの、検校さんが言いたくなければ別にいいんで、てか私、席外しましょうか?」
「検校、検校ね……」
「いや、今の姉さんはそうなんだもんね。いや、慣れないなあ」
結愛さんが何か思うところがありそうに呟けば、想真さんが演技めいて寂しげな声を出す。はーーっ、と音がして、検校さんが深すぎるため息をついたのだと分かる。
「いやいい、左岸、いてもらって」
「本当ですか? 気い使わなくても」
検校さんが首をだらんとソファの背もたれに預けたまま、雑に目の前の二人を指差す。
「こいつらはあ……私の『元家族』」
「も、元」
「……中学出てすぐ飛び出した家だよ。シングルマザー数人のシェアハウスで、物心つく前から一緒に暮らしてた。血は何も繋がってない。でも、あそこにいた子どもにとっては親全員が親で、子どもは全員きょうだいだった」
苦々しげに、ただしはっきりとした口調で説明する検校さんを見て、結愛さんが満足げに頷く。
「そういうこと。俺らは『元』とは思ってないけどな」
「姉さんが小学校上がったときすごかったもんね、『お母さんって一人しかいないのが普通なの!? お父さんってみんないるの!?』って言って帰ってきたって、いまだに笑い話」
「す、すごいっすね……」
「ま、そういうことだから、僕らとしては勝手に縁切られても悲しいわけなんだけど」
想真さんが微笑んでそう言うと、検校さんが「あのさあ」とすぐに話を遮った。
「別に縁切ったつもりはない。私は家族でいるのをやめただけ。お前らのことも弟だとは言いたくないしめんどくさいから会いたくもないけど、今だってこうして事務所ん中入れて話してるだろ。それで十分と思ってくんないの」
いつもよりやや張り詰めた検校さんの言葉を、想真さんと結愛さんはゆっくり聞き届けてから、わざとらしく首を傾げて見せる。
「家族ってそんなに、やめようと思ってやめられるものかなあ? ねえ結愛」
「俺らはいつだって姉貴を姉貴だと思ってるよ、想真」
二人が顔を見合わせて「ねえ」と頷きあうのを前にして、検校さんはだんだんイラつき始めた。
「それで何? そんなこと言うためにわざわざここまで来たんじゃないよな」
「うわー、ひでえ無視……まあでも埒開かないし、一旦本題入るか」
「そうしようか」
想真さんと結愛さんがまた視線を通わせると、結愛さんがカバンからファイルを取り出した。それを確認して、想真さんが口を開く。
「前から思ってたんだ。姉さんが今みたいな働き方してるのは、あまりにももったいないって」
「はあ」
「姉さんほど交渉能力と人脈を備えた人は、町田に名探偵多しと言えど他にいないよ。だからその姉さんが、いつまでもヤクザ稼業してるのは、やっぱり社会の損失なんじゃないのかな」
「そうそう。というわけで、俺らから提案」
結愛さんがファイルから数枚の紙を取り出す。そこには「あい探偵事務所 探偵募集」と書かれている――が、その見た目は「チラシ」というより「書類」でしかなく、大々的に人を集めようという意思は微塵も感じられない。
「実は何年か前に、うちの事務所で若手トップだったコンビが諸事情で解散してね。探偵の方は探偵を辞めて退所したんだけど、助手の方は今も事務所に残って裏方に回ってる。ただこの人も遊ばせとくのがもったいないような有能な方だから、新しくバディを探すことになったんだ」
「そうそう……でもあんま大きく募集をかけるのも大変ってことで、今は内々に候補者を探してる。所長も、正直うちの所属メンバーのコネで決まるなら、それが一番穏便でいいってよ。経歴についても深くは問わねえって」
「あっそう。早く決まるといいな。で?」
検校さんの本当に興味がなさそうな返事から一拍あって、だん、と音がした。一瞬空気が凍る。想真さんが麦茶のグラスをコースター越しにテーブルに叩きつけた音だと、数秒遅れて理解する。え、何、怖い。
「姉さん、これは姉さんのための話だよ?」
想真さんの口は笑っている。だが、目は笑っていない。
「はっきり言うけど、こんな機会もうないよ? 私立だかなんだか知らないけど、姉さんがやってきた違法行為を水に流して、堂々と仕事できる環境が手に入るチャンスなんだ。ギャラだって悪くない」
分かりやすく検校さんの顔が引き攣るのを、私は目の端で捉える。想真さんも結愛さんもそれは見えているはずだが、明らかに意図して意に介さない。
結愛さんが身を乗り出してもう一枚書類を差し出す。
「ほらここ。姉貴がどんな事件をどうやっつけてきたかは俺らのほうでちゃんと説明するから、上はすぐ納得するよ。あとは書類一枚書いてくれりゃいい。それで全部済む。俺らと一緒に働くのがそんなに嫌かよ、姉貴?」
