昨年夏、某県の自治体で発生した数千万円の誤送金事件。このニュースの第一報からわずか数日後、「誤送金」を題材に筆をとった小説家がいた──。京大文学部卒のエリートかつ文学界の鬼才、佐川恭一。あの事件から1年が経った今、『クイック・ジャパン』vol.161に密かに掲載された怪作をお蔵出し!
※この記事は『クイック・ジャパン』vol.161(2022年6月24日発売)に掲載された小説をWEB用に再編集し転載したものです。
「うわわっ!」
市役所に勤める若手職員・大島がすっとんきょうな声を上げる。慌てた係長が「どないしたんや!?」と大島の元に飛んでくる。
「すみません、間違えてM町のGさんに5,000兆円振り込んじゃってました!」
「5,000兆円!? どうやったらそんなことなんねん!」
「なんか、コロナ以降毎月全員400時間残業じゃないですか? それで寝ながら作業してたら、ゼロめちゃくちゃ押してたみたいですね」
「アホンダラァー!! みんな同じ条件でがんばっとるやろ!? お前だけ寝とったらあかんやろ!!」
「僕だけじゃないですよ。言わないだけでみんな業務中に寝てますよ、そうじゃないと身体がもたないんで。それに400時間残業しても10時間分までしかお金出ないじゃないですか。正直やってられないですよ」
「クソダラァー!! とにかくそれ、5,000兆円返してもらわな市が破綻すんぞ!」
「いや、ていうかもう破綻してるんじゃないですか? 全職員がほぼ400時間サビ残してるんですから」
「なんでミスった奴が偉そうにしゃべっとんねん! とにかくさっさとGさんとこ行くぞ!」
「僕あの公用車で行くの嫌ですよ。30年前のゴミみたいな軽バンばっかで、いつぶっ壊れるかわからないじゃないですか」
「ゴチャゴチャうるせえなオイ! とにかく来い!!」
「はあ……」
大島と係長はM町までオンボロの軽をかっ飛ばしてG氏の家に着く。緊張した係長が状況説明の手順を改めて大島と打ち合わせようとしたが、そんな間もなく大島はつかつかと玄関まで歩いていってチャイムを連打する。ピンポーン、ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン……
「お、おい! お前押しすぎや! 嫌がらせや思われるやろ!」
「そうですか? すみませーん、K市の者ですー! Gさんいますかー?」
大島がドアをガンガン叩く。叩きまくる。ガッツンガツンに乱打する。
「ちょっ、お前ホンマにあかんて!」
係長が本気で止めようとした瞬間、ドアがバーンと開いて「なんじゃワレェー!!」と出てきたのは70代と思しき太った男・Gである。
「ガンガンガンガン、そない叩かんでも聞こえとるわ!!」
「いや、全然出てこられなかったので」
「全然てなんやお前!! ちょっと服着替えたり髪整えたりとかしとったんやろが! コラお前こいつの上司か!? 市かなんか知らんけどどういう教育しとんねん!!」
「も、申し訳ございません、それは私から注意しておきますので……」
「今注意せえここで! ほんで土下座させろ!!」
「ど、土下座でございますか!?」
「土下座じゃそんなもん。謝る言うたら土下座やろが昔かるァー!!」
係長が大島に目でぱちぱちウインクしながら「なあ大島、今のは失礼に当たるぞ。普段から気をつけていないからこうなる。今後は礼儀にも注意して―」
「いや、何が失礼なんですか?」
係長はウインクの勢いを加速させながら「だから、いきなりチャイムを連打したりドアをガンガン叩くというのは……」と言うが、大島は「コイツが全然出てこないからじゃないですか」とまったく係長の合図を理解せずGを指差す。
「コイツて何や! お前人を指差すなオラァ!!」
「いやいや、あなたも今私を指差してますよね?」
「わしはええんじゃ!! オドレラみたいなもんはわしら市民様に奉仕せなあかん奴隷みたいなもんやろ!? 奴隷に指差して何が悪いんじゃ!!」
「何言ってるんですか、奴隷じゃないですよ。それよりあなたに5,000兆円振り込まれましたよね? あれ誤入金だったんで返してほしいんですけど」
