接続する柳田國男~災厄後の民俗学と「実験の史学」という問題

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大塚英志による本格的な柳田論考、第2回目は、柳田民俗学の「災厄後の思想」の特徴について。

第1回はこちら
過去に『atプラスweb』にて掲載された記事はこちら

[1]もう一度、柳田民俗学の双極性について

柳田國男の「学問」が災厄後の思想としてあることは、評伝などで自明のことのように語られながら、実はその点への検証は殆どない。しかしその事実を示す二つの発言はよく知られる。一つは関東大震災の報をスイスの国際連盟への赴任から帰国途中で受けた時の述懐、もう一つは1945(昭和20)年8月、敗戦は免れ得ないと知った後の日記の記述である。

列挙してみる。

大正十二年九月一日の関東大震災のことはロンドンで聞いた。すぐ帰ろうとしたが、なかなか船が得られない。やっと十月末か十一月初めに、小さな船をつかまえて、押しせまった暮に横浜に帰ってきた。ひどく破壊せられている状態をみて、こんなことはしておられないという気持になり、早速こちらから運動をおこし、本筋の学問のために起つという決心をした。

(柳田國男「官界に入って」『故郷七十年』1974年、朝日新聞社)

早朝長岡氏を訪ふ。不在。後向ふから来て時局の迫れる話をきかせられる。夕方電話あり、いよいよ働かねばならぬ世になりぬ。

(1945年8月11日、柳田國男『炭焼日記』1958年、修道社)

ジュネーブで関東大震災の報を聞いて急遽帰国したというのは俗説で、既に決まっていた日程だった。直前、パレスチナ視察を希望して却下されての帰国である。

戦時下の記述の方は、転向によって柳田門下に集まったとされる元マルクス主義者の一人・橋浦泰雄にあれこれと手間を乞いながら炭竃に火を入れる日々を描く『炭焼日記』(1958)の一節である。

柳田の「災厄後の思想」の特長はそれがロマン主義からの「揺り戻し」として常にある点だ。

そして、これは幾度か繰り返してきたことなので深くは説明しないが、柳田國男の学問のわかり難さはその双極性にある。

即ち一極は、ロマン主義的な「文学」の想像力の範疇にあるものだ。初期の「幽冥談」(1905)に見られる異界観が現実の歴史に仮託されて、先住民族としての山人や、海上の彼方の起源論へと向かうものだ。「ロマン主義民俗学」と仮に呼ぶ。

もう一極は、オールドスクールな柳田論では定番であった「経世済民」の民俗学である。即ち初期の農政学などに既に明確に見られる社会政策論としての側面で、これは当初は小作農、普通選挙後は有権者(公民)への啓蒙運動としての広がりを持つ。いわば「公共の民俗学」とでもいうべきものだ。

その二つの思考/志向/嗜好が柳田の学問を形づくる。

柳田民俗学のこのような乖離は、ぼくの個人的な経験に於いても、柳田直系の先達(例えば千葉徳爾のような)に接する度に、感じていた違和である。彼らは一様に「経世済民」の学としての公共性を語る一方で、個人としては『山の人生』(1926)に代表される山人論に強く魅せられた経験を持つ。そして多くの柳田読者の場合、主権者教育と妖怪研究が一つの学問の中にある「矛盾」を多くの人は整理できず、その一方の「民俗学」のみを定義し理解してしまう。

この二つの民俗学の出自を『故郷七十年』(1959)あたりを手懸かりとして遡っていけば、幼年期の「神隠しに遭い易い気質」がロマン主義に、飢饉体験が「経世済民」の萌芽としてあることは容易に想像がつく。それが青年期、ちょうど二つの戦争、即ち日清戦争と日露戦争との間に重なる時期にロマン主義的な新体詩人から農政学への転換という「歌のわかれ」を経て、その「歌」が山人論や『遠野物語』(1910)の如き「文学」へと姿を変えて、二つの民俗学の基礎がつくられる。