「……」
「俺も想真もずっと苦しんできた。姉貴が家に帰らなくなったのは俺らが悪いのかって。姉貴はそうじゃないって後から言ってくれたけど、それ、証明してくれよ」
「……結愛」
「俺らはさ、俺らが姉貴に大事にされてたって思いたいんだよ。姉貴が弟たちと一緒にいたことは嬉しかったんだって、実感させてほしいだけなんだ。なあ、家族だろ?」
結愛さんの視線は獲物を追い詰めるように検校さんを射抜いており、検校さんはずっと難しい、難しいとしか形容できない渋面をしている。さっきよりは軟化した、ただ言いたいことがあって、でもそれを言っちゃいけないと分かっているような。何を伝えても相手を傷つけてしまうような身動きの取れなさ。そうだよね、だって、相手と論点がずれているのは明白でも、感情の方向性として必要とされているケアは明確に正解があるから。言わなきゃいけない、でも言えないんだ。苦しい。息ができなくなりそう。あれ、これって誰の感情?
なんだか気が遠くなってくる。家族。家族って、なんだったっけ?
*
「ああ、だからだめよ。考えすぎちゃいけないことを考えるからこうなるんだわ」
気づけば私はまた、いつもの空間にいた。タトゥーの施術台の上にうつ伏せになって、穴の空いた枕に顔を埋めている。ただしなぜか今日は、私の背中に刺すような痛みはない。背中に針を落とすあの子がいないのだ。
〈レディー〉はその穴埋めをするように、私の頭を繰り返し撫ぜる。
「あの頃のことは忘れたほうがいい。過ぎた蜜月に囚われていては、幸福になれないわ。仮にあの女があなたの元に帰ってきたとしても、間髪入れずに叩きのめすべきね。由良を傷つけたのだから」
〈レディー〉の殺意溢れる擁護に反応するようにして、枕の下から〈影〉がにゅっと現れる。
「バカかお前、んなこと口で言って聞かせたってこいつは学ばないぜ。また何度でもあの女の影を追い続けてズタボロになるだろうよ。実際こいつの部屋にはいまだにあの女のカナダグースが置きっぱなしだろ。真面目に忘れようとしてんなら、そんなんもうとっくに売り払ってるだろ」
ああ、そうだった。これずっと夢だったの、ボーナス出たし買っちゃった、と言って嬉しそうに見せてきた、ホワイトのカナダグースのダウンコート。あの子の宝物。だからあの子が消えたとき、これを着ていかなかった理由が、私にはわからなかった。わからなくて、わからないままどうしても捨てられなかった。もしかしたら取りに戻ってくるかもしれないと、どこかで期待していた。
「期待、期待ね。するだけ無駄なことを、人はどうして繰り返すのでしょう」
さらに〈影〉に呼応して、部屋の隅の暗がりに立つ大久保春庭が口を開く。
「もうまる一年以上も経ちますよ。それだけ時間があれば、人は簡単に心変わりします。僕の最初の妻のとし子だって、結局俳句の師に口説き落とされて僕を捨てました。とし子は僕よりずいぶん長く、そして幸せに生きましたよ。家族だなんだと誓いを立てても、結局はそんなものです。期待しないのが一番賢い」
「ああ、なんて奴らなの。あなたたち、由良がかわいそうじゃないの? やっと運命だと思ったのよ、やっと受け入れてくれた人だったのよ。お互いにそれを確認した末に無言で消えたのだから、あの女の罪は限りなく重いわ」
〈レディー〉はやはり矛先をあの子へ向ける。〈レディー〉の言い分だって私から生まれたものだから、これも私の感情なのだった。そうだよ。あなたは私を捨てた。黙って私を置き去りにした。このずたぼろのゴーストタウンに、ひとりぼっちで。
〈影〉が〈レディー〉に気押されるようにして、せせら笑いを少し抑える。
「まあこいつが哀れだってのは認めるよ。あの頃のお前は俺が嗤えないくらいのボロ雑巾だったもんな。でもあれから時間が経っただろ? もっと前を向けるようなことは考えらんねえのか? カナダグースを捨てて、またどっかの酒場で女に声をかけるとかよ」
「ずいぶん軽率ですねえ。僕もとし子への恨みは長いこと詩の題材にしましたが、そういうのはある種のインスピレーションとして取っておくべきですよ。ちゃんとあの人への未練から霊性を受け取りなさい。そればかりが信ずるべきものです」
「ちょっと、由良は詩人じゃないわよ。いったい何を作れって言うの」
「はあ、梅酒でも漬けたらどうですか」
「冗談言わないで」
ああ、話が脱線してきた。まとまらない。声を出したくてもなぜか出せない。出口がない。どこへ行けばいいの? どうして私は置いていかれた?
