漫画家は憧れの職業の1つですが、実際にそれを職業にした人には、どんな苦労があるのでしょうか? 『ケトルVOL.57』では、昭和・平成・令和を股にかけて作品を生み出し続けてきた浦沢直樹さん×いくえみ綾さんの対談が実現。漫画家は色々な職業やキャラクターを描くのが仕事ですが、実際に経験していないものを描く裏には、当然葛藤や悩みがあるそうです。
いくえみ 「以前、伊坂幸太郎さんの『アイネクライネナハトムジーク』という小説をコミカライズさせていただいたことがあるんですが、そのなかでボクシングのシーンがあったんです。ボクシングはそれまで私の中にまったくないものだったし、描くつもりもなかったものだったんですが、原作にあるので描かないわけにはいかない。
描写が難しいし、資料を見ながら試行錯誤して描いたものの、その当時、初めて自分のキャラクターが夢に出てきてものすごいうなされたんですよ(笑)。原作があったからこそ描けましたが、自分の中にないものを描くってこんなに苦労するんだと思って、自分の得意分野でやっていこうと気持ちを新たにしました」
浦沢 「一度描いてみるまでは、それは描いたことがないもの。だから、実は描けないことに対する恐怖感って、ものすごく大きい。デビュー間もない頃に、サラリーマンものを提案されて、サラリーマンをやったことがないから描けないと言ったら、当時の担当編集者に『それじゃ漫画家として何も描けないね』と言われたことがある。ただ、漫画家ってすごいなって思うのは、描いていくうちに何かを押し広げるように、描けるようになっていくんですよ」
この言葉を裏返せば、何かを押し広げることができない人は、漫画家としてやっていけないということ。漫画家になるには、とにかく色々な知識があり、色々な経験をしていて、引き出しの多いことが必要なように思ってしまいますが、必ずしもそういうわけではないようです。
浦沢 「長年漫画家をやってきてわかったのは、僕らには描く技術があるってことなんです。僕らが知らないことを知っている、それを専門にしている人に対して認めさせるくらいのものを描く技術を駆使して描いたらいいんだと思って。それに気づいたとき、自分が何も知らないというコンプレックスが少し薄れてきた気がします」
いくえみ 「私は恋愛ものをたくさん描いてきましたが、恋愛の専門家なわけじゃないですし、恋愛体質では決してないんですよ。でも、恋愛についてコメントを求められたり、恋愛に関する本を出さないかという提案までいただいたりすることがあります。描いてきた作品から恋愛体質の真逆のような私が透けてみえていないのかと思うと、そういう意味では上手に騙せているのかなと思います」
浦沢 「その騙しが描く技術ですよ。あたかも自分がそれを経験してきたかのように、なんでも知っているかのように、行ったこともない場所で生きているかのように空気感ごと描く。そうやって騙すことが僕らの技術の成果であり、仕事なのかもしれないと思います」
“騙す”というとネガティブに受け取ってしまいそうですが、どんな職業でも“老獪さ”は大切なテクニックですし、作品にのめり込んでしまうような“騙し”なら、読者も大歓迎。我々はこれからも、“騙し”続けられることになりそうです。
◆ケトルVOL.57(2020年12月15日発売)
【関連リンク】
・ケトル VOL.57-太田出版
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