8年ほど前に大阪に移り住むまで、私は東京の千川という町に住んでいた。地下鉄の有楽町線で池袋から2駅。池袋の西口あたりからなら歩いても20分ちょっとの距離で、どこかの町で終電ギリギリまで酒を飲んでも、とにかく池袋駅まで帰れればそこから徒歩で帰宅できた。家までの途上には遅くまで営業しているラーメン店が多く、そこについつい立ち寄ってしまうのには困ったが、それはもちろん私が悪いだけである。
ひとりでは生きていけない存在が目の前にいる
20代の半ばから30代の半ばまでを過ごすことになったその千川のアパートの部屋を見つけてきたのは妻だった。妻の友人が千川に住んでいて、繁華街からそれほど遠くないのに静かで暮らしやすいと教えてくれたそうだ。ある日、妻がその友人の家に遊びに行かせてもらい、一緒に近所を散策したところ、町の雰囲気がすぐに気に入ったらしい。妻はすぐに駅前の不動産屋を訪ね、いくつかの物件を紹介された。そのうちのひとつが私たちが住むことになる部屋だった。
私は千川がどんな町だかすらよくわかっていなかったが、妻はもうその部屋に住むことに決めていたらしかったので、それに従うことにした。駅から遠くないアパートの2階で、家賃の価格帯にしては部屋数も多いからお互いに自分の部屋も作れるというのを聞いて、それならいいかと思った。
実際、それまで私がひとり暮らしをしていた物件に比べてだいぶ広く、自分の部屋に組み立て式の本棚をいくつか設置し、そこに好きな本をずらっと並べられたのには喜びを感じた。千川の町は、駅前にチェーンの飲食店が少しあるぐらいで、あとはいわゆる閑静な住宅街が広がっているばかりだったから最初はちょっと退屈に感じたが、住めば住むほどその落ち着いた雰囲気が好きになっていった。

「妻が」「妻が」と書いているが、千川で暮らし始めた頃、私たちはまだ結婚していなかった。物であふれた自分の部屋から逃げ出すようにして向こうの部屋に入り浸ってばかりいた私を見かね、結婚を前提に同棲しようということになり、それで一緒に暮らし始めたのであった。千川で過ごした10年近くは、結婚して、子供が生まれて、と、自分の設定条件がどんどん更新されていくような時間でもあった。
結婚のほうは、籍を入れたからといって特に生活が変わるわけでもなかったが、子供が生まれたのは大きかった。できる限り競争を避け、軟体動物のようにふにゃふにゃと生き、人の恩情にすがってなんとかやってきたような自分が、現実の厳しさを突きつけられた経験だった。
仕事に関しては「嫌になったらいつでも転職すればいい」と、常に逃げ道を用意していられたが、子育てはそうはいかない。ひとりでは生きていけない存在が目の前にいて、どうにかして生命の安全を確保し続けなければならない。
途方に暮れるような事態がどんどん起こる。妻も私も心の余裕が徐々になくなり、いつしかお互いを責め合うようになった。「いつでも辞めればいい」と甘いことを考えていたくせに、私は「最近やけに会社が忙しいんだよ」「飲み会に出るのも大事なことなんだ」などと仕事を盾にしたような言い訳を繰り返していた。本当は自分がいなくたって問題のない飲み会にでも、育児の大変さから逃れるために参加していた。そんなふうだったから、当然だが妻との関係はギクシャクしていった。
妻の疲労が目に見えて感じられるようになり、そうなってやっと、私は自分の無責任を自覚するようになった。特に子供が立って歩き回れるようになってからは、できる限り自分ひとりで遊びに連れ出すことにした。とはいえ、平日は毎日会社に行っていたから、私ががっつりと子供を連れて家を空けられるのは土日か祝日がほとんどだったが、子供と私がお昼から夕飯時まで外に出ているだけでも、妻は少し気が休まるらしかった。
幼い子を連れて家を出て、さてどうするかというと、近所の公園で遊ばせるばかりだった。遊具がある公園で遊ばせ、その公園に飽きたらまた別の公園まで行く。たまには少し遠いけど、広くていくらでも走り回れるような大きな公園まで足を延ばす。夏には幼児用のプールがあって水遊びのできる公園にすごくお世話になった。

