はたち 希望にみちた学生生活──全学連再建と明治の学費値上げ反対闘争

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終戦の年に生まれ、学生運動が激化していく1960年代に二十歳(はたち)の時代を過ごした元日本赤軍闘士・重信房子。6月16日に発売された重信房子・著『はたちの時代 60年代と私』(太田出版・刊)は、22年ぶりに出所した著者が、「女性らしさ」から自分らしさへ、自ら綴った決定版・青春記となっています。
OHTABOOKSTANDでは、本書より厳選したエピソードを一部抜粋し、全7回にわたって紹介します。

第5回目は「第四章 学費値上げと学生たち」より。大量生産大学化と、学費値上げに進む大学。そこに立ち向かうため、重信ら学生たちは立ち上がる。

当時の牧歌的な学生運動

 1965年秋から66年秋にかけての私は、大学生活やその社会の内容をまだよく知らないままに「希望にみちた学生」として二十歳を謳歌していました。早大には友人がいたり、ネール記念杯の雄弁大会が大隈講堂だったこともあり、行くことが何度もありました。

「早稲田大学は学ぶものすべてに門戸を開放しているから、門がない大学なんだよ」と友人が案内してくれた校内をきょろきょろ見まわすと、明大の数倍の数の大きな立て看板があちこちにあります。アジテーションやデモありの、騒然とした大学だという印象を受けました。65年当時の早大は、学費値上げ反対闘争の真っ最中だったのです。

「あれが大口議長だよ」と友人に言われてみると、体育会系のような若者が、ハンドマイクでアジっていました。まわりには立っている人も座って聞いている人も、そのまわりを横切る人もいて、バラバラでのびやかな雰囲気だったように記憶しています。

 学費値上げ反対闘争は、その前に慶応大学でも始まっていたようでしたが、私が知るのは早大闘争からです。学費値上げ反対闘争は、社会的・客観的なさまざまな要素をもって慶応・早稲田から全国へ広がっていきました。

 当時の経済成長路線は、アメリカ流の大量生産・大量消費へと向かう上昇過程にありました。生産手段の更新をもって本格的に産業構造の「革新」を始めていました。そして、それに見合った「期待される人間像」や産業にふさわしい教育再編・管理統制を求めた文部省の指示がありました。大学は、戦後の新しい教育を求めて出発しながら、私学は慢性的赤字だったようです。「社会的要請にみあった大学」という名目で国の助成金も、いわゆる「ひもつき」で大学の管理が強化され、「産学共同路線」に向かって進みました。「真理の探求」は二の次で、大量生産大学化と、学費値上げによって経営を立て直そうとする動きと重なります。

 学生運動においては、「安保がつぶれるか、ブントが潰れるか」と渾身で60年安保闘争を闘ったブントは四分五裂してきた停滞期を脱して、新しい流れが形成されていました。大管法や、ベトナム戦争に反対する国際的な動き、また日韓条約反対、アジア再侵略を懸念しての日本の戦争責任を問う動きなどです。

 こうした新しい流れに乗って、これまで活動してきた反日共系の学生が、都学連からさらに全学連結成へと、学生運動を再統一していく動きの中に、明治の学費闘争がありました。全学連再建と明治の学費闘争は不可分な関係にあったのだと、歴史的にとらえ返すことが出来ます。

 このとき再建された全学連を中心として、今後進むべき道を明大学費闘争の中で問われたといっても過言ではありません。「革命を目指す」党派と「自治を基盤とした学生運動」が相対的別個の運動方向を持ちうるか否かが、明大闘争の中で問われていたのです。言い換えれば、党派政治に学生運動が収斂されてしまうか否かの分かれ目に、明大学費闘争があったということもできるでしょう。

 当時の明治大学は、Ⅰ部(昼間部)2万5,000人、Ⅱ部(夜間部)1万人の計3万5,000人の学生が学んでいました。神田駿河台、生田、和泉と3地域に校舎があり、Ⅱ部は神田駿河台にありました。私はⅡ部サークル連合の「研究部連合会」(略称研連)の執行部にいました。

