「献身的」で、なくていい! 突然、働き盛りの夫を襲った脳卒中と半身の後遺症。何の知識もなかった私は、ゼロから手探りで夫の復帰までを「闘う」ことになる――。当事者だけがツラいんじゃない。家族にも個別のツラさがある。ここでは、ライター・三澤慶子が綴る、葛藤と失敗と発見の記録である『夫が脳で倒れたら』から一部ご紹介。正しいカタチなんてない、誰もがいつか経験するかもしれない、介護のリアルをお伝えしていく。初回はプロローグ全文を公開。
プロローグ
夫の右半身は麻痺している。
原因は約5年前に発症した脳梗塞。50歳だった。あのときから夫の右半身はずっと麻痺したままだ。
発病前までガシガシ動いていた筋肉が入院直後、右側だけ頭から足の先までピクリとも動かなくなった。右瞼だけはゆっくりながら動いていたけれど、口も舌も右側だけ動かない中で、眼球を守るべくなんとか働き続けるその瞼が奇妙に思えるほどだった。
現在、夫の麻痺は少し改善している。
発症前の動きが100だとすると、発症直後がゼロだったのに対し、長期入院中に動きを得て今は1くらい。1でもゼロとは大きく違う。動く左側の100の動きに右側の1が加わることで、スローながら歩けるようになったし、手こずりながらも折りたたみ傘を開けられるようになった。言葉も聞き取りやすくなり仕事にもなんとか復帰した。
夫は文筆稼業で映画評論家。
動く方の手でキーボードを打ち原稿を仕上げる。取材に出かけ、インタビューもする。
つまりギリギリながら社会復帰できている。
世の中、両手両足を使うと丁度いいようにできている。
道具類とか衣類なんかは言わずもがな。
例えばパンツ。なにげなく履いているけど、両手で腰まで引き上げることが前提の造形だ。片手では履きづらいことこのうえない。仮に人類の腕が1本だったとしたら、パンツはまったく違うものになっていたはずだ。
なにげないマナーも両手両足を使うことが前提だったりするものがあって、そのことはパンツと同様、ほとんど意識されることはない。
例えば電車内。混雑しているとき、リュックサックは下ろして手に持つのがマナーであり、それができてない人に向けられる目は厳しい。
当然ラッシュ時の車内アナウンスはこうなる。
「リュックサックは手に持ち、一人でも多くのお客様の乗車にご協力ください」
揺れる寿司詰め車内で荷物を手に持つ行為は、もう一方の手でつり革や手すりを摑むことができるか、両足でバランスを崩さないよう踏ん張ることができて初めて成立する。
右手がうまく開かず握力もなく、右足に体重を乗せることができない夫にとって、リュックサックを手に持つことは超絶難しく、やれることといえばお腹側で背負うくらいだ。
夫が歩けばその歩き方で麻痺を抱えていることは見た目に分かるけど、電車の中で立っているだけではそれとは分からないから、周囲の目からはマナーがなってない人となる。
もちろん、リュックサックを手に持つことが可能な場合はそうしてくださいと言ってるだけで強要なんかしてないことは分かるけど、このアナウンスが流れる中でリュックサックを下ろさないでいるのはなかなか辛い。
右片側全般の麻痺は脳梗塞の大きな後遺症だけども、後遺症は他にもある。夫の場合でいえば、内臓、とくに腸周りの働きが低下したし、感情が落ち込みやすくなったし、体調の波も大きく揺れるようになった。
言わずもがな、麻痺を抱えての生活や仕事はすごく大変。夫は発病前にできていた半分のことをやるために、発病前の軽く3倍は時間と労力を払っている。
さて私。
夫は身の回りのことはなんとか自分一人でできるから、動作を手伝うようないわゆる介護的なことはしていない。また感情に流され、暴言を吐いてしまうといった後遺症も出ていないから、そういったことにまつわるストレスもない。私は自由に動け、働きに出ることもできる。それなのになぜか無性にキツいときがある。
例えば夫は体調が悪い日が長く続くと、気持ちもどん底を這うようになる。そんなときには私もツラくなる。
夫は夫、私は私。夫をサポートはしても夫の体調や気分に同調する必要はない。分かっているけど、影響されてしまうのを避けるのは難しい。
夫は発病直後からリハビリが始まった。今も続いているし、これからもずっと続く。身体的にも精神的にもキツいのは夫であって、健康でいられて介護もとくにしているわけではない私がキツいわけがないし、そんなこと言っちゃいけないなあ、なんて思ってた。
