おしまい定期便
第6回

私の特殊能力

暮らし
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「向いているかは、まだわからない。でも意外とやれている」

喫茶店でホール担当のバイトを始めて二ヶ月経った頃、エッセイの締めに書いた文章である。

初夏から晩秋までの契約だった。覚えることがたくさんある。同じ失敗を繰り返して叱られている。だけど、最終日にはこの店の一員として認められるような動きを身に付けていたい。この調子で覚えていけば、きっとできる。そんな夢を見ていたのである。

目を覚ませ。店の裏山の清流で顔を洗え。何が「意外とやれている」のか。信じられないことに、私は二ヶ月目の情けない働きぶりをキープしたまま最終日まで走り続けたのであります。伸びしろがありませんでした。 叱られても一向に変わらないほうがむしろ難しいだろ。

まあ、まだ教えたばかりだしな。これから慣れていくよな。皿を割るのも今だけだろう。店主もはじめは内心そう思っていたはずだ。しかし、私はいつまで経っても皿を割り、注文を聞き間違え、会計にも時間が掛かり、たびたび客に多めの金額を請求し、よく熱中症で座り込み、教わったことを忘れ続けた。私が長けていたのは、店主の中に潜む元ヤンキーの血潮を呼び起こす特殊能力だった。

可愛らしいカントリー調の店で、自家製のジャムを用いた美味しいケーキを作る元ヤンキー。ほのぼのとした外観の喫茶店はいつしかアジトに、ケーキは刑期に変わった。

なぜこんなに働けないのだろう。叱られるたびに落ち込み、自宅でも練習した。私は真面目だから。紅茶の茶葉と茶漉しとアイスピックを自腹で購入し、 店主の手順を思い出しながらアイスティーを淹れてみる。味は悪くない。香りもよい。ただ、氷を砕くのは無理だった。アイスピックの先端が表面にカツンと弱々しく当たるだけ。指に障害があり、力が入らないのだ。ここまでひとりでできたら完璧なのに。仕方ない、氷だけ店主にやってもらおう。

ところが、 いざ注文が入って実践すると、茶葉やお湯の量を間違えてしまい、氷どころではなかった。「じゃあ、今日は飲み物を任せるよ」と言ってくれた店主が殺気立ちながら「交代! どいて!」と肘で押し退けた。私の真面目さが実を結ぶ機会は少ない。

喫茶店は大きな木に囲まれている。窓から射し込む光はやわらかいが、寒冷地といえども夏の暑さは年々厳しくなっている。折り返しを迎えた夏の盛り、店主が快適除湿モードの冷風に目を細め、「やせ我慢しないで早く買えばよかったな」と呟いた。窓を開け放ち、扇風機二台で夏を乗り切ってきたこの店にクーラーを取り付けるきっかけになったのは他でもない私だった。

五月の時点で熱中症を起こし、死に際の虫のように手足を痙攣させる私の姿に引いた店主が「また倒れられたら困るからね」と設置してくれた。深々と頭を下げたら、「ここで死人を出したくないだけ」と、ちょっとぶっきらぼうに言われた。いかにもアジトっぽい発言だった。そう、私がおかしな失敗さえしなければ、面倒見のよい人なのだ。当たり前のように猛暑日が続く南の地で育った店主にとって、この雪国で冷房に手を染めるのは屈辱だったらしい。「地元の友達に言ったらからかわれるよ」と妙に気にしている。ヤンキーが皆勤賞を取るような恥ずかしさだろうか。

温度設定のリモコンを「好きに使いな」と委ねられた。額に汗を滲ませながらホットコーヒーをすすっていた常連は私に感謝したほうがいい。

客がまばらになる午後二時頃、厨房の片隅に折り畳み式のテーブルを開き、店長とふたりでまかないを食べる。「パスタにする? それとも生姜焼き?」大抵二択だ。どちらも気になる。店主の料理はどれも本当に美味しい。かなり迷う。「こら、ちゃちゃっと決めてくれ」新婚のように問い掛けた人格はいつの間にか消えていた。

「あなた今日もいっぱいいっぱいだったね。もう顔がずっと必死で、見ていられない感じだったよ」と、たらこスパゲッティをフォークで巻きながら直球を投げてくる。店主の言葉はいつでも痛いところをずっしり突く。

私を一言で表すなら「おろおろ」だ。子供の頃から一貫している。自信がない。人の顔色を窺う。自分は常に何かを間違えている。曖昧ながらも張り付くような恐れがあり、縮こまってしまう。その態度がさらに相手を苛つかせる。

「だからさ、お客さんまであなたのことが心配になっちゃうんだよ。あなたを見ていると落ち着かないの。焦らずに動いて」

美味しいはずのたらこスパゲッティがずっしりと胃に残った。

八月下旬にエッセイ集の発売を控える私はゲラの最終チェックに追われていた。よりによって、なぜ本を出す時期にバイトを始めてしまったのだろう。浅はかだ。バイトを終えて帰宅すると、ぐったりして動けない。文章をまったく組み立てられない。熱中症を引き摺り、手足の痺れが引かない。ついでに、バイトが立て続けに辞めた。店主と喧嘩をした人、クビを言い渡された人、店主のことが怖くて音信不通になった人。気付けば、私がただひとりのスタッフになっていた。やばすぎるだろ。

