自分を捨てる旅
第12回

いきなり現れた白い砂浜

暮らし
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譲り受けた割引きっぷを手に、行き先のことも調べず、平日、日帰りの旅に出た。何か美味しいものを食べるぐらいしか目的がない。行き当たりばったり、そのときの気分と人との会話だけを頼りの旅で食べて、見て、思ったこと。

「いや、今日はここじゃない」

友人からきっぷをもらった。和歌山の白浜行きのきっぷだ。

私が以前それを使って尾道に行ったり博多に行ったりした「サイコロきっぷ(行き先がランダムで決まるJR西日本の割引きっぷ)」を友人も買って、それで白浜駅行きが当たった。しかし友人は事情があって使用期限内に白浜に行くことができなくなってしまったらしい。「使わないんですけど、いりますか?」と私に声がかかり、譲り受けることになったのだった(調べてみたところ譲渡しても問題ないきっぷだった)。

で、譲ってもらったはいいが、使える期限が間近だったので焦った。そんなときに限って予定が詰まっている。平日に日帰りでならなんとか行けそうだったので、せっかくだし宿も取ってゆっくりしたかったなとも思いつつ、とにかく出発することにした。

午前10時過ぎに新大阪駅を出る特急「くろしお」号に乗る。大阪の南部から紀伊半島の左端を南へ南へと進み、反時計回りにぐるりと入り込んだあたりが白浜で、新大阪駅から2時間半ほどかかる。

「くろしお」号に乗って白浜駅を目指す

うとうとしていると、車内アナウンスが流れて目が覚めた。「まもなく窓からは太平洋の青い海をご覧いただけます」という。こういう車内放送が好きだ。町のなかを忙しく走る電車にはない、どこかのんびりしたムード。旅気分が高まって嬉しくなると同時に、何か重大なトラブルが発生してこの電車に慌てて乗った人もいて、それどころじゃない気分でこの案内を聞いていたりするのかもしれないと、ふと思う。

車窓からの海はまばゆかった

13時少し前に白浜駅に到着した。平日だったが思った以上に白浜駅で降りる人はたくさんいて、見たところ、3人とか4人とかで旅行をしに来たらしきグループが多いようだった。みんな目的地が決まっているのか、駅の改札を出ると真っすぐにバス乗り場へ向かって歩いて行く。旅館の送迎車が何台か駅前で待ち受けていて、それに乗っていく人もいる。

それらの人々が流れるような勢いで去っていくと、駅前は急にひっそりとする。白浜というと和歌山県内の観光地としては有名で、温泉があったり、レジャー施設があったりするのだが、そのイメージに反して駅周辺は静かである。たとえば熱海の駅前のように、土産物屋が立ち並ぶような古い商店街があったりするわけではない。

JR白浜駅前は静かな雰囲気

喫茶店など、飲食できる場所もないではなかったが、もう少しいろいろ探したい。日帰りの旅となれば、重要なのがどこで何を食べるかである。というか、特に行く先も決めずに来てしまったので、何か美味しいものを食べるぐらいしか目的がないのである。

どうしたものか……と悩んでいると、駅前のバス停に新しいバスがやってきた。車体の側面にいくつかの行き先が表示されている中に「とれとれ市場」とある。その名前には覚えがあった。和歌山県内の特産品があれこれ並ぶ巨大なショッピング施設で、かつて友人の運転する車に乗って和歌山県内をめぐった際に立ち寄ったのだった。その賑やかな雰囲気を思い出し、あまり深く考えずにバスに乗り込んだ。とりあえず、あそこに行けば美味しいものには事欠かないはず。乗ってみると、5分ほどで到着。

和歌山の名産がなんでも揃う「とれとれ市場」

そうだそうだ。こんな場所だった。入口前の屋外スペースにも軽食を売るブースがあり、海産物を網で焼いて食べられるバーベキューコーナーもある。また、店内にもフードコートがあり、海鮮丼などが名物らしかった。昼どきということもあって、長い列ができている。一度はその列に並びかけ、「いや、今日はここじゃない」と思った。

美味しいものがいくらでもありそうな「とれとれ市場」だが……

「いや、ここで勝負だ!」と引き返した

私はその数日前、大阪で開催された久住昌之さんのトークイベントに、僭越ながら“聞き手”として参加させてもらっていた。久住さんの『勝負の店』という本の発売を記念してのイベントで、久住さんは、近所や旅先でどんなことを考えて入る店を選ぶか、そこでどんな体験をしたかを、たくさんの写真をスクリーンに映し出しながら話してくれた。