そしてこの二極の間で、柳田の学問は常にロマン主義的なものへと回帰する傾向にあり、そして、震災や戦争といった災厄を契機に劇的に「公民の民俗学」へと揺り戻される。例えば関東大震災後は、朝日新聞論説委員として普通選挙の論陣を張り、敗戦後は主権者教育としての国語科と社会科の構築を試みる。いわば「社会化」するのだ。

その「社会化」の「直前」の姿について少し確認しておく。

関東大震災直前までは、柳田はジュネーブの国際連盟にいた。植民地統治やエスペラント運動への加担など、一見、柳田の公共的な仕事ぶりがうかがえるが、実際にはジュネーブ行きは以下のような事情だ。

大正に入って、貴族院議長の徳川家達との確執がゴシップになったあたりで、柳田は「山人」のモデルとされる台湾「原住民」の視察に現地に向かう。その様を柳田の盟友・田山花袋は小説としてこう書き残す。

Aはさうした話に尠(すく)なからず興味を覚えた。かれは眼のあたりその騒ぎのさまを見ることが出来るやうな気がした。かれには一方この高地の人達の恐怖のさまが想像されたと共(ママ)に、一方B種族がさうしてこの深山の中に圧迫される形が想像された。長い間想像したかれの頭の中のロオマンスはいよいよ色彩を濃(こまや)かにした。

(田山花袋「山の巡査達」『雄弁』1918年1月号)

この時期の柳田は「ロオマンス」の過ぎた人物としてしばしば花袋作品に登場する。一方では少し後、必ずしも関係の良くなかった弟・松岡静雄が海軍を辞し、ミクロネシア研究に傾斜していく過程に並走し、後の「海上の道」の原イメージが形成される。それらはロマン主義的起源論であり、実際、1919年、官僚を辞した柳田はその翌年から「起源」への遡行の旅を試みるのだ。

大正八年の終りに、私は急に自由なからだになったので、兼ての望みであった太平洋諸島の巡歴を思ひ立ち、旅費と日記の掲載とを朝日新聞に約束してもらった。先ず手始めに国内のあまり知られない区域をあるいて置かうかと思って、九年の六月に佐渡に行き、八月から東北の長い旅を試み、次いで内海の多くの島、九州南部の沿岸を経て沖縄に渡り、八重山群島までを見てあるいて、十年の二月に一ぺん引上げて来る途中で不意に東京からの電報によって、ジュネーブの委任統治委員会に行ってくれぬかとの交渉を受けた。

(柳田國男「ジュネーブの思ひ出」『国際連合』1946年11月、『定本柳田國男集』第3巻)

しかしこの遡行の旅は、沖縄に来た時に、新渡戸稲造からのジュネーブ行きの要請があったので中断する。その中途半端な気持ちのままの赴任である。

官僚であるからパブリックな業務には当然、慣れている。しかし、いくつかの奇妙な点に気づく。

「瑞西日記」を読んでいくと、ジュネーブでは既に日ユ同祖論に傾いていたはずの藤沢親雄と連日のように懇談し、帰国直前にパレスチナ行きを希望するのだ。しかし複雑な国際問題に首を突っ込んでくれるなと却下されている。柳田がこの時、日ユ同祖論者だったとは全く言わないが、しかしそういう人物を事実として、身近に置いている。柳田にはそういう「癖」が少なからずある。つまりロマン主義的な欲望が消化しきれずにいた状態だったともいえる。

他方、戦時下はどうであったか。

敗戦直前の日記『炭焼日記』には元マルクス主義者の弟子・橋浦泰雄と炭窯をつくる様が描かれているが、お世辞にも隠遁生活とは言えない生ぐささが垣間見える。海軍研究所や憲兵隊といった「流言」の調査や取り締まりの機関の出入りもあって、昭和初頭には「世間話研究」を立論していた柳田の戦時協力が垣間見える。

ここでは詳しく記さないが、戦時下、柳田國男の取り巻きに中野重治、石田英一郎ら転向マルクス主義者の姿が日中戦争の少し前あたりから目立つようになったことは昭和初頭に門下となった千葉徳爾が述べている。ぼくも千葉の述懐として直接聞いた記憶がある。彼らの姿も身近にある。