この感覚、どこかで。
*
「……左岸、左岸!」
上から降りそそぐように声がして、起き上がれば検校さんがいた。まだ視界はぐらぐらと揺れている気がする。真上の蛍光灯が目に直撃したので、目元を手で塞ぐと、何か冷たいものがその上に置かれた。おしぼりだ。
「……これ、何すか……あれ? さっきまで、お話は」
「覚えてないの? 話してる最中にぶっ倒れてさ、無理やり水飲ませたり……とにかく大変だったんだ。くそ、いけすかないけど想真が救命士の資格持っててよかった」
「あ、そうだ、想真さんと結愛さんは」
「帰らせたよ。さすがに左岸がぶっ倒れてるのに横でなんやかんや私らが揉めるわけにいかないだろ。また来るとかなんとか言ってたけど」
「はあ、そうですか……」
おしぼりで額を濡らし、ゆっくりと瞬きをすれば、めまいは次第に和らいだ。ゆっくり起き上がると、検校さんがコップになみなみ注いだ麦茶をあらためて差し出してくる。
「たくさん飲みな。また倒れたら大変」
「ありがとうございます……」
麦茶に口をつけて飲み下すと、喉を冷たい液体が滑り落ちる感覚で人心地つく。静かに息を吐き出せば、遠ざかっていた音が戻ってきた。外ではどうやら日暮が鳴いているみたいだった。バカだなあ、と思う。こんな低いアーケードに囲まれた路地裏にまで入り込んできて、鳴いたって相手なんか見つからないのに。
そう思ったらさっきの夢がフラッシュバックする。妙に悲しくなってきて、勝手に頬が濡れた。一回泣き始めると泣いている自分も情けなくなってきて、余計に涙が溢れた。気付いた検校さんがぎょっとして「どうしたどうした」と言ってきたけれど、私は「なんでもないです」とどうにか絞り出して、もらったばかりのおしぼりで涙まで拭う。なんかこの流れ、前も似たようなことがあった気がする。
「大丈夫かよ、本当にどうした? 想真と結愛が嫌だった?」
「違います、別に。本当に……すいません、なんか」
「何に謝ってるの? 左岸、今日ちょっと調子悪かったか」
「ううん、いや、私が、多分、悪いんです。検校さん……」
「何?」
「あの、私の雇用関係が、その、あるから、お二人のお申し出を、断ろうと、してるなら、それは、本当に、気にしなくて、いいので」
「何言ってる?」
「本当に、気にしなくて、いいんです。私のことは。置いてってくれて、もう、いいんです」
止めよう止めようと思えば思うほど、どばどば両目から水が溢れる。そうだ、ずっとそうだった。いつも置き去りにされてきた。大切な人、一緒にいたいと思った相手は、いつも私を置いて遠くへ行ってしまう。親も、恋人も、そしてきっと、検校さんも。
おしぼりで視界を塞ぐように目元を拭っていると、検校さんの芯の通った声が静かに降ってきた。
「左岸、落ち着いて。私はあなたを置いていこうなんて思ってない。想真と結愛の誘いも、最初から乗るつもりがない」
「……でも」
「もう一回言うよ。私はあなたを置いていこうと思ってないし、私立探偵を辞めるつもりもない」
「……」
目が、逸せない。逃げ出せない眼差しが、私を文字通りにしっかりと掴む。思わず左腕をさする。怖いくらいの誠実さ。私がいつも回避してきたもの。
今この人は、私に向かって話しかけている。
「私は自分の仕事、この公立探偵からすればヤクザ稼業と言われるこの仕事が、今何よりこの街に必要だと思ってる。そして左岸、あなたがそこには必要。だから誘った。それはあなたが望む限り続いていく。それだけの話なんだよ」
