おしまい定期便
第10回

祖父母の銭湯を求めて

暮らし
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大自然に囲まれ、娯楽も何もない“おしまいの地”に生まれ育ったこだまさん。大好評「おしまいの地」シリーズの不定期連載。こだまさんの周りで起こる悲喜こもごもの不思議な出来事をお届けします。今回は、戦時下の東京を生きた、こだまさんのおばあさんの足跡を追う旅です。

 銭湯が好きだ。知らない街を歩いていて突如それらしき煙突が目に入ると思わず見に行ってしまう。昔ながらの外観を残し、ほんのりとした灯りの下で「ゆ」の暖簾が揺れていると「百点だ」と身震いする。年季が入っているほどいい。便利でも、綺麗でもなくていい。銭湯という存在、建物そのものへの憧れが強い。

 きっかけは寝る前に祖母が布団の中でよく聞かせてくれた思い出話だ。祖父母は昭和十年代まで東京で銭湯を経営していたらしい。戦争で辺り一面が火の海になり、銭湯の煙突も倒れた。熱風から逃れるように近くの川に飛び込む人が相次ぎ、翌朝にはたくさんの死体が浮いていた。その光景を目の当たりにした祖父母は長男と生まれたばかりの長女を抱きかかえ、祖母の姉が暮らす北の地へ疎開したという。小学生だった私は図書室でおそるおそる開いた『はだしのゲン』を頭の中で思い浮かべながら聞いた。

 同時に、祖母の口から「東京」「荒川」「番台」といった単語が滑らかに出てくることが奇妙でならなかった。私の知る祖母は薄汚れた手拭いを頬被りし、クワを振り上げて畑を耕す。秋に大根やじゃがいもなどを収穫する。冬になると雪を掘り起こし、土の中に貯蔵しておいた人参や牛蒡を取り出す。腰を折り曲げて懸命に土をかき分ける祖母の後ろ姿は、埋めたどんぐりを探すリスそっくりだった。四季の変化に合わせて野良仕事をする祖母に東京での暮らしがあったなんて、にわかに信じられなかった。この辺境の地から一歩も出たことがないくらい畑と同化している人だった。

 ちなみに祖父は私が保育園の頃に亡くなった。記憶に残っていない。祖父は祖母より二十以上も年上で、再婚だった。先妻との間に子が授からず、互いに四十を過ぎてから男児を養子に迎えた。だが、それから間もなく先妻を病で亡くし、子供の世話に困った祖父は銭湯の従業員だった十代の祖母に「面倒を見てほしい」と求婚したという。最悪だ。子供だけでなく俺の世話も頼む、という意味だろう。先妻を亡くして一年も経っていなかった。そういう時代だったのかもしれないが、嫌なじじいである。

 祖母が求婚を受け入れたのは理由があった。祖母は右手の三本の指先が、すとんと欠けていた。幼い頃に奉公先の工場で誤って切断してしまったのだ。私はそのごつごつした爪のない四角い指先が好きだったが、祖母は障害のある右手の上に左手を重ねたり、頬被りしていた手拭いを被せたりして隠していた。

 四角く短い指で針仕事も料理も器用にこなしたが、自分は人並みの人生を送ることはないだろうと覚悟していたらしい。結婚も当然あきらめていた。だから、再婚だろうと、二十以上離れていようと、求婚の理由がなんであろうと祖母は嬉しかったという。疎開後に祖父の不注意で自宅が全焼し、お金も東京から運んだ荷物もすべて灰になってしまった。荒地を耕すしか生きる道はないのに、祖父は力仕事を嫌がった。彼は東京を離れてすっかり無気力になり、代わりに祖母が幼い子を背負って開墾したらしい。祖母は畑でひとり泣いていたという。自身に引け目があり、言いたいことも言えなかったのだろう。聞けば聞くほどくそじじいである。移住後の苦労が度を越していたせいか、祖母は銭湯を営んでいた時代に思い入れがあるようだった。

