激化する学費闘争──大学当局の動きとバリケードの中の自治

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終戦の年に生まれ、学生運動が激化していく1960年代に二十歳(はたち)の時代を過ごした元日本赤軍闘士・重信房子。6月16日に発売された重信房子・著『はたちの時代 60年代と私』(太田出版・刊)は、22年ぶりに出所した著者が、「女性らしさ」から自分らしさへ、自ら綴った決定版・青春記となっています。
OHTABOOKSTANDでは、本書より厳選したエピソードを一部抜粋し、全7回にわたって紹介します。

第6回目は「第六章 大学当局との対決へ」より。学生たちがスト権を確立し、築き上げられたいくつかのバリケード。話し合いのため、両者のにらみ合いが始まる。

バリケードの中の自治

 大学当局は私たちがスト権を確立し、バリケードを築いた頃、どんな動きをしていたのか、宮崎学生部長の本から、追ってみました。

 11月26日には生田校舎でも、神田の大学院でも大学評議会の開催が学生側に阻止されて流会となっていました。30日の団交を控えていた頃です。

 そしてストライキになって評議会の開催が出来ないままの事態になった大学側は、「臨時連絡協議会」を設置したそうです。構成は常勤理事、Ⅰ・Ⅱ部教務部長と学生部長で「その性格は、法人と大学(教学)の間の連絡・調整機関とされ、学長が中心となって運営し、学長に事故があるときは、教務担当理事が代わることとされた」というものでした。その結果、学生のスト権確立とバリケード封鎖に対して、12月1日付で、休講を告示しました。以下のとおりです。

「11月30日、記念館において、理事会と学生会の間で行われ教職員も参加した『学費問題全般』に関する話し合いは、午後9時15分ごろ学生側から、話し合いが打ちきられ引き続き一部学生は、大学を占拠する実力行使を行うに到った。午後、10時25分、学生側は、大学院、小川町校舎を除き、1号館2号館、4号館5号館7号館9号館10号館11号館および図書館を障害物でもって封鎖して、教職員の出入りを拒否する状態に立ち到った。12月1日、学長は告示を発し大学の正規の授業を力によって妨害しないよう要望したが、学生側がこれを聞き入れないので、やむなく休講の措置をとった。昭和41年12月1日 明治大学」

 バリケードによって、大学構内に入れないので「昇龍館」という神田の大学近くの旅館を、学生部臨時本務所兼宿舎としていたようです。ここで、学生側の昼間部全学闘争委員会の大内義男(工学部)副委員長福島英昭(経営学部)小森紀男(政経学部)書記長は菅谷俊彦、全Ⅱ部共闘会議議長は酒田征夫(政経)岡田征昭書記長(研連委員長 文学部)と、コンタクトをとっていたとのことです。昼間部が主導権を握っていると思われたと、宮崎先生は記しています。当初は、昼も夜も基本的に共通した学費値上げ白紙撤回を求めていたので、恒常的連絡は昼間部がとっていたのでしょう。

 私たちⅡ部の新しい学苑会執行部は、まず民青の高橋中執との引き継ぎを開始しました。当時は新執行部を認めずに、印鑑や会計なども引き継ぎを拒み妨害活動に出てくることも、私たちは想定しましたが、整然と多数決で学生大会が行われたのは衆知の事実だったので、日共側もいさぎよく引き継ぎに応じることになりました。

 66年に学生が管理運営権を持っていた学生会館には、これまで3階に私たち研連執行部と高橋学苑会が隣り合わせにいました。その新しい学苑会室から、日共民青系の人びとが出ていき、それに替わって、私たちが執行する役割につきました。私たちは、民青執行部と誠実に引き継ぎを行いました。歴史的な各議案や決議、備品に学苑会の財産日録、それに会計。私は民青の財政部長から、学苑会の残高確認の上、帳簿も引き継ぎました。彼らはバリケード封鎖に対して「学苑会民主化委員会」をつくりましたが、のちに党内の中国派との内部抗争で、力を失っていきました。私の知るかぎり、民青の中心をなしていた社研は、中国との友好を訴える人びとが多かったのです。彼らは、後に活動から身を引いたのか、大学でも見かけなくなりました。

 私たち新学苑会は執行部と別個に、学費闘争の機関をつくりました。大会決定に則って「全Ⅱ部共闘会議」として、学費闘争を闘うことにしていました。

 当時、学校当局・学生部や学生課とはパイプもあり、私は財政担当として学生課の担当と予算決議に沿った預かり金(入学時、学費納入時、大学側が徴収している学生自治会費や助成金)の受け取りなど、頻繁にやりとりをしていました。私はⅡ部共闘会議執行部に加わらず、学苑会の仕事に集中していたので、学館に居ることが多かったのですが、学館前の広場に面した商学部などを中心にして多くの学生が、バリケードの中に泊まり込み態勢をとっていました。夜間学生は、そこから会社に出動する人も多くいました。

 明大の66年の私たちのストライキ闘争は、自らがバリケードの中での秩序を、自主管理としてつくり出さなければならないという考え方に立っていました。当時の明大の政治的環境は、第一に出来たばかりの学館の管理、第二に60年代から日共系職員と党派闘争を繰り返しながら、ブント系が維持していた生協活動もあります。第三に再建大会途上の全学連の主力をなす明大社学同の役割。そうした社会的条件に規定されていました。

