娘にとって初めてのお泊り保育。それは、親にとっても初めての娘のいない夜だ。初めて親と一緒に寝られない夜を娘はどんなふうに過ごすのか。そんな心配をしながら妻と、15年前に成し遂げられなかったあることを決行することにした――。
お泊まり保育
保育園や幼稚園にはたいてい「お泊まり保育」と呼ばれる行事がある。最年長の年、子供たちが生まれて初めて(ではない子もいるだろうけど)、親と離れ、通っている園に1泊するという行事だ。娘の通う保育園でも、先日それがあった。
今までにないことだから、娘はもちろん、親である僕と妻も、日が近づくにつれ、楽しみと同時に、不安や心配も高まっていった。事前に配られたしおりに、全2日の行程が書いてある。どうやら初日は、園に集まったあとにみんなでバスに乗り、奥多摩方面まで行って、アウトドア体験をしたり、お弁当を食べたりするようだ。その後は園に戻り、花火をしたりして、また夕飯を食べたあとに就寝ということらしい。すべてが初めてのことで、娘は数日前から何度も自慢げに、その行程についてを僕や妻に説明してくれていた。
ものすごく楽しみそうではあるけれど、たまにぽつりと「ままとぱぱとねれないの、ちょっとこわい……」などと言っていて、そのたび僕らも「大丈夫だよ〜。だって、パパもママも近くのおうちにいるし」などと笑って対応する。だけど、実はこちらも、娘とまったく同じ気持ちなのだった。
当日の朝、妻は早起きをして弁当作りをしてくれた。それを持って、いつもと変わらず、娘を園へ送り届けにゆく。娘にはとにかく意識的に「お泊まり楽しみだね〜。いいな〜!」なんて明るく声をかけつつ、実はやっぱり、自分も無性に寂しい。
15年ごしの酒場へ妻と
その日が始まってしまえば、あとはいつも通りだ。日中は粛々と仕事。午後からは、自分と、同業者のスズキナオさんと、漫画家のラズウェル細木先生の3人展がちょうど開催中であり、そこへ顔を出す必要があったので、会場であるギャラリー「VOID」のある高円寺に向かう。
途中に前を通りがかったパン屋に、なんともかわいい「ラッコさんパン」「アザラシさんパン」なんてのがあって、「お、これを買って帰ったら、きっと娘が喜ぶぞ……って、今夜はいないんだった」なんて、ベタなことを、何度かくり返しながら。
妻とはしばらく前から「お泊まり保育の日の夜、どうしようね?」と話していた。親としても久々に娘のいない夜だ。あまりハメを外しすぎるのもよくないだろうけど、家でいつもどおりに夕食を作って食べるというのも味気ない。そこで、「なにかあったらすぐかけつけられるように、地元で、昔ふたりでよく行った好きな店のどこかで軽く一杯やるのがいいかね」なんて話をしていた。
ところが、僕が高円寺に行く予定ができて、ひとつ思いつく。妊娠以来、僕が関わるイベントごとに妻を誘うということもすっかりなくなってしまった。まぁ、そういうときは妻に娘を見ていてもらうことになるんだから当然だ。けれども今日は状況が違う。そこで、「たまには、イベントにでも遊びに来てみる?」と誘うと、「行きたい」と言ってくれ、仕事終わりの妻と、会場で合流することにした。
妻に、スタッフさんや、その場で初めて知り合った方を紹介するのも、展示の概要を説明したりするのも、ものすごく久しぶりのことでなんだか新鮮。それから会場をあとにし、高円寺の街をふたりで歩くのももちろん。
すると妻が言う。
「このへんに、前に一緒に行こうとした店あったよね。確か……バクダンだっけ?」
うおー! 突然に記憶がフラッシュバックしてきた。あれはもう15年近く前のことじゃないだろうか。当時は「酔って騒げれば楽しい」という飲みかたから、徐々に渋い大衆酒場の味わいに目覚めはじめたころで、妻ともよく高円寺で飲んでいた。そんななか、妻がどこからか「バクダン」という店がいいという噂を聞いたらしく、ふたりで行ってみようとしたことが、確かにあった。そして、そのときの出来事は、僕の酒飲み人生のなかでもひときわ情けない記憶として刻まれている。
