大自然に囲まれ、娯楽も何もない“おしまいの地”に生まれ育ったこだまさん。そんな”おしまいの地”から不定期に届くこだまさんから読者のみなさんへのお便りを掲載します。今回は、お父さんの一周忌での驚きの光景から。
北の果てに真夏日が続いた七月の初め、父の一周忌が執り行われた。
花屋に注文していた供花を受け取りに行くのが私の役目だった。実家は僻地で、配達してもらえない区域だという。軽自動車のトランクに置き花を二つ積み込んだ。想像よりも大きく、バランス良く活けてもらった百合のつぼみを傾けなければ車に入り切らなかった。「二機」と呼ぶほうが相応しい圧迫感だった。
ルームミラーに映る花を確認しながら慎重に運転する。一週間前に十八キロ超えのスピード違反で捕まったばかりの私は、もう車絡みで失敗したくなかった。急ブレーキを踏んで花を倒したくないし、花に気を取られて車もろとも転がりたくない。
初夏の湿度に百合の強い香りが加わり、たちまち息が苦しくなる。引き立て役の葉がゆっさゆっさと揺れ、ミラー越しに手を振っているように見えた。花の匂いで窒息しそうになるなんて幸せなことかもしれない。このままゆっくりどこまでも運転し続けたい気持ちになった。
実家のすぐ近くにある保育園ではこれから運動会が始まるようだ。グラウンドに万国旗が飾られている。開始前から三脚を持った保護者が詰め掛けていた。
一周忌に集まったのは父と母の兄妹、そして私たち姉妹の家族。合わせて十数人。僧侶の読経が始まってすぐ、母の目の前の畳の上を脚の長い虫がカサコソと移動した。ガガンボだった。お経につられて出てきたかのようなタイミングだ。微笑ましく思いながら眺めていたところ、いきなり母が身を乗り出し、拳で一撃。その死体を自分の座布団の下にひょいと隠した。殺生、即、隠避。野生動物の本能に似た、あまりに素早い動きだった。この場で一番やっちゃいけないことを迷わずやる。それが母という人だ。
普段はそんなことを考えないけれど、読経の最中だったせいか、つい輪廻転生の四文字が頭をよぎった。ガガンボは血を吸わず、花の蜜を好むそうだ。そんなところも父っぽい。ガガンボに転生した父は母のげんこつで即死したのだ。隣に座る妹と目が合った。うわあ、と怯えた顔をしていた。その後ろの義弟も苦笑いしている。丸見えだったらしい。母だけがぴんと背筋を正し、すました顔をしていた。
僧侶がお椀型の金属を連打し、平坦だった読経が波打つように高低し、佳境に入った。そのとき、どこからか声が聞こえた。なんだろう。妹と顔を見合わせる。ガガンボとしての生を終えた父の無念の叫びだろうか。
なーむあーみだーんぶー
赤組がんばれ!
なーむあーみだーんぶー
白組負けるな!
すっかり忘れていた。保育園の運動会が始まったのだ。
コールアンドレスポンスのような坊主と幼児の異色のセッション。そこへ運動会おなじみの曲「天国と地獄」が流れた。おじやおばもくすくす笑っている。この間の悪さは父が引き寄せたのかもしれない。
思い返せば一年前の葬儀も地域の夏祭りと重なっていた。一年で一番活気あふれる日に父を乗せた霊柩車が田舎のメインストリートを通過した。私たちは神輿を横目に、火葬場へと向かったのである。法被や浴衣を着た人々のぎょっとした顔が忘れられない。
応援合戦を終えた僧侶を見送りに外へ出ると、車のナンバーが7676だった。南無南無。世間話をほとんどしない物静かな性格だけど、無邪気な人なのかもしれない。
親戚たちとオードブルや弁当を囲む。私がかねてより準備していた父の写真をスライドショーにしてテレビに映した。未開の地に佇む幼少期、愛犬クロを撫でている少年期、中古で手に入れた車のボンネットに腰かける青年期。どの写真も父は泣きそうな顔をしている。
「不幸を背負った顔してんなあ」と母の兄が核心を突く。何冊ものアルバムをめくって探したけれど、父が笑っている写真は本当に少ない。
「貧乏は笑顔を奪うからね」と母は真顔で言った。
父は苦労人だった。家が貧しかったので、日中は働き、夜間に学ぶ定時制高校に通った。朝から大人たちに交ざって道端で土嚢を運んでいると、高校の登校時間と重なり、同い年の生徒がたくさん行き交う。そんな時、父はさっと物陰に隠れたという。普通に勉強できる人たちが心底羨ましくて、悔しくて、でも自分が働かなければふたりの妹が進学できないから仕方ない。妹には同じ思いをさせたくない。明るい時間に高校へ行ってほしい。