大阪から東京の銭湯に入るためだけの旅
それから少し子供が大きくなって、一緒に銭湯に連れて行けるようになると心にグッと余裕が生まれた。もちろん、絶えず子供の様子を気にかけながらなので、ゆったりと湯舟につかって目を閉じるというようなことができないが、それでもずっと公園で遊んでいるだけの半日とは気持ちの開放感が違う。広いお風呂を子どもは喜んでいる様子だし、風呂上がりにジュースを買ってもらえるのが何より楽しみらしく、「銭湯に行こう!」と私が言うと「やったー!」といつも歓声を上げた。
私が住んでいた当時、遠くない距離に3軒ほどの銭湯があったが、なかでもいちばん好きだったのが「山の湯」だった。住宅街の路地をグネグネと折れ曲がって行った先に現れる「山の湯」は、どこか秘湯めいた雰囲気で、日常から離れて小さな旅に出たような気分を味わえた。

広い脱衣所の隅に革張りのソファとテーブルがあって、そこでゆっくりできるのも好きだった。子供にはリンゴジュースを、自分には缶ビールを買って、風呂上がりに飲む。飲む前に「乾杯ー!」と缶をくっつけ、ひと口目を飲んだあとは「プハーッ!」と大げさに声を出し合う。その時間がすごく好きだった。
脱衣所にはなぜか「ロデオマシーン(痩身効果があるとされる、またがってスイッチを入れると縦や横に揺れるマシーンで一時期すごく流行った)」が置かれていて、誰もいないタイミングを見計らって子供と交代でそれに乗る。「わー! 落ちるー」と、本当は落ちるほど強い揺れではないのだが、子供はそう言って笑う。「なんだーこりはー!」と、「“これ”は」と言えずに「“こり”は」と発音するのがその頃の子供のクセだった、3歳か、4歳か、アンパンマンのイラストがプリントされたパジャマを着た、まだ小さかった子供がロデオマシーンに乗って「なんだこりはー!」と言いながら揺れている映像を、私は今でもふとした拍子に思い出すことがある。
大阪に引っ越してからも東京に行く機会があればたまに寄っていた「山の湯」だった(といっても数えるほどの回数だ)が、2022年5月をもって廃湯することになったと、東京に住む銭湯好きの友達が教えてくれた。それを聞いた私は驚き、今は中学一年生になった息子にすぐにそのことを話した。
「『山の湯』覚えてる?」
「東京の銭湯やろ? なんか、変な、ロデオのあるところやんな」
「そうそう。よく行ったでしょ。あそこが5月でやめちゃうんだって」
「えー! そうなん? 行きたいなぁ」
と、息子はすっかり声変わりした低い声で、大阪弁で話す。できればふたりで東京に行って最後に「山の湯」に入りたいと思っていた。しかし、中学生になるとそういうものだろうか、息子は勉強と大好きなバスケットボールの練習とで急に忙しくなり、毎日の帰りも遅くなった。平日だけでなく、土日もバスケの練習が昼から夜まであって、時間を作って遠出するのは難しいようだ。
一緒に行くことを諦め、せめて私だけでもと思って東京へ向かったのが、営業終了日の数日前の、平日の昼過ぎのことだった。いつもなら、東京へ行く際はできるだけ仕事の取材に絡められるようにして、少しでも交通費の足しにしようと画策するのだが、今回はタイミング的にそれも難しく、ただ「山の湯」に入りに来ただけのような旅になった。
有楽町線要町駅で地下鉄を降りる。私はいつも千川側から「山の湯」に通っていたけど、いちばん近いのは要町駅だ。千川駅のひとつ隣である要町駅もまた私にとっては思い出深く、駅前の風景を見渡すだけでいきなり懐かしさに襲われた。


忘れていたはずの記憶が湧き出るように浮かんでくる
駅近くの「えびす通り商店街」のゲートをくぐり、奥へ奥へ進む。そこからはいつも適当に歩く。なんとなく勘で歩いていくと「山の湯」が現れるのだ。私は「山の湯」までの最短ルートを知らなくて、いつも完全に当てずっぽうで歩いていた。というか、このあたりの住宅街は細い路地が複雑に入り組んでいて、私にはどうしても覚えられないのだった。
「そうだった。こんな雰囲気の通りだったな」としみじみ思いながら歩く。ここに来るまですっかり忘れていたはずの記憶が、湧き出るように浮かんでくる。