 この研連は各学部自治会同様の自治会の位置にあり、その上に全学自治会として、学苑会中央執行委員会がありました。学苑会は1年に1~2回、6月と11月ころ学生大会を開き、総括と今後の活動、予算、人事案を示し、その信任を問います。各学部と研連の大会は、それぞれが別個に開かれます。全学大会の代議員は各クラス代議員が一票の権利をもつように、サークルも一票の権利をもって参加します。

 文学部と政経学部の自治会執行部が反日共系で、学苑会全体は日共系でした。そのため全学生大会では、いつも日共系が勝利しています。そこで政経学部と文学部自治会はボイコットしたりしていました。日共系はボイコットに対抗して「政経学部自治会民主化委員会」、「文学部自治会民主化委員会」をつくって、全学大会への参加を呼びかけていました。

 私は1年生の学生大会の経験から、3年くらいかけてきちんと真面目な自治会活動をすれば、学苑会執行部も反日共系が掌握することは可能だろうと思いました。ただ、政経や文学部自治会では、そういうことを現実計画として考えたり行動したりする学生がいず、自分たちの自治会を民主化の名で介入する日共との争いで精一杯でした。私は日共系のあきれた学生大会を現認して以降、研連から変革を求めれば、必ずどの学部にも声を届けることが出来るので、やってみようと思ったわけです。

 クラスの友人に話すと「君、オールスター戦の野球やゲーム感覚みたいに言うねえ」と驚かれました。でも正義の実現のひとつと真剣だったのです。そこで、自分の所属する文学研究部に、私を研連執行部に派遣するよう推薦してほしいと言いました。誰もやりたがらない研連の執行部をやるという奇特さは、数十人の部員から、不思議に見られたでしょう。政治意識は十分にあっても文学的表現を模索するサークルだったので、幹事長(研究部の長)はびっくりしていました。

 数日後、幹事会の話し合いで、本人が主体的にやりたいなら、部として推薦しようということになったと、推薦を決めてくれました。研連大会を経て、65年11月(か66年初め)くらいに、研連の執行部の副事務長に入ったわけです。その後事務長になりました。各サークルの意見や希望、トラブルを集約し、対処する役割です。

 研連は、党派的な自治会より健全で、活動の領域が広くありました。教育研は教師になりたい学生の研究機関のようだし、政治研は社会党系の学生の集まりともいえ、マックス・ウェーバー、ルソーから基礎的な学習会をやっていました。近代経済研はケインズ政策を研究していました。社会科学研には日共系のマルクス主義者が多くいました。他に空手部やジャズ、軽音楽、演劇部、文学研、雄弁部、日本史研、地理研、歴史研、法学研など多岐にわたり、やる気のある自主的な人びとが集まっていました。

 反日共系からは「日共の牙城」とか「民青のいいなりの研連」と聞いていたのですが、そんなこともありませんでした。社会科学研究部と民主主義科学研究部など、日共の牙城といわれるサークルから研連執行部に来ていた人は民青のしっかりした人でしたが、それ以外はそうではなかったのです。

 掘り起こせば、いろんな人がいました。夜学研も夜間大学の向上を都レベル、全国レベルで、どう行なっていくかなど研究している、真面目な良識派の人びとが多くいました。執行部に加わった新米の私は、夜学研や政治研、雄弁会やジャズ、軽音楽研などの仲間と、夜間大学での研究活動の条件の拡充、予算や場の確保、昼間部との調整などを楽しみながら、尽力しました。

 66年に新築になった学生会館が開館しました。3階には学苑会(Ⅱ部)、学生会(Ⅰ部)、文化部連合会(Ⅰ部)、研連の各執行部室が割り当てられました。日共系の学苑会、ブント系の学生会も文連も、三階に一緒です。研連は文連と連携しやすいこともあり、大学祭(駿台祭)の準備が盛大に行なわれました。この年はまた、大学が創立85周年(明治法律学校)の記念行事を大規模に企画していました。その一方で、学費値上げの話が出てきたのです。