 旅先で銭湯を目にするたび、あんな感じだったのかもしれない、と写真も存在した証拠もない祖父母の銭湯に思いを馳せた。間接的だけど、私には銭湯と特別な縁がある。その思い込みは行く先々の景色を色濃くし、まだ見ぬ銭湯への憧ればかりが膨らんでいった。

 せめて銭湯の名前だけでも聞いておくべきだった。祖母や養子の伯父が亡くなり、昨年とうとう父も病死した。戦時中に生まれた伯母は何年も前から寝たきりで会話ができない。当時を知る親族がひとりもいなくなった。

 手がかりを失った銭湯は、私の中でますます神聖化した。もう特定は無理だろうとあきらめていた矢先、ひょんなことから祖父母が昭和十九年まで住んでいた都内の住所がわかった。父の死後、諸々の手続きを進める過程で祖父の戸籍の写しが手に入ったのだ。そこには祖父の本籍、先妻の入籍と除籍、養子縁組、祖母の入籍、長女の誕生などが記されていた。いくつかの住所が書いてあるが、行間の詰まった手書きの旧字体は読み取りが難しい。かろうじて読めたのが昭和十九年、江戸川区逆井〇丁目△番地。おそらく家族が最後に住んだ地である。これは旧住所で、現在の平井〇丁目に該当する。番地は新旧住所対照表によると、百から二百メートル圏内がざっくりとわかる程度で、特定は難しそうだった。

 八月、お世話になっている編集者Tさんの案内で国立国会図書館へ行った。もっと詳しい古地図を探し、ピンポイントで銭湯の跡地を見つけたい。昭和二十年代の地図ならある。でも一番知りたい昭和十年代後半のものは見つけられなかった。住所の特定はあきらめ、祖父母の住まいが含まれる平井や逆井地区の戦災資料を読んだ。大空襲の猛火に包まれ、一帯がほぼ焼失するほど甚大な被害を受けたという。逃げ場を失い川に飛び込んで命を落とす者が多数いたという生々しい記述も祖母の話の通りだった。Tさんは東京都浴場組合に加盟する銭湯の知り合いを通じて祖父の名と一致する経営者がいないか調べてくださったが、組合が設立された昭和二十三年にはすでに東京を去っていること、屋号も不明というほぼ手がかりゼロの状態のため、残念ながら見つからなかった。かなり無謀だ。忙しい人たちを巻き込んで私は何をやっているのか。申し訳ない。本当にありがとう。ここまで手を尽くしてもらったのだから絶対見つけよう。あきらめるどころか、さらに火がついた。こうなったら現地に行ってみよう。

 十二月半ば、私は葛飾区南部の新小岩駅で降りた。この付近で祖父は生まれ、親族も多く住んでいたらしい。宿に大きな荷物を置いて、ノートとペン、そして使い切りのシャンプーや洗顔料、タオルをリュックに突っ込み、また駅に戻る。すでに十九時をまわっていた。駅の連絡通路「スカイデッキたつみ」は青いイルミネーションで彩られていた。検索すると「スカイデッキという名前については少し盛りすぎな感じがしました。便利は便利です」と冷静なクチコミが投稿されていた。

 新小岩から一駅の平井に向かう。電車の窓から中川と荒川の間を並走する首都高が見えた。等間隔の橙色の照明が暗い水面に浮かんでいた。平井駅南口から飲食チェーン店が並ぶビルを抜けると、どこか懐かしさを感じる商店街が続いている。雪の結晶を模した青白い電飾が頭上に輝いている。リュックひとつの身軽になった私は、この街のひとりになれたような軽い足取りで進んでゆく。焼肉や焼き鳥の甘いたれのにおいがする。老舗の店構えの中華料理屋もある。お腹が空いていた。かなり惹かれるが、今夜の目的は銭湯だった。