本の内容もまさにそういったもので、グルメ情報サイトなどで調べるのではなく、自分の足で探した店の前に立ち止まって「入るのか?」「やめるのか?」と思案し、勘だけを頼りにドアを開く。そうやって入った店で美味しいものが食べられたときの感動が、鮮やかに切り取られている。

そんな本を読み、実際に久住さんが『勝負の店』を探し歩く楽しみについて語っているのを横で聞いたものだから、私のなかには「勝負」の心が宿っているのである。「とれとれ市場」で食べるものが美味しいのはもうわかっている。大勢の人が並んでいることからも明白である。しかし、今日の私はもっと勝負に出たいのだ。そう思い、せっかくバスに乗ってやってきた「とれとれ市場」をすぐに出ることにした。

さっき降りたバスが走っていった先を目指して歩いてみることにする。さっきのバスの行き先から察するに、その道路沿いをずっと歩いていけば海に近づくはずだった。海が見られるならそれだけで嬉しいし、途中にいい店が見つかるかもしれない。

天気のいい日でよかったな

しばらく歩いていると、赤いのれんを下げた店が見えてきた。「中華そば めん吉」とある。駅から離れた場所にポツンとある店。こだわりのある店かもしれない。「いい店見つけた!」と思って近づいていったが、「準備中」の札が。悔しい。

美味しそうな予感がした「中華そば めん吉」

その「めん吉」のすぐそばに「長生の湯」という入浴施設があって、こっちは営業しているようだった。ここでお風呂に入っていくのもいいなと一瞬思ったがしかし、のんびりしていると昼時を逃してしまい、ますます窮地に追い込まれかねない。今は諦めることにして、でも後ろ髪を引かれてチラッと中を覗いたら、受付の貼り紙に「温泉玉子1個90円」と書いてあるのが見えた。入浴は諦めるにしても、温泉玉子まで諦めることはない。「お風呂には入らないんですけどいいですか?」とひとつ買い、歩きながら食べることにする。

玉子を手に、道を行く

縁石の角にぶつけて殻を割ってみてやっと気づいたのだが、温泉玉子ってこう、白身がぷるぷるで、黄身がとろけるようにレアな状態だ。私は硬めのゆで玉子をほうばりながら歩いていくイメージで購入したのだが、そういう風にはいかなかった。受付の方はプラスチックのスプーンをつけてくれたのだが、歩きながらではそれがなかなか上手に扱えず、割った殻の隙間に口をつけて中身を吸引するしかなかった。

そんな私の横を何台もの車が通り過ぎていく。味の濃い、美味しい玉子だったが、手がベタベタになってしまったので、とりあえず勝負には負けた気分である。

その後も何軒かの店を見つけたが、時刻はもう14時を過ぎており、昼休みに入ってしまったのか、どこも閉まっていた。

勝負を挑みたくなる店だったが閉まっている

「とれとれ市場」を出て40分ほどが経ち、私はどうやら海の近くまで来たようだった。空が広くなり、空気が変わったのがわかる。すると通り沿いに店が一気に増えた。「ルナ」という喫茶店があって、一度その前を通り過ぎ、「いや、ここで勝負だ!」と引き返して、入った。

昼時を過ぎても営業していたありがたい「ルナ」

窓から日差しが入って明るい喫茶店で、テレビに映ったワイドショーを、先客とお店の方がじっと見ていた。メニューの中から「カレー」を選ぶ。

いいカレーだ

うんうん。甘くてコクがあって、なめらかな、いいカレーだ。正直なところ、途中まったくお店が見つからない時間が続いたし、そもそもランチのタイミングを逃しかけていたこともあって、ちょっと不安だった。このカレーを食べて気持ちが落ち着いた。自分なりに勝負して、美味しい食事ができた喜びをカレーと一緒に味わう。

日本に数か所ある海中展望塔へ

店を出て少し歩くといきなり目の前に白い砂浜が現れた。びっくりして声が出た。本当に真っ白で、美しい。「だから白浜なのか」とやっとわかった。

こんな美しい海とは

すぐそばに売店があったので入ってみる。よし、缶ビールがある。1缶購入すると、お店の方が「今日はいい天気でよかったですねぇ」と声をかけてくれた。立ち話をすると、すぐ近くに「崎の湯」という露天風呂があって有名なのだとか。方向を聞くと、一緒に店の外に出て教えてくれる。「ほら、あの左のほうに建物が見えるでしょう。あそこですよ」と。

いきなり最高になった

ゆっくりと、教わったほうへ歩く。海辺の景色は私にとってはどこを向いても特別で、でも、ここに暮らしている人にとっては日常の舞台なのだ。「奉納 山神社」と書いた大きなのぼりを立てているのも地元の方々だろうか。