「……本当ですか?」
「本当」
「私、役に立ててますか?」
「イエスかノーかで言えばイエス。そしてね、左岸」
「……はい」
「もしあなたが役に立ってなかったとしても、それはそれでいいの。私があなたを仕事仲間に選んだんだから。それだけ信じて。それを疑わないで」
どういう意味なんだろう。私は一瞬で理解できなくて、まだびしょびしょの目を瞬かせる。そのたびに溢れる水を、何かが雑に拭った。ティッシュを握った検校さんの指だと、あとから分かった。
「とにかく、あなたが自分を嘆く必要はない。あなたは私と一緒に立ち上がって、依頼人を守れる。すでにそれを手伝ってくれてるよ。だから大丈夫。大丈夫だよ」
射抜かれて初めて、身体がそこにあると分かる。私の溶けかけた輪郭は、今検校さんの眼差しによって少しずつ回復している。
ここにいてもいいの?
あまりにも心細いその問いかけを、この視線の前ではもうひっこめていいんだと思った。私はそれからしばらく鼻を啜り続け、検校さんは静かに新しいティッシュを差し出し続けた。お互いに何も言わないまま、ずびずび、しゅっしゅ、という音だけが往復していて、それが面白くなって私はついに笑った。涙はもうすっかり止まっていた。
3
「あの、検校さん」
「ん? 何」
「最初から飛ばす、みたいなことは聞いてましたけど、あの、これはさすがに」
「さすがに?」
「飛ばしすぎではないでしょうか」
二日後、検校さんに連れ出されるがままに辿り着いた雑居ビルの一室。ソファには通してもらったし、お茶も出してもらったし、おもてなしされている、と一般的には言えるのかもしれない――一点、ダボシャツやジャージ姿の〈若い衆〉が手を後ろに組んで、こちらを睨みつけている以外は。
「まあまあまあ、この状況でそんなこと言えるなんて、左岸も慣れてきたじゃん」
「慣れたくないです、慣れたんじゃないです、言わずにいられないだけです」
検校さんだけがソファの背もたれにゆったり背中を預けて、普通に運ばれてきたお茶をがぶがぶ飲んでいる。それはそれでこの人なりの戦略的な振る舞いなのかもしれないが、それにしても、真似できない。
「ここって、あの、その、事務所ですよね? ぼ、ヤクザの……」
「そうだね。東臣会が買い上げてる事務所の一つ」
暴対法が緩和されたとはいえまだヤクザは賃貸借りるのめんどくさいらしくてさあ、などと聞いていない裏話を披露してくる検校さんを止めて、私は声を潜める。
「全然わかんないんですけど、なんで当たり前のように座れてるんですか? 私たち……」
「まあまあまあ、それもおいおい説明するから。……あ、そろそろ来たかな」
何も理解できてない、何もよくない……と思っているうちに、玄関でどたばたと靴を脱ぎ捨てるような物音が鳴った。それに合わせて若い衆らの「お疲れ様です!」が重なりながらこだましていく。素直に怖すぎて、聴いたことのない音だなあ、という現実逃避のような感想が頭に浮かんできた。
「検校さん、あの、これって」
私があたふたしながら小声で尋ねると、検校さんは食えない笑顔を貼り付けたまま、さらなる小声で「怯えるな」と囁く。
「え」
「これから来るやつは、ある意味で東さんよりよっぽど厄介だ。……あんまり下手なこと言うなよ」
「え、厄介って」