 65年から学生部長の任にあった宮崎繁樹先生の著作『雲乱れ飛ぶ 明大学園紛争』など資料を参照にしながら、当時は知り得なかった事情なども含めて現在から捉え返してみたいと思います。この『雲乱れ飛ぶ』は2003年10月21日に発行されました。余談ですが、この本に先立って明大の当時の学生会(Ⅰ部)の米田隆介、大内義男、斎藤克彦氏らが明大学費闘争の記録を残そうと、宮崎先生を含めてその作業に入りました。2003年4月26日には、当時の明大記念館のあとに建てられたリバティータワーの演習室で、明大学費闘争のシンポジウムも開催されて、活発な討議が行なわれたそうです。

 しかし執筆の過程で、斎藤克彦氏らと宮崎先生との見解が相入れず、また原稿が集まらず、本とはならなかったようです。そこで、宮崎先生は当時の学生部長としての立場から、『雲乱れ飛ぶ』を執筆、自家出版され、米田隆介さんが『明治大学費闘争資料集』としてまとめました。米田さんの労作には、学生側の生の資料と学費闘争に参加した人びとの経験談が載っています。私も獄中から参加して一文を寄せています。

戦後民主主義を体現していた自治会の運動

 明大の理事会は、財政状況の悪化にもかかわらず、長年なんらの対策をたてずにきました。財政悪化は慢性化していたようです。理事長は第三代日本弁護士連合会会長、日本国際法律学連絡協会会長の弁護士・長野国助氏。総長は武田孟氏、学長は小出廉治氏で、比較的民主的な考えを持つ方々でした。小出学長はみずから60年安保当時、学生に国会へのデモを呼びかけて、大学をロックアウトし、紫紺の校旗を掲げたデモの先頭に立った人として知られていました。

 宮崎先生の著書によると、65年の教職員の新年会で、武田総長は学費値上げを考慮せざるをえない時機にきている、と言明されたそうです。「1965年の5月24日に昭和41年からの値上げ方針を理事会で決定したが、早大紛争におじけづいたのか、11月20日になって『値上げ断念』を表明したのだった。その為、昭和42年度は、どうしても、値上げせざるをえない状況に、大学側は追いつめられていたのであった」(『雲乱れ飛ぶ』)と記されています。

 65年に学生部長に就任した宮崎先生は、小出学長に「授業料値上げ問題について」という文章を提出したと記しています。その文章で、早大の反対闘争を教訓として、対処を諮る必要がある点を述べています。真の大学をめざすために、よい研究者の不足による学問の危機、負債にあえぐ財政の危機、政治的に中立たりえない大学の自治の危機、この3つの危機を解決するために一丸となるべき、と宮崎新学生部長は訴えています。また、学費値上げのときを迎える学生部長として、66年には「護民官として」と立場を表明しています。「ローマにおいて政府から任命されつつも、民衆のために尽力した『護民官』のように学生部長は職制上大学の機関ではあるが、学生を真に守る『護民官』として行動しようと心に誓ったのだった」(同)と当時の心境をのべています。

 学生の側は、66年の4月以降、新年度からの学費値上げが噂されており、Ⅰ部学生会中執、Ⅱ部学苑会中執とも、理事会に対して学費値上げをどう考えているのか、の打診を行なうようになりました。「6月17日に学苑会(夜間部学生自治会)から、18日に学生会(昼間部学生自治会)から、それぞれ、学費値上げ経理内容公開を求め大学理事会に『団交』の申入れがあった。同月24日に、大学側と学生側との第一回話合いが持たれた。それはその十日ほど前、学外の『駿台荘』で理事会が開かれたらしいとの噂を学生側がキャッチしたからだった」(同)と、書かれています。