 祖父母の生活圏だったと思われる地図上に一軒の気になる銭湯があった。銭湯めぐりのサイトには戦後まもなく、この地で創業と書いてある。ここへ行けば何かわかるのではないか。確信はないけれど、行ってみたかった。街並みをこの目で見てみたかった。

 商店街から一歩脇に入ると狭い道を挟んで住宅が連なっていた。それぞれの家に明かりは点いているが、とても静かだ。本当にこの道で合っているのか。不安になりながら進むと、目の前に見覚えのある風景が広がった。ストリートビューで何度も確認した辰巳湯だ。ビルの一階が銭湯になっており、住宅街に溶け込むように存在していた。電柱と自販機と店内のほのかな灯りに照らされ、白い壁がうっすらと浮き立っている。地図を読めず、必ず道に迷う私が、暗い中、時間が限られている中、ちゃんとひとりで辿り着けた。それだけで目的の半分は達成した。

 番台に座る女性に五百二十円を払い、昂った勢いのまま話しかけた。私の祖父が昔このあたりで銭湯を経営していたんです。昭和十九年頃までやっていたと思います。でも銭湯の名前も、正確な場所もわからなくて、ここへ来たら当時のことが何かわかるかもしれないと思い、それで、それで。とりとめもなく言葉が溢れてくる。うわ、あっ、すみません、急に、こんな、うわあ、どうしよ。途中から意味不明の独り言になり、気恥ずかしさが押し寄せた。見ず知らずの人間がいっぱい喋って薄気味悪いよ。こんなの怪しいよ。もう黙って風呂に入ったほうがいいよ。そう思ったけれど、女性スタッフは私を拒否せず、にこやかに相槌を打ち「もうすぐ義母と交代の時間なので何かわかるかもしれません」とロビーで待たせてくれた。彼女は三代目夫人で、やがて入れ替わるように二代目夫人がやって来た。

 二代目夫人も同じように「あらそうなの」「まあ」と不審がらずに耳を傾けてくれた。終戦を迎えたのは彼女が小学生の時で、この辺りは焼け野原だったという。辰巳湯は先代が昭和二十七年に創業したそうで、同業者といっても十九年にこの地を離れた祖父母とは年代が離れている。つながりは望めそうになかった。でも、ありがたい情報をもらった。近くの小松川図書館に行けば、この地域の昔の地図があるかもしれない。二十一時半まで開館しているという。時計を見ると二十時。まだ間に合う。

「今から行ってきます。調べたらお風呂入りに戻ってきます」と駆け出そうとした私を彼女は引き止め、「もし間に合わなかったら困るから」と支払った代金を一旦返してくれた。どこまで親切にしてくださるのだろう。「いってきまーす」と、まるで我が家のように辰巳湯を飛び出した。二代目夫人の「あっちのほう」と指さした方角を頼りに進むと、金網に囲まれた真っ暗な土地に行く手を阻まれた。テニスコートやサッカーゴールがある。高校のグラウンドらしい。

 その金網に沿って歩いて行くと小松川図書館に辿り着いた。むかし通っていた学校のような佇まいだ。カウンターのスタッフに「昭和十八年か十九年頃の平井〇丁目の地図はありますか」と尋ねた。知りたいことだけ具体的に詰めた。このようなリクエストが叶うのだろうか。半信半疑で待っていると、地区の郷土史を探し出してくれた。東京大空襲で焼けた旧小松川・逆井・平井地区の復元図のページに付箋が貼られている。空襲前の街並みを残そうと有志が十年がかりで地図の空白を埋めたもので、民家のほか、養鶏場、金魚池、フェルト工場、ガラス工場などが細かく書き込まれていた。銭湯も複数ある。興奮した。私が探していた地図だ。すごいよ。辰巳湯さん、小松川図書館のみなさん。