思ってはいたけど、夫にはときどきぶつけていた。私だってツラさがあるんだと。夫のツラさと比べれば私のはものすごく小っちゃいと弁えているから私基準の抑えめレベルで主張する。どうすることもできない夫には気の毒だけれど、私にだって体調の波があるんだってことを夫に分かってもらいたくなる。
発病から数年後、ふとこう思うようになってツラさは軽減した。
私も息子も含めた家族もみんな、脳梗塞と「闘ってる」ということでいいんじゃないかなと。
夫の脳梗塞後を改めて振り返ってみれば、なんだ私のツラさの原因の元は夫ではなく夫をとり巻く状況でもなく、夫を襲った脳梗塞だってことに気づく。今更何言ってんの、ってくらいの至極当たり前の話なんだけど。
闘ってる夫を「サポートしてる」とか「見守ってる」って立場だと思っていると、行き場のないツラさが湧いてくる。でもそうじゃない。夫と「一緒になって闘ってる」でもない。家族は家族でそれぞれの持ち場で「個人で闘ってる」ってこと。「闘う」なんて大げさだけど、ほかにしっくりくる言葉も見つからないから「闘う」でいいや。程度の問題じゃなく、捉え方の問題だ。とりあえずの言葉であっても当てはめれば、得体の知れないツラさが和らぐことってあるもので、まさにこれだ。
夫の発病後に私が経験したことは夫のとは違う。家族は夫と同じフィールドにはいない。
これから綴るのは、そんな振り返り。夫が麻痺を抱えたばかりの頃、私が1番欲しくてなかなか探し出せなかったタイプの記録だ。脳卒中を患った仕事現役世代の人で、後遺症を抱えてもなんとか仕事復帰できた人の例を、とにかく知りたかった。
小学生の息子もいた当時の私は、生活を支えていくために先々のイメージを持ちたかったのだ。悪いイメージはいくらでも持てる。そんな情報はあまたあるから覚悟もあった。一方で仕事復帰できる方のイメージは難しかった。指針となる情報がたくさんあったなら、もう少しだけ気持ちが楽になったかもしれない。だから当時の私が参考にできるような振り返りになればと思う。
綴るにあたって「夫」を夫の筆名に変換した。
距離感の近い「夫」より、プライベートから少し離れた筆名を使った方が断然、当時の状況を俯瞰して書きやすかったから。それに夫の脳梗塞との戦いは文筆稼業を続けていくことを念頭に置いてのものだから、筆名にした方がしっくりくる。
夫は筆名を轟夕起夫という。ところが夫を轟夕起夫に変換してみれば、かなりの違和感。
当時の轟夕起夫の周辺にあった名詞といったら、ラクナ梗塞、分枝粥腫、片麻痺、壊死といった脳梗塞関連の難解で恐ろしげなものばかりで、文字にしてみればさらに近寄りがたいオーラを放つ。そんな名詞群に轟々と夕方起きる夫と綴る「轟夕起夫」を並べれば、そこはかとなく漂う暗黒感が増す……あくまで私の個人的感想ですが。
ちなみに轟夕起夫という筆名は昭和の名女優・轟夕起子さんから一部、もとい、ほとんどの部分を勝手に使わせてもらい付けたということだけど。ならばと夫がコラムを書く際にときどき使う「トドロッキー」という筆名を発動してみた。脳梗塞関連の名詞にトドロッキーを並べてみれば、うん、暗黒感が薄れて当時の実態に近い感じがした。
以後の文章で「夫」を「トドロッキー」に変換したのは、そういう訳です。
*本文中に出てくる病院、医療関係者、患者などの個有名は仮名です。
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この続きは『夫が脳で倒れたら』本書にてお読みいただけます。
筆者について
みさわ・けいこ。北海道生まれ。ライター。
(株)SSコミュニケーションズ(現(株)KADDKAWA)にてエンタテインメン卜誌や金融情報誌などの雑誌編集に携わった後、映像製作会社を経てフリーランスに。手がけた脚本に映画『ココニイルコト」『夜のピクニック』『天国はまだ遠く』など。半身に麻痺を負った夫・轟夕起夫の仕事復帰の際、片手で出し入れできるビジネスリュックが見つけられなかったことから、片手仕様リュック「TOKYO BACKTOTE」を考案。
轟夕起夫
とどろき・ゆきお。東京都生まれ。映画評論家・インタビュアー。『夫が脳で倒れたら』著者・三澤慶子の夫。2014年2月に脳梗塞を発症し、利き手側の右半身が完全麻痺。左手のみのキーボード操作で仕事復帰し、現在もリハビリを継続しつつ主に雑誌やWEB媒体にて執筆を続けている。近著(編著・執筆協力)に「好き勝手夏木陽介スタアの時代」(講談社)J伝説の映画美術監督たちX種田陽平」(スペースシャワーブックス)、「寅さん語録」(ぴあ)、「冒険監督塚本晋也」(ぱる出版)など。