「山神社」は「温泉神社」という別名でも呼ばれるらしい

「崎の湯」の受付にたどり着いた。過去に撮影マナーのトラブルがあったそうで、スマートフォンはロッカーに預けてから脱衣所に入るルール。

「崎の湯」入り口前の様子

服を脱いで入ってみると、というか、完全に露天のお風呂だから「入る」というか外に「出る」という感じなのだが、「これは写真に撮りたくもなるよな」と思う、絶景だった。ごつごつした岩肌がそのまま生かされた湯舟のすぐ目の前まで、海の波が迫っている。

案内板にあった写真。こんな感じのお風呂だった

硫黄の香りの濃いお湯が、じわじわと肌に染み入ってくるように感じる。入浴している数人は、私を含めみんな海か空かをぼーっと見つめている。湯口から遠い場所のお湯はぬるめなので、いつまででも浸かっていられそうである。打ち寄せる波を見て、遠くの山並みを見て、また目の前の海を見て、こんなにすごい場所に、ふらっと来れたことの幸せをしみじみ実感する。

再び服を着て歩き出し、さっき湯舟に浸かりながら見た、不思議な形の建物のほうへと歩いてみることにした。海に伸びた突堤の先に円盤状の建造物があって、おそらくそれは古い海中展望塔のようだった。海中に建った塔を下へと降りていくとガラス窓から海の中をのぞくことができるような、海中展望塔とはそんな施設のことである。日本に数か所あると聞いてはいたが、ここにもあったのだな。

円盤状の建物が海中展望塔だ

遠目からでも建物としての年季を感じ、失礼ながら勝手に廃墟だと思っていたのだが、近づいてみると、営業中である旨を知らせる案内板が見えた。「ホテルシーモア」という宿泊施設の一部で、宿泊者でなくても、料金を支払えば入場できるという。「南紀白浜海中展望塔コーラルプリンセス」というのが正式名称らしい。

どこか現実離れした光景

螺旋階段を下っていくと、青い空間に出た。円筒状の建物の外側にいくつも丸い窓があって、そこから海の青い光が差し込んでいる。窓の周りや柱には今までここを訪れた人たちが落書きしていった文字がたくさん残っていて、でも今は静かだ。

波のゴウゴウという音だけが響く空間
ハコフグが泳いでいるのが見えた

少し曇った視界の先に魚影を探すのも楽しかったが、首をひねるようにして海底から海面のほうを見上げると、空から注ぐ太陽の光がゆらゆらと揺れて、それがなんとも美しかった。

こういう時間がたまにあって、自分はそれに支えられて生きている

しばらくその不思議な光景を味わい、来た道を引き返した。遅いお昼ご飯を食べた喫茶店「ルナ」の近くに「長久酒場」という店があって、その佇まいが気になっていたのだった。また来てみると、先ほどはしまわれていたのれんが、今はぶら下がっている。

勝負したくなる店

店に入り、生ビールをいただきつつメニューを見てみると、「ウツボ」というのがあって、「当店焼き物ナンバーワンメニューです」と書いてある。ウツボってあのウツボだろうか。気になる。カウンターに何台も置かれている小型の焼き網で炙って食べるらしい。それと、今日のおすすめだという「ヒラメの刺身」をいただくことにする。運ばれてきたお刺身がとても美しく、今日はなんだかやけに美しいものばかり見ていると思った。

とんでもなく新鮮な味わいの「ヒラメの刺身」

そして、焼き網で自分で焼く「ウツボ」。これもたまらない。皮をカリカリに焼くぐらいが美味しいのが、やっているうちにだんだんわかってくる。

「長久酒場」名物の「ウツボ」
和歌山といえばと思って飲んだ梅酒も美味しかった

帰りの時間があるのであまり飲んでいられないのが残念だ。「今度は絶対にゆっくりしよう」と思いつつ、店を出て驚く。いつしか夕暮れが迫っていて、空が恐ろしくなるほど鮮やかな色に染まっているではないか。海まで走っていく。

すごい景色だ

温泉に入って、海中をのぞき、美味しいお酒を飲んで店を出たらこの空と海だ。今日の自分は恵まれている。こういう時間がたまにあって、自分はそれに支えられて生きている。ピンクとオレンジの間ぐらいの色合いの夕日が波に映っているのを見て、そう思う。

来てよかった

ぼーっと海を見ていたらだいぶ時間が経っていた。急いで通りに戻り、ちょうどよく来たバスに乗って「とれとれ市場」まで戻る。梅干しだの梅酒だの、地の野菜だのをあれこれと自分のお土産用に買い込んで、いきなり荷物が重くなった。