バクダンは、外からは中の様子がまったく見えない、古くて小さな大衆酒場。当時の自分は今よりもずっと若造で、酒場経験も浅いから、「知らない酒場に入るのに緊張する」という感覚がまだ残っていた(今はそのへんがだいぶバカになった)。当然、ものすごくドキドキしながら、そっと引き戸を開けてみる。すると店内には、どう見ても常連の、ここで酒を飲んで数十年というような先輩がたがずらり。その全員がいっせいに、ぎょろりとこちらを見た。今考えれば、そりゃあ入り口のドアが開けば、「誰か知り合いでも来たかな?」なんて、そっちを向くのも当然。しかし僕は、その光景にビビりまくってしまった。結果どうしたかと言うと、「あ、すいません……」と言って、そのままドアを閉めてしまった。妻には、「ちょっと、席空いてないっぽかった」などと言い訳をして。
翌日の娘は……
その後の人生で、何度か再チャレンジしようとはしたものの、運悪く臨時休業だったりして、まだあの店に入れたことがない。これまでのバクダンへ行けなかった日々は、今日このときのためにあったとすら思えてきた。幸い時間もまだ早い。よし、行こう!
無事営業中だったバクダンの、当時からまったく変わっていないように思える引き戸をからりと開けると、そこに広がっていた光景は、あの日とまったく同じ。もはや、いるメンツも同じなんじゃないだろうか? というレベルなので笑ってしまった。しかし、変わったのはこちら側だ。あぁ、なんて正統派の、居心地の良さそうな酒場なんだ! 思わず「ただいま〜」とすら言いたくなるほどの。
初めてのバクダンは、それはもう名店だった。妻は生ビール。僕は、たったの420円で、それがさらに毎月第2水曜日は50円引きになるというホッピーセット「ホッピー酎」を頼み、久しぶりにふたり、大衆酒場で乾杯。マヨネーズとみそが添えられた「ブロッコリー」、名物のひとつらしき「シューマイ」、驚くほどに質の良い「マグロ刺身」、特製のニラだれがクセになる「コメカミ焼」、焼きたての巨大な「鳥もも串焼」、どれも驚くほどにリーズナブルながら、しみじみとうまい。
ただ、ひと品食べて「これ、うまいね」「うん」なんて言い合ったあとに、話題はやっぱり娘のことに戻ってしまう。「ぼこちゃん、今ごろなにしてるかね?」「友達とけんかしたりしないで、楽しめてるといいね」「もう奥多摩からの帰りのバスかな?」。なんて具合に。
翌朝、保育園へ迎えに行くと、どうやらとても楽しめたようで、我々の心配をよそに娘は超ハイテンション。友達と園庭の遊具で勝手に遊びだし、先生に「今日は遊ばないで帰る!」などと怒られていたほどだった。
帰り道でも、そんなに慌てなくても! というくらい早口に、昨日からあった楽しかった出来事についてを教えてくれた。子供というのはこうやって、いろいろな経験を積んで成長していくんだな。と、頭ではわかっていることをしっかりと実感でき、なんだか妙に感慨深いのだった。
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パリッコ『缶チューハイとベビーカー』次回第37回は、2023年8月4日(金)17時配信予定です。
筆者について
1978年東京生まれ。酒場ライター、漫画家/イラストレーター、DJ/トラックメイカー、他。酒好きが高じ、2000年代後半より酒と酒場に関する記事の執筆を始める。著書に『つつまし酒 あのころ、父と食べた「銀将」のラーメン』、『ノスタルジーはスーパーマーケットの2階にある』、『晩酌わくわく!アイデアレシピ』、『天国酒場』、『つつまし酒 懐と心にやさしい46の飲み方』、『ほろ酔い!物産館ツアーズ』、『酒場っこ』、『晩酌百景 11人の個性派たちが語った酒とつまみと人生』、スズキナオ氏との共著に『のみタイム 1杯目 家飲みを楽しむ100のアイデア』、『“よむ”お酒』、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』、『酒の穴』(シカク出版)。