どういうことですか、と言う前に、その人は現れた。
「ただいま、ただいま! あれ何、来客? アポは?」
最初は黒スーツの強面を想像していた……だが違う。やけに軽い足音。東頼倫より一回り、いや二回り以上若い、金に近い長めの茶髪を襟足でちょこんと結んだ、アロハシャツ姿の青年。
声も表情も、晴れやかに明るい。
しかし、なぜだろう。怖い。反射的にそう思った。
青年は検校さんを認めると、ぱあっと顔を輝かせる。
「ありゃ、これは珍しい! 久しぶりだねえ。元気だった?」
「まあまあぼちぼちかな。いや、ご無沙汰してました、……光さん」
光、と呼ばれたその人は、確かにその名前がしっくり来る、と思わせる説得力を放っていた。とにかくその人がそこにいること自体に、すさまじい圧がある。人を柔らかく照らす焚き火のような光ではない。美しく一瞬を切り取ることにすべてを懸けるような、強烈なフラッシュだ。
「東さんよりよっぽど厄介」。その意味が、この一瞬だけでも理解できるような気がする。光っている。他人を焼き尽くすようにして。
私の存在をおそらくは意図的に無視して、光は抱えていたヤクザらしからぬボディバッグをそばに立っていた若い衆に乱暴に投げ渡すと、「やだなあ水臭い」と笑った。
「光さんなんて他人行儀じゃん、昔みたいに『坊ちゃん』でもいいんだぜ」
「もうそんな歳じゃないでしょ。いくつになりました」
「えー? 今? ねえ俺いくつだっけ?」
光が尋ねると、すぐそばで視線を受けた鯉の刺青の若い衆が、怯えたように慌てて「あ、若は今年の秋で22です」と応じる。ちょっと待ってくれ……若?
頭の整理が追いつかないうちから、光は「えーもうそんな経つの」と他人事のように呟いた。
「22かあ。まだギリ坊ちゃんじゃない? まだ親父ふつうに生きてるし。それとも、もうあなたは昔みたいに俺のこと可愛がってくんないの?」
「あーあー、あんたがそういう思わせぶりなこと言うからめんどくさい噂が立つんだって……立場を考えてください。そういうとこも含めてもうあんた坊ちゃんじゃないよ」
「あはは。何それ、余語にバレたら困るみたいな話?」
「そういう意味じゃないけど、それはガチ冗談じゃないっす」
「はーおもしれー。やっぱあんたからかい甲斐あんね」
また出てきた、余語って誰なんだ。ていうか坊ちゃんって何だ。もしかしてこの人、思っているよりヤバい相手なんじゃないか。すべてに突っ込みたい気持ちを抑えて、今は黙って無表情を作っておく。
妙な空気だった。光と呼ばれた人はやたらフレンドリーだし、検校さんは軽妙な返事をして、なんだか砕けた雰囲気に見える。だが同時に、どこかで張り詰めているのも分かる。何か一線を超えたら絶対的にすべてが終わる、そういう世界滅亡スイッチの埋められた床のうえで踊っているような。
検校さんはわざとらしくごほん、と咳払いをすると、「えー、それはそれとして」と仰々しく仕切り直した。
「はい、光さん、こちら今うちで働いてもらってる雑用係の左岸です。左岸、こちらは日臣会の鳴神光さんです」
「よ、よろしくお願いします」
緊張しながら頭を下げたが、光はこちらにいかにも興味がなさそうで、視線ひとつ寄越さずに「はいはい、よろしくねえ」と言ったっきりだった。遅れて頭が紹介を咀嚼する――鳴神? どこかで聞いた響きだ。しかも日臣会? 東臣会ではなく、その一次団体の?