しれっと本題に入る大島。これですんなり終わってくれれば……と祈る係長だが、Gは急に真顔になる。
「ああ、それはもうつこうた」
「つこうた?」
「全部つこた」
「え、10日前に着金したところじゃないですか?」
「せやな」
「10日で5,000兆円使ったんですか?」
「つこたよ。あんたらがくれた給付金やろ?」
「いや、あれほんとは5万円なんですよ。一人5万円だって市政だよりでもホームページでも知らせてましたよね?」
「そないなもん誰が見んねん! 見にっくい見にくい、字もちっちゃいちっちゃいのにして。年寄りなんか死んだらええとでも思とるんやろ!」
「いやいや、思ってませんよ。でも5,000兆円も給付されるわけないって、常識で考えたらわかりますよね?」
「知らん。あんたらの常識とわしの常識では違うやろ。わしはあんたみたいにピンポンピンポンせえへんし、ドアもあんなガンガン叩かん。でもあんたはそれを普通や思とる。人間というのはそういうもんや。それぞれの個性、その差異が分かちがたく織り合わされたものが社会なんとちゃうんか?」
「いや知りませんけど、ほんとに5,000兆円振り込まれて疑問を持たない人間いますか? しかも10日で5,000兆円て何に使ったんですか?」
「それが……」
「それが?」
「女にだまされたんや」
「女にって、5,000兆円ですか!?」
「5,000兆円いかれた」
「全部!?」
「全部いかれた」
「いやいや、嘘つくのやめてくださいよ。どうやったらこんな短期間で5,000兆円いかれるんですか」
大島がそう言うとGはさめざめと泣き始め、演技かと思ったらガチ泣きっぽく、ちょっとマジかも、と大島が思っていると、Gが鼻水を垂らしながら自分のスマホを見せてくる。
「このマリナちゃんって子や。もうSNSも全部消されとるからスクショやけどな、ギャラ飲みで呼んだ子で、わしもこの年で独りやから寂しい夜もあるやんか、それで来てくれたんやけどホンマに今どき珍しいぐらいええ子で、わしのつまらん話もよう笑いながら聞いてくれて」
「はあ」
「そのうちホンマに仲良くなってな、マリナちゃんが看護学校通ってるけど学費とか生活費がないんやって話してくれて。そういう困ったことも話してくれるようになって。そっからお金をちょっと出したげるようになって。正直マリナちゃんは孫みたいな歳なんやけど、何回会ってもめちゃめちゃ素直でかわいくてな、わし結婚もしとらんから、ホンマの孫みたいに思って……」
「しょうもない嘘こかないでください。ホンマの孫とかホンマの娘みたいって、みんなそう言うんですよ」
「嘘ちゃうがな! あんたみたいな汚れた人間にはわからんピュアでプラトニックな関係や」
「じゃあGさん聞きますけど、そのマリナちゃんが裸になってベッドに入ってはにかみながら『……しよ?』って言ったらどうするんですか?」
「ウゥッ! なんちゅうこと言うんや!」
「ほら勃起してるじゃないですか。見え見えの嘘つかないでください」
「わかった、それは悪かった、嘘やわ。性的に見とった。もし本人に会っても言わんといてな?」
「言わなくてもわかってると思いますよ。それで、そのマリナさんに全額振り込んだんですか?」
「まあ正確には半額の2,500兆や。この入金があったこと言うたら『あなたの愛の大きさだけ振り込んで♥』みたいなこと言われてな。そっから連絡つかへんねん。だまされたんやろうけど、わしも悪かったんや。いきなりそんな額振り込まれたら、どんだけピュアな子でも頭おかしなるに決まってたんや」
「いや、全然ピュアじゃないと思いますけどね。それでも2,500兆円は残ってますよね?」
「それもつこうた。溶けた」
「えっ! 何にですか?」
「ターシルオカンポにつこた」
「はい?」
後編へつづく
筆者について
さがわ・きょういち 京都大学文学部卒。2019年『踊る阿呆』で第2回阿波しらさぎ文学賞。代表作に『アドルムコ会全史』『シン・サークルクラッシャー麻紀』『清朝時代にタイムスリップしたので科挙ガチってみた』ほか。最新刊『ゼッタイ!芥川賞受賞宣言』(中央公論新社)が発売中。