祖父は東京の戦火を逃れ、祖母の親戚を頼って北に疎開したが、祖父の兄弟は都内に残った。父のいとこにあたる人たちは都内の名門大学に入り、名の知れた企業に就職したという。もしも両親があのまま東京に残っていたら自分だって同じような道に進めたかもしれない。そんなことを昔、母に話していたらしい。父が微笑む数少ない写真は自身の披露宴のものだった。
父が亡くなる二か月前に祖母の十三回忌があった。父の病はかなり進行していたが、ちゃんと喪服を着ていた。もう打つ手なく、寝たきりの日が続いていたので、パジャマ以外の姿を見るのは実に久しぶりだった。
脳や臓器を蝕んだがんは皮膚にも転移していた。腹や胸のあたりに火口のような割れ目がいくつも出現し、黄色っぽい膿が出ていた。日に何度か火口に薬を塗り込み、ガーゼを当てた。寝返りを打つとガーゼの隙間から地を這うマグマのように粘液が滲み、肌着に染みを作った。あるとき妹が生理用ナプキンで火口を覆う方法を思い付いた。これがなかなかうまい具合に膿を吸収してくれた。漏れずに安心ってその通りだ。私たちはそんなことを言い合いながら活火山と化した父の皮膚をナプキンで塞いだ。父を含め、おかしな光景を比較的すぐに受け入れる人たちだった。
Yシャツの下に防弾チョッキの如く何枚もの生理用ナプキンで装備した父が、親族の前で畏まって挨拶した。母親である祖母の思い出、自身の病状について。いつの間に考えていたのか流暢に喋る。座ったままでいい、と止める私たちの声に耳を貸さず、頑なに立って話した。務めを果たそうとする意地が伝わってきた。
その日、私と夫は「大事な話がある」と両親に呼ばれた。「見ての通り俺は間もなく死ぬんだけども」と「すっかり暑くなってきましたね」みたいな軽い前置きがあり「俺の葬儀で施主をやってもらいたいんだ。式の最後に親族代表の挨拶もお願いしたい。俺の最後のお願いだ」と父は夫に頭を下げた。
「ええ、それはもちろんです。やらせてもらいます」
「そうか。よかった。君は人前で話すことにも慣れてるから心配ない」
「お父さんったら最近ずっとそのことばかり気にしてたんだよ」
母もほっとしていた。両親と夫が和やかに話しているのを私は釈然としない思いで聞いた。なんで夫に頼むんだろう。父の希望なのだから、このままやり過ごそうか。いや、この先も私の中にわだかまりが残る。言わないと後悔する。
「ちょっと。どうして長女じゃないの。年に一回くらいしか会わない人に思い出もなにもないでしょ。私がやる」
いま思えばかなり乱暴な言い方だった。夫を貶す必要はなかった。私は自分でも信じられないくらい腹が立っていた。代表の挨拶は男がするもの。両親の頭の中にはそのような考えがあり、はなから夫以外に考えていないようだった。
父も母も夫も、妹たちも「え?」という顔をした。
「おまえ、みんなの前で挨拶なんかできるのか?」父が驚いた顔で聞く。
「できるに決まってるだろ」
「おお、そうか。じゃあ本当にいいんだな?」
「当たり前だ。いい挨拶文を考えてやる」
言い切った。舐めるなよ。誰にも言ってないが、私は都会でトークイベントとかやっている。知らない人の前で喋っている。文章も世間一般の人よりは書いている。葬儀の挨拶くらい私にだってできるわ。くそ。安心して死ね。小学生の喧嘩か、と思い返すたび呆れる。
父が亡くなってすぐ葬儀会社の人が来て、私に一枚の紙を渡した。
「親族代表の挨拶は、これ使ってください。ここに故人のお名前を入れて読み上げるだけでいいですからね」
誰の死にも対応できる万能な文面だった。
私は決してお父さん子ではない。「近所の人に言えない生き方をするな。勉強もスポーツも一番になれ。大学は国立で、就職先は手堅いところに」。そう疑いもなく説く父を好きにはなれなかった。共働きなのに母に家事と育児をすべて押し付けてテレビを観て笑っているのも嫌だった。私が大人になってからは、その無神経さ故の行動が可笑しく映るようになり、父の話をよく書いた。好きや嫌いは関係なく、父の人生を定型文のまま読み上げるなんて、とてもできない。
葬儀の朝に書き上げた挨拶文は、病に苦しむ姿が今は強く残っているかもしれないけれど父には幸せな時間がたくさんあったと、いくつかの具体的なエピソードを紹介した。「やったるわ」と威勢よく父に言ったわりにはかなり平凡な文章で、父の死より、そのことにひどく落ち込んで涙が出た。
筆者について
エッセイスト、作家。デビュー作『夫のちんぽが入らない』でYahoo!検索大賞を2年連続で受賞(第3回、第4回)、『ここは、おしまいの地』は第34回講談社エッセイ賞を受賞。ほか『いまだ、おしまいの地』、『縁もゆかりもあったのだ』など。