どう考えても重要なのは書籍だ。何年もかけて書き溜めてきたのだ。バイトは私じゃなくても誰かを探せばいい。そう頭ではわかっているのに「過去のスタッフにも電話してるんだけど、明日働いてくれる人が見つからないんだ。お店を休みにするしかないのかな。用意したケーキ、もったいないけど」と泣きそうな声で言われ、「行きます」と返事をした。

子供の頃、頼みを断らない人になりたかった。目立たないけれど役に立つ。そんな人になろうとして掃除当番を代わったり、授業のノートを貸したりした。自分の存在をそのような形でしか示せなかった。気付いた時には都合のよい使い走りになっていた。この数年で、ようやく断ることを覚えたけれど、私の中に蓄積された便利屋気質は簡単に消えない。ペンキで塗り潰したはずの看板に、昔の屋号がうっすら浮かび上がる。 あり得ないミスをして怒られる未来が待っているだけなのに、新人が見つかるまで代理を務めた。

喫茶店で私が一番好きな時間は開店前の三十分。テーブル、椅子、メニュー表、ドアノブに除菌スプレーを噴霧して隅々まで拭く。カトラリーケースにペーパーナプキンを補充する。水差しにミネラルウォーターを注ぐ。カウンターの隅にあるスピーカーから、店主がその日の気分で選曲した弦楽器のインストゥルメンタルが流れる。この時間帯は店主がヤンキーに豹変することはない。朗らかな鼻歌が聴こえる。

熱湯で消毒したてのナイフやフォークを清潔な布巾で一本ずつ丁寧に拭いていく。初日は「あちっ」と声を上げて思わず床に落とし、「こらー」と睨まれた。店主は漫画のように「こら」を出す。こんなにはっきり口にする人にあまり遭遇しないから新鮮だった。ちなみに、この「こらー」は、しょうがねえなという許容範囲。オーダーが立て込む中で私がやらかすと、段階に応じた「こら」が聞ける。

寸胴ぐつぐつ、換気扇ごうごう。スピーカーからウクレレ。あつあつのナイフとフォーク。この時間がずっと続けばいいのにと思う。

「お客さんが来なきゃやっていけないんだけど、来なければいいなあと思いながら下ごしらえをしているんだ」

コーンポタージュを煮込んでいた店主が呟く。どうやら同じことを考えていたらしい。

「作るのは楽しいんだよ。でもお客さんが次から次へと来ると余裕なくなってピリピリしてくるんだ。たぶん、こういう仕事向いてないんだろうね。いつも八つ当たりして悪いと思ってる」

思わぬ打ち明け話に目頭がぽっと熱を持つ。どうして私はいつまで経ってもこの人の役に立てないのだろう。よかれと思って動いても、なぜ裏目に出てしまうのだろう。頼りないし、指が変な形に曲がっていて物をうまく掴めないけれど、その日の片腕になりたいのに。いつも帰り道に落ち込んでいた。あれは八つ当たりだったのか。そう考えたら腑に落ちた。

身に覚えのある感情だった。母の怒りに似ているのだ。薄っすらと感じていたものが繋がった。パートの傍ら、家事や育児をひとりでこなしていた母は心に余裕がなく、長女の私にひどい言葉で当たり散らした。たびたび手も出た。どう振る舞っても母の気に障り、同じ結果となる。私の何がいけなかったのだろう。幼い頃はわからなかった。今は痛みと懐かしさと母への同情が、寸胴の中のスープのように混ざり合っている。

「大丈夫です。いつものままやってください」

私には他の人よりも免疫があったのだろう。

一組目の客のパスタを茹でる頃には店主の目がすでに闘争の色を帯び、「ったく、こら。サラダ の準備まだ?」に始まり、巻き舌でドスを利かせた「ヌおい、こヌら」まで、「こら」の進化を過去一の早さで浴びた。さっきの一言を取り消したかった 。この店で働ける強者を見つけないと、来シーズンもきっと呼ばれる。何ひとつ「大丈夫」なんかじゃない。

筆者について

こだま

エッセイスト、作家。デビュー作『夫のちんぽが入らない』でYahoo!検索大賞を2年連続で受賞(第3回、第4回)、『ここは、おしまいの地』は第34回講談社エッセイ賞を受賞。ほか『いまだ、おしまいの地』、『縁もゆかりもあったのだ』など。

  1. 第1回 : 父の終活
  2. 第2回 : 直角くん
  3. 第3回 : あの時の私です
  4. 第4回 : ぺら草
  5. 第5回 : ほのぼの喫茶店
  6. 第6回 : 私の特殊能力
  7. 第7回 : せいちゃんの下北沢
  8. 第8回 : 父と母の文明開化
  9. 第8回 : 新規ファンの斉藤
  10. 第9回 : 新規ファン斉藤、再び
連載「おしまい定期便」
  1. 第1回 : 父の終活
  2. 第2回 : 直角くん
  3. 第3回 : あの時の私です
  4. 第4回 : ぺら草
  5. 第5回 : ほのぼの喫茶店
  6. 第6回 : 私の特殊能力
  7. 第7回 : せいちゃんの下北沢
  8. 第8回 : 父と母の文明開化
  9. 第8回 : 新規ファンの斉藤
  10. 第9回 : 新規ファン斉藤、再び
  11. 連載「おしまい定期便」記事一覧
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