頭の中のパズルがぐちゃぐちゃと混ざる。手持ちのピースだけではうまく絵が描けない。それでも自分の経験が作り上げた警報器は、ひっきりなしに「ここに何かある」とサイレンを鳴らしている。
私の混乱をよそに、話は続いている。私は必死に空転する脳みそを、今じゃない今じゃないと抑え込みながら、話に耳をそばだてた。
「で、何? 今は……検校芳一なんでしょ? その『検校さん』が、今日は何の用なの?」
「いや、ちょっと聞きたいことがあってさ」
「何でも聞いてよ。俺があなたに貸しを作れるなんてちょっとワクワクしちゃうね」
「……まあいいや、じゃあ単刀直入に聞くわ。光さんさあ、白金って輩は知ってる?」
「知らない。誰?」
返事は一瞬だった。ぴしゃっとシャッターが閉まるように返答があり、検校さんは苦い顔をして「ええー」と食い下がる。
「こっちもあんたがこの街にどれだけ目を光らせてるのか、理解して聞きに来てるつもりだよ。moodに出入りしてるって話だから、騒ぎがあればあんたの耳に入ってないはずがない。ほんとに何もない?」
紺野兄弟相手とはまた違う、なんかかわいこぶってないか?とつい思ってしまうような親しげな口ぶりだった。口を尖らせて尋ねる検校さんに、光もまた子どもっぽく返事する。
「そう言われたって本当に知らないもん。逆にその白金さんは何をしたから俺はそれを聞かれてるわけ?」
「簡単に言えば、依頼人を脅してる」
「へえ? リアルってやつを追い求めてカタギのくせに悪ぶるタイプかな? そういうラッパーってたまにいるよね。ちなみにどんなネタ?」
「……光さん、ラップって聴きます?」
「えー微妙。こっち電波入んないし、京都いるときは聴くけど」
「んー、そっか。じゃあやっぱいいや。シンプルにラッパー同士の揉め事だったかも」
そこまで話すと、検校さんは顎に当てていた長い指を一瞬宙に彷徨わせてから、ぐーっと伸びをした。
「なに急に」
「いや、光さん知らないなら仕方ないやって思って。今日聞きたいことは聞けたんで、あとは別の筋で追ってみまっす。ありがとうございましたあ」
検校さんがさっさと椅子から立ち上がるので、私も慌ててその後を追う。光さんが不機嫌そうに声を上げる。
「えー帰るの!? せっかくの再会じゃん、ご飯は!? 久々にどっかおいしいとこ行かない? 俺がいるのにタカらないなんてもったいなくない?」
「いいいい。あんた話長いもん。また今度、時間あるときにあらためてご挨拶しますよ」
検校さんが手をひらひらさせて軽く断れば、光は「ええーつれないんだ」と喚くが、それ以上は追ってこない。周囲を囲む若い衆に「おいお前ら、お客さんお帰りだ、お見送りしてさしあげろお」とのんびりした号令をかければ、がたいのいい若やくざたちが「はい」と返事をして、われわれが玄関で靴を履き、出ていくところまで見送ってくれた。
外に出ると日差しが痛いほど強い。それが気にならない程度には、先ほどの青年――鳴神光の鮮烈さが、まだ毛穴を痺れさせている。
「……検校さん、あの人って」
誰なんですか、と問う前に、検校さんが「はーーーー」と深く息を吐き、肩を思い切り伸ばす。
「だ、大丈夫ですか」
「まあまあ……いや、疲れた。ごめんね、左岸も緊張したでしょ」
「なんか……怖い人でしたね」
「分かるよね? 昔っからああなんだよ。ガキの頃からそう」
検校さんは大きく両手を上に伸ばしながら、何かを思い出すように視線を宙に浮かす。
「事後説明で申し訳ないけど、えー、左岸、あの人は鳴神光。……日臣会の正式な跡取りだね」
「……は?」
なんだか間抜けな声が出てしまった、とまず思う。それから追いかけてくるようにして、記憶が襲ってくる――前職で覚えたはずの、暴力団幹部の名前。町田で最も大きなやくざ、東臣会の、さらに上位に当たる団体。そのトップ。
「な、鳴神って、日臣会の現会長の」
そこまで言うと、検校さんは「ビンゴ〜〜」とだるそうに指差してくる。
「光さんは、あの鳴神利政の養子。それでああ名乗ってるってわけね」
そこまで言われて、ようやく繋がらなかったピースが繋がっていく。〈擾乱〉直後に起きた日臣会分裂は、もともと東頼倫が日臣会の跡目になるはずだったところ、会長が養子を迎えて意向を変更したことが遠因だった。その養子こそ、あの鳴神光なのだ。
そこまで分かっても、まだ脳みそが追いつかない。
「すいません、あの、質問いいすか」
「どうぞ」
