何もない“おしまいの地”に生まれた著者・こだまの、“ちょっと変わった”人生のかけらを集めた自伝的エッセイ集「おしまいの地」シリーズ。『ここは、おしまいの地』『いまだ、おしまいの地』に続く三部作の完結編『ずっと、おしまいの地』発売を記念して、シリーズ第1作目に続き、シリーズ第2作目となる『いまだ、おしまいの地』からも6つのエピソードを特別に公開します。
今回は、人知れず記憶の答え合わせをして過ごす時間について。
この数年、故郷にある思い出の詰まった場所や働いていた学校などをひとり、ふらっと訪ね歩いている。あの地は今どうなっているのだろう、と急に気になって確かめたくなるのだ。
特に何をするというわけでもなく、ひとしきり記憶の中の風景と答え合わせをする。犬のようにその土地の匂いを嗅ぎ回る。そして満足して帰る。
これが「老い」というものなのか。迫りくる死期を本能的に察知しているのだろうか。その日が来るまで「郷愁の回収」を続けていこうと思っている。
外出自粛が呼び掛けられた5月の初め、うずら海岸を「回収」した。
そんな名前の海岸は存在しない。私が勝手にそう呼んでいる。
教師を辞めてひきこもり状態だった20代後半、私は2羽のうずらを買った。ホームセンターの入口に植木鉢、灯油タンク、うずら、と脈絡のない並びに惹かれ、飼育ケースの中をせわしなく走り回る十数羽をしばらく観察していた。間近で見るのは初めてだった。
そこにいたのはどれもメスの成鳥。茶褐色でまだら模様。ぷくっと膨らんだ胴体。体のわりに小さな頭。長めに引いた白いアイライン。レモンケーキのような楕円体の生き物だった。
数日経っても、どこか間の抜けたフォルムが忘れられず「まだあそこにいたら飼おう」と決意。はやる気持ちを抑えて店に向かうと、あの日と変わらず灯油タンクの隣でそれらが鳴いていた。さっそく鳥かごを用意し、部屋の中で飼うことにした。
ネットを開くと、当時からペットとして室内で飼う人が結構いて、彼らは「ウズラー」と呼ばれていた。ウズラーが情報交換し合うサイトが多数あり、私も頻繁に通い始めた。
有り余る時間を見知らぬ人とのツーショットチャットで潰していた私は、ウズラー向けポータルサイトとネット大喜利の投稿、そしてブログ、その3つに時間を費やすようになった。2羽のうずらが我が家に来てから、私の暮らしは健全化の一途をたどる。
あるとき、ベテランのウズラーから砂浴び用の砂を用意したほうがいいとアドバイスされた。体に付いた虫やゴミを落とすほか、ストレス解消になるらしい。
砂と聞いて真っ先に思い付いたのは海だった。当時の家から海岸まで車で20キロ。田舎で生まれ育った私の距離感覚だと、これは「かなり近い」。車にスコップと黒いポリ袋を積んで出掛けた。自分のためではなく、うずらのためだから悩むことなく外に出られた。もう私はひきこもりじゃない。ひきこもりは晴れた日にスコップを持って海になんか出掛けない。
平日の昼間、陽の光に輝く海を眺めながら防波堤の上を歩き、きれいな砂地を探す。帰りは両手に重たい砂袋を抱えて歩く。一度、海岸をパトロールしている地域のおじいさん数人と遭遇して気まずい思いをした。彼らはアサリやウニの密漁者がいないか浜辺を見回っているという。そこへ重量感のある黒いビニール袋を2つ抱えた女がひとり。一瞬「あっ」と怯えるような顔をしたのも怪しかったのだろう。
「それ何が入ってるの?」
「砂です」
おじいさんたちは「砂だってさ」と顔を見合わせて笑ったあと、役目を全うする口調で「確認させてもらえますか」と言った。袋の結び目を解くと「砂だ」「本当に砂だ」と、ざわめき、再び笑われ、私は解放された。
ちなみに海岸の土砂の持ち帰りは個人レベルであっても原則禁止(自治体による)らしい。また、海辺の砂には虫や不純物がまざっているため、うずらの砂浴びには適さないという。どちらも、最近知った。私は昔から間違えてばかりいたのだ。
