平成元年4月24日、新日本プロレスが日本プロレス史上初めて東京ドームで興行を行ってから今年で30年。新日本プロレスの「平成」は、まさに東京ドームと歩んできましたが、中でも東京ドームと関係が深いのが獣神サンダー・ライガーです。
ライガーは初の東京ドーム大会の小林邦昭戦で獣神ライガーとしてデビューし、数々の名勝負を繰り広げてきた“ドーム大会の生き証人”。30年の歴史を持つ東京ドーム大会の中でも1、2を争う“事件”が、橋本真也×小川直也の一戦(1999年1月4日。小川がプロレスのルールを逸脱した暴走ファイトを展開。最後は両陣営がリング上で入り乱れ、無効試合と裁定された)ですが、現場はどのような状況だったのでしょうか? ライガーは『ケトルVOL.46』でこのように語っています。
「リング上が乱闘になったのを控室のモニターから観ていました。でも、僕はあれが事件だとは思わないんですよね。東京ドームって大舞台だったから大騒ぎになったけど、地方の会場まで含めたらあんなことはいっぱいありましたよ。星野勘太郎さんとか前田日明さんとか、ケンカっ早い人がたくさんいたからね。だから、そんな慌てふためくことかなって思いながら観ていました。あれが事件だったら、昔の新日本は毎日が事件!」
このように新日本の東京ドーム大会における歴史的な場面に何度も立ち会ってきたライガーですが、たった1回だけ欠場したことがあります。1995年1月4日の『闘強導夢 BATTLE 7』です。
1995年の“イッテンヨン”は、異種格闘技の勝ち抜き戦「格闘技トーナメント」が開催され、アントニオ猪木がジェラルド・ゴルドーやスティングといった強豪外国人を破って優勝し、メインでは佐々木健介と対戦した橋本がIWGPヘビー級王座の防衛に成功した大会。試合後には猪木から橋本にベルトが手渡され、世代交代を印象付ける名場面が展開された伝説の大会ですが、ライガーが欠場したのは、唖然とするような理由でした。
「今だから言うけど、あれは当時のマッチメーカーだった永島(勝司。元・新日本のフロント)さんが、オレのことを忘れたの(笑)。すべてのカードを組んで発表してから、『ライガーの名前がない!』って気が付いたんだって。それだけ。マジな話よ。『ごめん、お前のことを忘れてた』って言われたからね。これさえなければ東京ドームはフル出場だったから、ひでえ話ですよ(笑)」
ライガーには災難でしたが、それだけ当時のリングはタレント揃いだったということ。最近は放送席から試合を観ることも増えたライガーですが、まだまだ人気は抜群なだけに、今後も熱いファイトを期待したいものです。
◆ケトルVOL.46(2018年12月15日発売)
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