 バリケードの中の日常活動は、自主管理カリキュラムに基づいて講演会や学習会、討論会、サークルの発表会などが盛んに行われていました。私の初仕事は大学校舎内泊まり込みのために、貸し布団屋から200程の布団を借りたのを憶えています。その後も私の財政部長時代(66年~67年)には必要に応じて、よく借りていました。値段もすっかり忘れてしまいましたが、神田にあった貸し布団屋とは、私が一番なじみだったでしょう。学館前の11号館に200の布団を運び込んでも、足りなかったのを思い出します。

 夜間部は夜、バリケードの入口にドラム缶で焚き火をしながら、監視門衛のローテーションを組んでいました。見回り組、他は学館前広場で大きな立て看板を、いつも誰かが書いていました。鉄筆とガリ版でビラを作り、それを1枚1枚謄写版で刷り上げる作業も、あちこちで行われていました。

 大学は休講でも、サークル活動やその為の活動の場は、狭い部室のみならずバリケード中の広い教室の空間で行われていました。軽音楽やジャズ研や空手まで、広々と練習出来たし、各研究部の発表会も、自主講座に組み込みました。明大Ⅱ部の演劇部には、GちゃんH君と、ヒッピーの始まりをつくったと称する人びとがいて、彼らも自主管理に参加し、不思議なパフオーマンスをやったり、新宿西口や風月堂へと、ヒッピームーブメントを広げていくころです。唐十郎や寺山修司が語られ、キューバのゲバラとカストロのどちらが革命的なのかを論争し、朝鮮文化研究の展示会など、ごった煮の良さがありました。民青も反対しつつ、共同しています。学館2階には、「談話室」と呼ばれるロビーのような空間があり、自動販売機も置かれてコーラとフアンタ(→ファンタ)を売っていました。生協の食堂も学生の要求で開いていました。冬の寒い中、ジグザグデモを1日2~3回はやって気勢をあげ、御茶ノ水駅で市民や店主への呼びかけやビラを撒いたりしていました。

 バリケードの中には、いろいろな人が来ていました。講演に呼ばれてその後、気に入ったと、左翼評論家で泊まり込みに加わる人もいました。近所の文化学院の学生や高校生も、バリケードの中に人生相談に来て、居心地がよいのでずっと加わっていました。サイケ(サイケデリックから採った)とニックネームで呼ばれた家出してきた女子高生は、バリケードの中で抽象画を描いては、学生たちのアジテーションや討論をじっと聞いていました。みんな、お互いに興味を持ち、悩みを聞き合い、又、次々と当局との闘争方針を打ち立てては、交渉し又、闘争し会議する、という日々を12月から年末年始1月中ずっと続けていました。

 寒い冬、学館のマロニエの木の下には、いつも屋台が留まっていて、お金のある人はラーメンを食べることが出来ました。直ぐそばにスナックもストライキの後に開店していて、3時過ぎまでやっていました。これらは公安当局に関わりのある者たちだという噂でした。当人の一人が「公安に頼まれて情報収集している」と打ち明けたとのことです。それ以来、そうした店は行かないようにしていました。お茶の水の学生会館のそばの店には学生たちの主張を伝え、協力をお願いします、と訴えていました。おかげで、のちに学館にガサ入れがある時に荷物を預かってくれる店もありました。

 私の生活費は、当時アルバイトで、2万円くらいだったのだろうと思います。当時は時代としてまだ、ズボンを履く習慣がなく、学校に泊まるようになって、スラックスを履くことがありましたが、通常はスカートでした。もちろん、ヘルメットも被りません。そんな時代です。

 当時の私は、研連の岡崎さんに替わってMLの酒田さんを推して学苑会中執の委員長に人事案をつくったように、ML派とは親しくやっていました。ところが、バリケード闘争が始まると横浜国立大闘争のMさんが頻繁に明大に訪れて指図をするようになってきました。私はこのMさんの押し付けがましさに我慢ならず、反論すると「君の意見は社学同の意見だ」と批判されたりしました。はて、社学同? そうか、私の意見って、そうなのか? レッテルを貼られて、社学同の教育政策を読みましたが、どこが同じかは分かりませんでした。でも、尊大なこのMさんが嫌いで、ML派とは距離を置くようになりました。

* * *

※第7回(最終回)は、7月31日(月)配信予定です。

重信房子・著『はたちの時代 60年代と私』(太田出版・刊)は、全国の書店・各通販サイトにて好評発売中です。

筆者について

しげのぶ・ふさこ 1945年9月東京・世田谷生まれ。65年明治大学Ⅱ部文学部入学、卒業後政経学部に学士入学。社会主義学生同盟に加盟し、共産同赤軍派の結成に参加。中央委員、国際部として活動し、71年2月に日本を出国。日本赤軍を結成してパレスチナ解放闘争に参加。2000年11月に逮捕、懲役20年の判決を受け、2022年に出所。近著に『戦士たちの記録』(幻冬舎)、『歌集 暁の星』(晧星社)など。

  1. 終戦、高度経済成長、そして父の教え…元日本赤軍闘士・重信房子が明かす『はたちの時代』の前史
  2. 1964年の就職と進学…当時18歳の重信房子が幻滅した「世間」という現実
  3. 「無理だ」重信房子が目覚めた学生大会──生きる実感を得た文研と弁論の日々
  4. はたち 希望にみちた学生生活──全学連再建と明治の学費値上げ反対闘争
  5. 激化する学費闘争──大学当局の動きとバリケードの中の自治
  6. 最後の交渉と機動隊導入──そして「二・二協定」へ
『はたちの時代』試し読み記事
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