そんな思い出の詰まったうずら海岸へ向かった。砂の上に飛び降りたときの感触。干涸びた細くて茶色い海藻から強く漂う磯の匂い。砂地を這うように生えるハマボウフウの肉厚な葉。昔のままの風景だった。
2羽のうずらは毎日1個ずつ卵を産み、部屋を飛び回り、砂の中に潜るようにして羽をばたつかせ、2年ほど生きた。うずらはキジ科、その後ひょんな流れで迎え入れた現在の飼い猫はキジトラ柄。少しだけ縁を感じる。
* * *
桜の見ごろを過ぎた5月の半ば、初めて赴任した小学校を「回収」した。
そこは山の中にある小さな小学校。児童も職員も少なかった。校長先生に「何もないところでびっくりしたでしょう」と苦笑いで迎えられたが、自然豊かな土地の暮らしは慣れている。
放課後、ほぼ毎日クラスの子に手を引かれて学校裏の森で遊んだ。その時間がいちばん好きだった。私の授業があまりに下手すぎるため、教頭が教室の後ろで仁王立ちをして監視することが多かったからだ。授業中は気を抜けない。カッと見開いた目を見てしまうと、さらに緊張し、あたふたしてしまう。その空気が伝わるのか、教頭がいる時間は子供たちがかなり気を遣って自ら動いてくれた。
放課後に職員室で「きょうの良くなかったところ」をみっちり指導されていると、子供が何かの理由をつけて私を呼びに来る。これも子供の作戦だったのかもしれない。そういうときは教頭も話を早めに切り上げてくれた。
子供たちと森の中の小川でヒキガエルを捕まえ、教室の水槽や虫かごで十数匹を育てていたのだが、ある朝登校すると全部のフタが開いており1匹残らず消えていた。その日の1時間目、隣のクラスの本棚の裏から数匹が出てきたらしく、女性教諭の悲鳴が聞こえた。
思い返せばよく叱られた1年だった。教頭の授業の監視と長時間のダメ出しは初任者教育の一環だと思っていたが、他校の同期は誰もそんな指導を受けていなかった。
その初任校での記憶の糸をたぐるとき、一緒に思い出すのは当時乗っていた車だ。車がなければ暮らせない地域なのだが、その分野にまったく興味がない。「なんでもいい、乗れればいい」と父に車探しを頼んだら、怪しい店で15万円の中古の軽自動車を見つけてきた。ちょっといい電動自転車と同じくらいの値段である。
ところどころ錆びた紺色の車体。履き古した靴の中敷きみたいに、元の色がわからない座席やハンドル。極めつけは天井の内側を覆うスポンジ状のシートだった。ある夏の日、運転中に天井のシートが、はらりと剝がれ、私の頭に被さった。暑さで粘着力が限界を迎えたらしい。車に乗ったとき頭の上をまじまじと見たことがなかったのだが、そんなことってありますか。強力な粘着テープで補強するも、数日で再び頭の上に落ちてくる。片手で天井を押さえながら家に帰ることもあった。暑い日には天井が落ちてくる。寒い日にはエンジンがかからない。坂道を上がれない。子供たちはそんな私の怪しい車を面白がっていた。
その学校は数年前に廃校になった。子供たちの声が消えたあの地は今どうなっているのだろう。気になった私は、山へと続く懐かしい道を走った。現在乗っているのは天井が落ちてこないタイプの軽自動車だ。
校舎は当時のまま残されていた。地域の人が手入れをしているのか、芝生がきれいに刈り揃えられている。塗装の剝げた壁。木陰にある駐輪場。児童玄関には子供用の小さな靴箱が並んだまま。職員室の前には秋にたくさんの実をつけるオニグルミの木が葉を茂らせていた。
放課後の居場所だった森へ足を延ばしてみたけれど、薄暗く、ひとりで歩くのは心細い。ヒキガエルのいた小川も見ずに引き返した。そのとき初めて、本当に校区から子供がいなくなってしまったのだと実感した。
* * *
昨年の秋、はじめちゃんが待ち伏せていた石炭倉庫を「回収」した。
はじめちゃんは実家の近所に住んでいた7、8歳くらい年上の男の子。私が小学校低学年のころ、彼は中学生だった。