だがそれ以外にもう一つ、偽史運動に連なる面々が柳田邸を訪れる様が「日記」には記録される。それが先ほど言った「癖」に連なる人物である。エジプト文化の起源に日本の神代文化を見ようとする織田善雄が「竹内文書」、日ユ道祖論者の増田正雄が「契丹古伝」、高楠順次郎著『知識民族としてのスメル族』をそれぞれ携えて訪れる、というオカルト小説の導入部としか思えない記述が散見するのだ。「スメル族」云々とは日本人の起源をスメル=シュメール文明に求めるスメラ学塾にも連なるワードである。加えて柳田のジュネーブ時代の側近・藤沢親雄はこの時期、ジェームズ・チャーチワードのムー大陸本翻訳(1942年)に関与していたことが知られている。

こうして列挙すると日本近代の偽史運動の主な主張が戦時下の柳田の周辺に集まっていたことは事実である。こういった偽史運動家によるオルグともとれる柳田への接近は、ナチスドイツでしばしば指摘されるオカルトと国策の接近の日本版とも見えるが、それよりもその出入りを柳田が許していたことに注意したい。そのことがこの時期、柳田のロマン主義が偽史的な領域にまで傾斜していた証拠というよりは、その方面に対する抑制の役割を結果論的に果たした印象はある。

だが「偽史運動家」という「歴史家」達の出入りは、この時期の柳田の「偽史」にではなく「歴史」への関心としてあったように思う。偽史運動が歴史学と違うのは想像力で起源に遡行しつつ、新宗教の教義と結びつき「未来」へと視座が向かうことだ。

その点で『炭焼日記』を見る限り、もっと頻繁に出入りしていた偽史運動家は大本教のある種のブレーンであった節のある心霊主義者・岡田建文であることは一考に値する。岡田蒼溟名義の『動物界霊異誌』(1927)には柳田の書評も残る人物である。

岡田は戦時下、柳田邸を訪ねてきては「いろいろのめづらしきはなし」をしては小遣いをせしめていた印象だが、柳田はそれを歓待している。他の偽史運動家とは距離のとり方が明らかに違うのである。

岡田の出入りは太平洋戦争前かあるいは日中戦争以前の「戦前」に始まること、そしてその会話が「大きな戦争」についての予言であったことがうかがえる。

空襲のさなかに別れたま侭、消息不明になつた旧友の岡田蒼溟翁は、今からもう十六七年も前に、私の所へ来てこんな話をした。柳さん、えらい大きな戦争が始まるさうですぜ。世界がひっくりかへるやうな大騒動が続いて、日本も散々にやられるさうですよといった。あなたはそんな話を誰から聴いて来ましたか。もちろん神様の御告げです。神様より外にはかういふことを、知って居られる方が有らう筈はありません。しかし結局はこちらがよくなるのださうです。何か想像もつかぬやうな不思議が起って、それから少しづつ運が向いて来る仕組みになって居るのださうですとも言った。
それから一年に一度か二度、逢ふたんびに我々両名はこの話をした。何だか少しづつ御告げの通りに、なって行くやうな気がして来て、実は私も大いに動揺した。

(柳田國男「作之丞と未来」『東京日日新聞』1949年4月26-27日)

注意すべきなのは、この挿話は千葉徳爾の理解によれば柳田による歴史学批判であるエッセイ「作之丞と未来」として、戦後の1949(昭和24)年に書かれたことである。そこでは柳田が岡田建文という偽史運動家のいわば「偽史の想像力」を借りながら「未来」、即ち戦争の到来とその先を見通そうとしていた姿が確認できる。

常に「起源」に向かう傾向にある柳田のロマン主義がこの時は未来へと向かっている。このような「戦争」への「想像力」として戦時下の柳田がそのロマン主義的な資質を用いていた事例は以下からもうかがえる。例えば1937(昭和12)年の『山村生活の研究』に寄せた一文の中にはひどくわかり難いがこうある。