 復元図を凝視する。私はひそかに目印にしている建物があった。その数十メートル圏内ではないかと予想していた。同じ道がある。交差点もある。一軒ずつ民家を指で追っていく。すると、目印の建物のすぐ横に祖父母と同じ姓があった。ありふれた苗字だけど、周辺に同じものはない。銭湯としては記録されていないが、祖父母の家はここで間違いない。地図をコピーさせてもらい、深々と頭を下げて外に飛び出した。

 わかる。これでわかる。先ほどの金網に沿って走る。この辺りだろうか。顔を上げると、目の前に真新しい住宅が建っていた。笑えるくらいお洒落な造りだ。銭湯は別の場所でやっていたのだろうか。確かなのは、ここに祖父と祖母のささやかな暮らしがあったということだ。私はその都会的な住宅の前を不審者のごとく行ったり来たりしながら眺めた。

 この喜びを早く伝えなきゃ。薄暗い静かな道を全力で走った。つい一時間前に初めて会ったばかりなのに、前からの知り合いのような、図々しくも親戚のような気持ちを抱いてしまっている。

「ただいま戻りました! ちゃんと地図に名前が載っていました!」

 我が家のように辰巳湯に帰る。二代目夫人も一緒に喜び「ご自身のルーツを調べているのね」と微笑んだ。その瞬間、なぜだか急に恥ずかしさが込み上げ、冷静になった。

 何をむきになって調べているのだろう。誰に頼まれているわけでもないのに。わからなかったとて生活に支障なんてないのに。辰巳湯の清潔感ある湯船を独り占めしながら考えた。冷えた身体に少し熱めのお湯が心地いい。深い浴槽に首まですっぽり浸かっていると、細かいことはいいじゃないかとだんだん思えてきた。ただ知りたいだけ。これまで意識したことのない遠く離れた土地に思わぬ縁があるという事実が面白いだけ。こうなったら銭湯の名前も知りたいよな。もし写真が残っていたら泣いてしまうな。この先も調べよう。帰り際「何かわからないことがあったらいつでも電話してくださいね」と二代目夫人がやさしく声を掛けてくれた。商店街を抜けて再びこの銭湯に向かう姿がすんなりと目に浮かんだ。

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筆者について

こだま

エッセイスト、作家。デビュー作『夫のちんぽが入らない』でYahoo!検索大賞を2年連続で受賞(第3回、第4回)、『ここは、おしまいの地』は第34回講談社エッセイ賞を受賞。ほか『いまだ、おしまいの地』、『縁もゆかりもあったのだ』など。

  1. 第1回 : 父の終活
  2. 第2回 : 直角くん
  3. 第3回 : あの時の私です
  4. 第4回 : ぺら草
  5. 第5回 : ほのぼの喫茶店
  6. 第6回 : 私の特殊能力
  7. 第7回 : せいちゃんの下北沢
  8. 第8回 : 父と母の文明開化
  9. 第8回 : 新規ファンの斉藤
  10. 第9回 : 新規ファン斉藤、再び
  11. 第10回 : 祖父母の銭湯を求めて
  12. 第11回 : 春の副産物
  13. 第12回 : 一周忌という名の祭典
  14. 第13回 : ルンバ地獄とケチおじさん
連載「おしまい定期便」
  1. 第1回 : 父の終活
  2. 第2回 : 直角くん
  3. 第3回 : あの時の私です
  4. 第4回 : ぺら草
  5. 第5回 : ほのぼの喫茶店
  6. 第6回 : 私の特殊能力
  7. 第7回 : せいちゃんの下北沢
  8. 第8回 : 父と母の文明開化
  9. 第8回 : 新規ファンの斉藤
  10. 第9回 : 新規ファン斉藤、再び
  11. 第10回 : 祖父母の銭湯を求めて
  12. 第11回 : 春の副産物
  13. 第12回 : 一周忌という名の祭典
  14. 第13回 : ルンバ地獄とケチおじさん
  15. 連載「おしまい定期便」記事一覧
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