当時はじめちゃんは私の家の隣に建つ石炭倉庫の中で、じっと佇んでいることが多かった。私は下校するとき、その倉庫の前を通る。すると石炭が山積みになった真っ暗なところから、じゃり、じゃり、と炭のかけらを踏む音が聞こえる。「はじめちゃんがいる」と察知すると、全身がこわばる。倉庫を見ないようにして足早に通り過ぎるのだが、いつの間にか背後に気配を感じる。学生服姿のはじめちゃんが影のようにぴたりと付いてくるのだ。
どうして話をしたこともない中学生の男子が年の離れた女の子を追いかけてくるのか当時は理解できなかった。そのまま何事もなく家に帰れる日もあれば、追い越しざまにポンとてのひらで尻を触られる日もあった。なんで? と驚き、硬直して声が出ない。はじめちゃんは私を追い抜くと必ず振り返って、こちらの様子を窺うのだった。ただただ薄気味悪かった。でも、親には話せなかった。
はじめちゃんが中学を卒業して遠くの高校に進学するまでそれは続いた。もうそこに彼はいないとわかっている。それなのに中高生になっても学校帰りにその倉庫が視界に入ると、胸がばくばくした。
「はじめちゃんに付きまとわれていた」と母に話すことができたのは、つい数年前だ。はじめちゃんが心を病んで施設に入っていると聞き、いま思い出したんだけど、と、いかにも気にしてない態度を装って言った。
母はかなり衝撃を受け、「そんなことをする人がこの地域にもいたの。あんたは本当に昔から大事なことを何も言わないんだから」と、しばらく思いつめたような表情をしていた。母には「後ろをぴったり黙って付いてきて気持ち悪かった」とだけ話し、尻を触られていたことは言わなかった。言えなかった。もう何十年も前の出来事なのに、その部分を言い淀んだことに自分でも驚いた。
同じく小学校低学年のころ、もうひとつ忌まわしい記憶がある。正月に親戚が大勢集まり、大人たちは麻雀、子供たちは人生ゲームなどをして遊んでいるときに中学生の無口な従兄が人目を盗んで私の下着の中に手を入れてきた。なんでそんな汚いところを触るのか意味がわからなかった。どうしようもなく恥ずかしかったが、「やめて」と言うことも、その場から逃げ出すこともできない。このことも、やはり親に言えなかった。はじめちゃんの時よりも「言ってはいけない」という気持ちが強かった。未だに周りの人にも打ち明けていない。従兄とは今も結婚式や葬儀で顔を合わせるが、向こうは何もなかった顔をしている。
ふたりの行為を、これまで「大したことない」と自分の中で片付けようとしてきたけれど、「はじめちゃんにされたことさえ母に全部話せない」という現実に直面してわかった。それらの体験は思っていたよりもずっと根の深いものだと。私は根本では他人の性欲を嫌悪しており、自分にもそれが存在するということが許せないのだ。
私の実家は転居し、今あの家には知らない人が住んでいる。石炭の需要が減り、はじめちゃんの倉庫も解体された。もうあの暗がりから炭の分身のように飛び出してくる影はないけれど、私の分身は少女の形をしてまだそこに漂っている。こうして書いて、考えることで、いつか成仏させてやりたい。
* * *
本書では、集団お見合いを成功へと導いた父、とあるオンラインゲームで「神」と崇められる夫、小学生を出待ちしてお手玉を配る祖母……など、“おしまいの地”で暮らす人達の、一生懸命だけど何かが可笑しい。主婦であり、作家であるこだまさんの日々の生活と共に切り取ったエッセイが多数収録されています。
また、こだまさんの最新刊『ずっと、おしまいの地』は絶賛発売中! ぽつんといる白鳥が目印です。
筆者について
エッセイスト、作家。デビュー作『夫のちんぽが入らない』でYahoo!検索大賞を2年連続で受賞(第3回、第4回)、『ここは、おしまいの地』は第34回講談社エッセイ賞を受賞。ほか『いまだ、おしまいの地』、『縁もゆかりもあったのだ』など。