 当時の和泉校舎の学生会のビラには以下のように書かれています。

 学費値上げ決定か。六・二二大衆団交を勝ちとろう。理事会は学生と話合いを! 全和泉の学友諸君! 去る15日、理事会は一方的に学生の前に授業料値上げの決定を提出してきた。この授業料問題は、諸君が、充分承知のように、現在の日本の大学の最大の矛盾としてあり、その典型的なものとして、早大闘争があることは、理事会のみならず、学校関係者は、充分知っているはずである。そして、現在の明治大学においては、その矛盾を解決しようとする姿勢すら学校側には、見えず、ただ単に、他大学より遅れて値上げするのだから云々──? という形で、この授業料値上げの本質を隠蔽し、現在の段階においても、完全に学生を無視している。(中略)我々は授業料値上げには、絶対反対であり、反対しなければならない。なぜなら、この学費値上げが、大学のあらゆる矛盾の集中的な表現であり、具体的には、マスプロ教育の、あるいは、産学協同路線の方向の追及の発端であることは、明確であり、我々学生を商品として、単なる物として、機械的人間として、位置づけようとするものなのである。学友諸君!真の大学とは何なのだろうか。それは、理事者達によって作られうるものであろうか。もはや、我々自身の手でしか大学の矛盾は解決できない時期にきているのだ! 学生会中執、法、商、政経、経営、文、各学部、学生会

(『明治大学費闘争資料集』より)

 こうしたビラが、和泉校舎でも、神田駿河台校舎でも撒かれ始めました。社会主義学生同盟明治大学支部が発行した『コミニズム』号外1966年6月23日号には「学費値上げは阻止せよ! 阻止闘争の巨大な前進に向けて、歴史的な闘いの先頭に立とう!」と、訴えています。

 この時代は、全共闘運動のような、少数派による占拠、自主管理、異議申し立ての時代ではありません。今から思うと、実に貴重なことなのですが、第一に「総学生」を対象として、徹底して民主主義のルールにのっとって学生自治会を運営していました。民主的な多数派工作がとても重要でした。抗議にも秩序がありました。

 第二に、早大闘争の敗北をまのあたりにした時期です。右翼による暴力、民青によるストライキの解除、国家警察権力の当局と一体となった自治への介入などなど、「次は明治だ!」と、ひしひしとした思いがありました。第三に日共民青との闘いです。当時の学生運動は、共産党の分裂(国際派との50年分裂、58年の共産主義者同盟との分裂のみならず、中国派とも日共は党内闘争がはじまっていた)を反映していました。そのために、路線的にも日共系と反日共系は鋭く対立していました。

 日共の反米闘争に収斂していくあり方に対して、反日共系は日本資本主義との反独占闘争を中心にとらえるべきと、日共の要求闘争(国庫補助や諸要求)を批判しました。また国庫補助運動を教授会と共同して政府、文部省に行なうべき、という方針にも反対していました。もっと根本的な、日本資本主義の帝国主義的再編にともなう学校教育行政、そのものを問う中で、学費値上げ阻止闘争を位置づけて闘うべきだという違いがありました。

* * *

※第6回は、明日7月25日(火)配信予定です。

重信房子・著『はたちの時代 60年代と私』(太田出版・刊)は、全国の書店・各通販サイトにて好評発売中です。

筆者について

しげのぶ・ふさこ 1945年9月東京・世田谷生まれ。65年明治大学Ⅱ部文学部入学、卒業後政経学部に学士入学。社会主義学生同盟に加盟し、共産同赤軍派の結成に参加。中央委員、国際部として活動し、71年2月に日本を出国。日本赤軍を結成してパレスチナ解放闘争に参加。2000年11月に逮捕、懲役20年の判決を受け、2022年に出所。近著に『戦士たちの記録』(幻冬舎)、『歌集 暁の星』(晧星社)など。

  1. 終戦、高度経済成長、そして父の教え…元日本赤軍闘士・重信房子が明かす『はたちの時代』の前史
  2. 1964年の就職と進学…当時18歳の重信房子が幻滅した「世間」という現実
  3. 「無理だ」重信房子が目覚めた学生大会──生きる実感を得た文研と弁論の日々
  4. はたち 希望にみちた学生生活──全学連再建と明治の学費値上げ反対闘争
  5. 激化する学費闘争──大学当局の動きとバリケードの中の自治
  6. 最後の交渉と機動隊導入──そして「二・二協定」へ
『はたちの時代』試し読み記事
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