以前我々が山立の氣風として、は山臥行者の長處短處として、あれほど注視し批判した正直・潔癖・剛氣・片意地・執着・負けぎらひ・復讐心その他、相手に忌み嫌はれ畏れ憚られ、文藝には許多の傳奇を供し、凡人生涯にはさまざまの波瀾を惹起した幾つともない特色は、今や悉く解銷して虚無に歸したのであらうか。或は環境に應じ形態を改めて、依然として社會の一角を占取し、この今日の日本的なるものを、攪亂せずんば止まるまじとして居るのであらうか。

(柳田國男「山立と山臥」柳田國男編『山村生活の研究』1937年、民間伝承の会)

「山立」徒は山民を指す。

つまり「山立の気風」とは「山民の気質」を言う。先住民としての山人実在説は『山の人生』で放棄される一方、自身の「神隠しに遭い易い気質」を山人の無意識の記憶として示唆する。『山の人生』は「山人」を「歴史」ではなく心理学的なフレームでフロイド的な記憶の古層に位置付け直すものだ。

『山村生活の研究』は、その時期と規模を考えれば国策的機運に便乗することで可能だったと考えるのが妥当だが、この一文には「山民」の美徳だけでない暴力性をも列挙し、「山民」的なるものが社会に同化した結果、果たしてそれは「解消」したのか、あるいは「社会の一角」に未だあり「今日の日本的なるもの」を「撹乱」してはしまわないか、といわば山人的な暴力性の暴走をこのタイミング──言うまでもなく南京大虐殺の直前──で危惧している。柳田は山人論を先住民説からこのような「心意」、つまり「山民」性の問題へと組み換えるが、その時期に「無意識」ということばを好んで使う傾向にある。その「無意識」とは柳田のなかで先祖の心意という意味である。

つまりロマン主義は「起源」だけでなく先祖の心意という「古層」にも向かう。

だが、1945(昭和20)年4月より書き始められた『先祖の話』の戦後書かれた序文に、戦時下の執筆当時と敗戦後の刊行時で、内容とは別に「気持ちの上には著しい今との違い」があると認める。そしてこう続く。

我々の未来に対する推定が、まだまだ精確を距ることはなはだ遠きものだったことを経験して、今更のように望みを学問の前途に繋けずにいられない。

(『先祖の話』)

「未来に対する推定」、つまり自身の学問が未来を想像する力を欠いていた、とするのだ。それは角川文庫発刊の辞として知られる角川源義の「第二次世界大戦の敗北」が「私たちの文化が戦争に対していかに無力であ」ったかを痛感する様を連想もさせるが、『先祖の話』は岡田建文と語った「戦争」の先の「未来」ではなく、「先祖」という過去に連なるものの行く末に歴史の想像力が向いている点で、明らかにロマン主義的な後退の書なのである。

柳田國男の「災厄後の思想」の前段としてのロマン主義的な傾斜の話からやや論を急いでしまったが、「災厄後」の柳田はロマン主義的後退から社会の未来設計へと、その学問を幾度も軌道修正しようとする。

この揺り戻しは戦後の「社会科」構想に頓挫し、「海上の道」へと傾斜する時期が60年安保と重なり、1960(昭和35)年の最終講演で息絶え絶え(の様子が聴講者のメモからうかがえる)「憲法の芽を生やさなければいけない」と不意に語るのがその最後だと思われる。

そして、このような「双極性」を考える上でもう一点、注意しておかなくてはいけないのは、その「方法」である。

柳田國男のその最初の社会化としての「歌のわかれ」、つまり新体詩詩人としての自らを消去した時、しかし「歌」に託された異界への想像力は、ハイネの「諸神流竄記」等を介しつつ、ロマン主義的想像力を放棄したというよりも、それを別個の「書式」や「方法」を以て記述しようとした、と考えるべきだ。歌は歌われなくなったが、ロマン主義的な欲求は消えたとはいえず、むしろ、書式の更新がなされたのである。そして、そのあたらしいそれ(ヽヽ)は社会へと向かうもう一つの軸に於ける「書式」や「方法」とも重なり合う。