再びバスに乗って白浜駅に戻り、ベンチに座って帰りの電車が来るのを待つ。時間を持て余してスマートフォンをポケットから取り出し今日撮った写真を見返してみる。夕暮れの海で撮った写真があまりに大量で、そのどれもがだいたい同じなので笑える。しかしあのときは、どれだけ撮っても足りない気がしたのだ。

夜の白浜駅前のムード
駅前の売店の包装紙が可愛かった

「くろしお」号に乗って、駅前の売店で買った梅酒を飲みながら帰る。だいぶ長く海を眺めていたからか、それから数日の間、波の音が脳裏に残っているような気がし続けていた。

* * * 

スズキナオ『自分を捨てる旅』次回第13回は、2023年1月20日(金)17時配信予定です。

筆者について

スズキナオ

1979年東京生まれ、大阪在住のフリーライター。WEBサイト『デイリーポータルZ』、『集英社新書プラス』、月刊誌『小説新潮』などを中心に執筆中。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』、『酒ともやしと横になる私』、『関西酒場のろのろ日記』、『遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ』、『「それから」の大阪』、パリッコとの共著に『酒の穴』、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』、『“よむ”お酒』、『のみタイム 1杯目 家飲みを楽しむ100のアイデア』がある。

  1. 第1回 : 蔵前のマクドナルドから
  2. 第2回 : 上を向いて有馬温泉を歩く
  3. 第3回 : つながっている向こうの場所で
  4. 第4回 : 敦賀の砂浜で寝転ぶ
  5. 第5回 : 家から歩いて5分の旅館に泊まる
  6. 第6回 : 煙突の先の煙を眺めた日
  7. 第7回 : 犬鳴山のお利口な犬と猫
  8. 第8回 : 暑い尾道で魚の骨をしゃぶる
  9. 第9回 : 湖の向こうに稲光を見た
  10. 第10回 : 枝豆とミニトマトと中華そばと
  11. 第11回 : あのとき、できなかったこと
  12. 第12回 : いきなり現れた白い砂浜
  13. 第13回 : 予備校の先まで歩くときがくる
  14. 第14回 : “同行二人”を思いながら野川を歩く
  15. 第15回 : 米子、怠惰への賛歌
  16. 第16回 : 生きなきゃいけない熊本
  17. 第17回 : 和歌山と姫路、近いけど知らないことばかりの町
  18. 第18回 : 幸福な四ツ手網小屋と眠れない私
  19. 第19回 : 熱海 夜の先の温泉玉子
  20. 第20回 : 今日もどこかでクソ面倒な仕事を
  21. 第21回 : 海を渡って刺し盛りを食べる
  22. 第22回 : 城崎温泉の帰りに読んだ『城の崎にて』
  23. 第23回 : 寝過ごした友人がたどり着いた野洲駅へ、あえて行く
  24. 最終回 : 秩父で同じ鳥に会う
連載「自分を捨てる旅」
  1. 第1回 : 蔵前のマクドナルドから
  2. 第2回 : 上を向いて有馬温泉を歩く
  3. 第3回 : つながっている向こうの場所で
  4. 第4回 : 敦賀の砂浜で寝転ぶ
  5. 第5回 : 家から歩いて5分の旅館に泊まる
  6. 第6回 : 煙突の先の煙を眺めた日
  7. 第7回 : 犬鳴山のお利口な犬と猫
  8. 第8回 : 暑い尾道で魚の骨をしゃぶる
  9. 第9回 : 湖の向こうに稲光を見た
  10. 第10回 : 枝豆とミニトマトと中華そばと
  11. 第11回 : あのとき、できなかったこと
  12. 第12回 : いきなり現れた白い砂浜
  13. 第13回 : 予備校の先まで歩くときがくる
  14. 第14回 : “同行二人”を思いながら野川を歩く
  15. 第15回 : 米子、怠惰への賛歌
  16. 第16回 : 生きなきゃいけない熊本
  17. 第17回 : 和歌山と姫路、近いけど知らないことばかりの町
  18. 第18回 : 幸福な四ツ手網小屋と眠れない私
  19. 第19回 : 熱海 夜の先の温泉玉子
  20. 第20回 : 今日もどこかでクソ面倒な仕事を
  21. 第21回 : 海を渡って刺し盛りを食べる
  22. 第22回 : 城崎温泉の帰りに読んだ『城の崎にて』
  23. 第23回 : 寝過ごした友人がたどり着いた野洲駅へ、あえて行く
  24. 最終回 : 秩父で同じ鳥に会う
  25. 連載「自分を捨てる旅」記事一覧
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