「擾乱って二十年近く前ですよね?」
「そうだね」
「あの人、若くないですか? その、後目に指名されるには」
先ほど鳴神光は22歳だと言っていたから、擾乱が起きた頃にはまだ小学校に上がる前だったはずだ。
検校さんは唇の端をとんとん指で叩きつつ、「ええとね」と言葉を紡ぐ。
「あの人は確かに鳴神利政、現会長の養子なんだけど、実際には愛人の息子で、戸籍上の父親は別にいるんだ。……で、まだほんとちびっちゃい頃に、会長が初めて認知して、そんで突然ああいう世界にぶち込まれちゃったわけ」
「へええ……」
「ま、自分の意図と関係なく来ちゃったっていうのは、あまりにひどい話で、そういう意味で光さんは被害者なんだけど。問題は、その世界を乗りこなす才能が、あの人には溢れてたってこと」
私はとりあえず相槌を打ちながら、検校さんの横顔を伺う。また、私には読み取りきれない目だ。宙に逸れたままのまなざしは、諦めているようにも、憐れんでいるようにも、呆れているようにも感じられる。私には想像のつかないところに、何か記憶がうごめいているようだった。
突っ込んで聞いてもいいのか分からずに逡巡していると、助け舟のように「ていうか」と声が発される。
「光さんの話から、ちょっと気になることが出てきたね」
すでにいたずらっぽく上がっている口角を見て、私もわずかに昂る。始まった、と思う。見える気がする、何も分からない、無根拠なカオスの中に、私立探偵の手が楔を打ち込もうとしている瞬間が。
「あの人は白金を知らないと言ったけど、私が説明する前から白金がラッパーだって知ってた」
「あ」
確かにそうだった――検校さんは白金について、「moodに出入りしている」としか話していない。普通それだけで、出演者側だとは断定しないだろう。
ハッとして隣を向けば、目が合った。瞳の奥底がざらざらとぎらつく。それが闘志であると、今の私は確信できる。言葉が続く。
「でも光さんはそんなしょうもないボロを出す人じゃない。あれは意図的だ。わざとちらつかせてる。逆なんだ。あの人はボロを出して見せることで、白金についてこっちに情報を渡してるんだよ」
「な、何のために……?」
「挑発」
食い気味の返答。その静かに興奮を帯びた語気に気圧される。
「それを知られたところで光さんは問題ないと思ってるんだ。多分まだ隠していることがある。もしくは」
「もしくは……?」
私は思わず息を呑む。探偵ははっきりと口を動かす。
「知られたところで今のお前には何もできないだろうと言っている。あの人は私の能力を買っているから、そこを舐めてるわけじゃないんだ。ただ、後ろ盾のない私立探偵には何もできないだろうって、突きつけようとしている。……あの人なら、きっとそうする」
知らないボードゲームの大会の決勝を見ているみたいだ、と思った。すでに水面下では手の読み合いが始まっていて、私はそれについていけていない。「後ろ盾がない私立探偵」――私が希望を見出した検校さんですらそのように転がされてしまうなら、私は?
こんなときですら自分のことを考えてしまう自分が嫌になり、左腕をさすれば、検校さんは私の不安を察してか、いつもの調子に戻って「大丈夫」と言った。
「あの人から見れば、今の私には何にもないみたいに見えるんでしょう。それが一番の誤算なんだよね」
「……どういうことですか?」
左肩が叩かれる。反射で右手がほどける。隣を見れば、その人は刺青だらけの顔で笑っている。
「ま、見てなって。私はこの街に生きてる。それがどういう意味なのか、光さんには思い知ってもらうよ」
逆光の中でも歯は白い。私は、この街に、生きてる。その当たり前でありながら当たり前ではないらしい言葉の重みを理解しようとするたび、やはり私には読み解けない経文のタトゥーと目を合わせてもいいのか、迷う。
(続く)
筆者について

高島 鈴
- 1995年、東京都生まれ。ライター、アナーカ・フェミニスト。「かしわもち」(柏書房)にてエッセイ「巨大都市殺し」、『シモーヌ』(現代書館)にてエッセイ「シスター、狂っているのか?」を連載中。ほか、『文藝』(河出書房新社)、『ユリイカ』(青土社)、『週刊文春』(文藝春秋)、山下壮起・二木信編著『ヒップホップ・アナムネーシス』(新教出版社)に寄稿。初エッセイ集『布団の中から蜂起せよ アナーカ・フェミニズムのための断章』(人文書院)で「紀伊國屋じんぶん大賞2023」1位。