つまり、柳田の双極は同じ「方法」によって学問化されている。

この点を看過すべきではない。

柳田民俗学の「方法」の欠如については、一方では吉本隆明の「無方法の方法」という見解、他方では歴史学からの民俗資料そのものへの資料性の懐疑と、いわば「思想」の側とアカデミズムの側の双方から広義・狭義の方法の不在が指摘されてきた。

だが柄谷行人は、その最初期の仕事「柳田國男論」(1986)では、吉本の批評を踏まえつつ、「柳田にとって、民俗学は“方法”であって、その対象に定義されない」と記す。このような、柳田民俗学の本質を「方法」とみなすことは柳田理解の上で重要である。

その「方法」については前回、「比較」という言い方で示したものだ。実はその「方法」自体がロマン主義的な方向と社会的な方向でブレがある。それは重要な問題だが、後に詳細するとして、柳田学を「方法」それ自体と定義した時、二つの議論の意味が鮮明になる。

一つは、ぼくが長く主張している「公民の民俗学」のあり方がクリアーになる点だ。

つまり主権者教育としての民俗学は、一種の啓蒙運動でありながら、しかし民俗学によって明らかになった民俗文化なりについての「知識」を啓蒙するのではなく、あくまでも社会や歴史を認識する「方法」自体を主権者の基礎教養とする。つまり柳田の「公民の民俗学」とは「方法」を啓蒙の対象するものであり、その「方法」のいわば実装が主権者の要件なのである。

そしてもう一つはこの「方法」自然科学的性格である。

そしてこの自然科学的方法は二極の一方、「公民の民俗学」だけでなく、「ロマン主義民俗学」、つまり「文学」にも適用される。そのことは柳田の「起源論」の性格に関わる問題である。

柳田の「方法」が理系的である、人文科学でありながら理系的であるというのは柳田の「方法」が自然主義を出自とするからである。この場合の自然主義は「私小説」のことでなく文字通りの自然科学的観察と記述からなる文学作法である。

ぼくは柳田のロマン主義への傾斜とその反動を「ロマン主義殺し」と形容さえするが、それは、ロマン主義という、「偽史」にさえ接続する領域に「方法」を適用することでそれを抑制し、断念しようとする思考である。

山折哲雄は柳田と折口に共通の起源への関心を指摘しつつ、柳田は「自然還元」、折口は「始原還元」と対置する。この「始原還元」とは、歴史的な始原への筋道を立てての遡行ではない。折口の方法を「直感が過ぎる」と柳田は評したが、「マレビト」や「貴種流離譚」といった折口名彙がそうであるように、ユング派の「元型」や、多分にニューエイジ思想やスピリチュアリズムの影響の強いキャンベルの単一神話論といった、いわば無意識の領域にある何ものかへの「還元」あるいは直感的飛躍に近い。

対して「自然還元」とは自然科学的に民俗資料を解析していく方法で、山折はそこまで議論を進めていないが、自然科学的還元と同義である。ただしその「自然科学」はゾラの実験文学論などを出自とする明治期の「自然主義」に限定されるのである。そこに大正期は心理学、戦時下は写真や映画などのメディア論が紡ぎ木される。そしてロマン主義的な過去への志向を「自然還元」することでロマン主義民俗学は歴史的変遷、そして、ここが問題なのだが飛躍してその起源としての「過去」に向かう傾向を持つ。この「起源」に向かう際、実は偽史的な「起源論」への隙のようなものが生じる。

このように柳田の学問は「ロマン主義民俗学」と「公民の民俗学」を双極に、それを同一の「方法」が支えようとすることで成り立っている。このようなトライアングルで把握するとその全体像が見え易くなる。

まず、以上のことを踏まえた上で柄谷行人の柳田論をもう一度「災厄後の思想」として読み直してその妥当性を考えておきたい。

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