緑のひさしを出した建物が気になって中をのぞいてみると、駄菓子屋だった。ここに駄菓子屋があるなんて、初めて知った。あの頃気づいていれば、子供が大喜びしていただろう。


駄菓子屋を出て、静かな住宅街をグネグネと歩く。なんとなくこっちだろうと思ったほうへ行くと、懐かしい煙突が見えてきた。

煙突の先からは薄く、黒い煙が流れているのが見える。煙が出ているうちに来ることができてよかったと思う。少し歩調を早め、あとは煙突を目印にして歩けばいい。

私が到着したのは「山の湯」が開く15時半の10分前で、オープンを待つ常連さんらしき方々の姿があった。私もその近くに立って待っていたので、会話が聞こえてくる。
「週末で最後か。混むかねぇ」
「昨日は千葉から来た人もいたって。若い女の人だって」
「千葉? 千葉から来るのか」
「そうそう。銭湯が好きな人らしかったよ」
「千葉から来るなんて、バカじゃねえか? 銭湯ってのは近所にあるところに行くもんだろ」
「そうだよねぇ」
「だいたい閉めるからって来ても遅いよ。前からそういうのがみんな来てれば潰れてねえんだから」
「そうだよねぇ。ホント」
と、大阪からこのためにやって来た私にとっては耳に痛い話だった。彼らは私が入口付近の写真を撮っていたのをなんとなく見ていて、それであえてこういう話をしているのかもしれなかった。「お前みたいなのが来るから、ずっと通ってきた俺たちが窮屈じゃねえか」と、そう言われているような気がして辛かった。どこかで時間を潰してから出直そうかと思ったが、そうこうしているうちに混んでくるかもしれない。できるだけ短い時間で出ることを決め、のれんが出て常連さんたちが入って行ったあとに思い切ってついていく。
息子と乗ったロデオマシーンはもうなかった
急いで服を脱ぎ、急いで体を洗い、湯舟とスチームサウナに少しずつ、合計10分ほど浴場内にいただけでよしとした。
円形の湯舟がふたつくっついたような、「8」の字型の浴槽の中央に、陶製の女神像が鎮座している。腰のあたりに修復の跡があってちょっと痛々しい。「山の湯」のお風呂といえば、思い浮かぶのはその女神像と、あとは天井の高さと、くもりガラスを通して外から入ってくるぼんやりとした光だ。私は女神像の肩にほんの少しだけ指を触れ、心のなかで「ありがとうございました」と言った。かたく絞ったタオルで体を拭き、脱衣所へ戻る。服を着てロッカーを空にしてから缶ビールを買った。急いで上がったから、まだソファには誰も座っていない。誰かが来るまで、ここに居させてもらおう。
カラスの行水だったとはいえ、風呂上がりのビールは美味しかった。息子とロデオマシーンに乗っていたあたりを見やると、そこにはすでにマシーンはなかった。アンパンマンのパジャマを着た息子が揺れながら笑っていた姿を思い浮かべる。
ロッカーの上のあちこちには陶器の象の置き物が置かれていて、それは私がよく通っていた頃から変わらない。これは誰の趣味なんだろう。この銭湯が役目を終えたあと、置き物たちはどこへ行くのだろう。脱衣所には洗濯機がいくつか設置されていて、ここで洗濯している人もいた。着てきた服も全部洗濯機に突っ込んで、お風呂に入りながら待てばいいから合理的だ。そうだ、そうだった。ガラス戸の向こうにほんの小さな庭があって、昼でも夜でも、その庭を眺めると少し心が和んだ。
私が缶ビールを置いているテーブルの下のラックにはコミック誌や週刊誌が何冊か入っていて、適当に1冊取ってみると、ちょっと古めの『週刊SPA!』である。なんとなくページをめくっていると真んなかあたりが袋とじになっていて、それが雑に破かれ、ヌードグラビアがのぞいている。「こういう感じが山の湯だったなぁ。ああ、山の湯だ」と思いながら、残り半分ほどのビールを一気に飲む。番台のほうに「ありがとうございました」と言って建物の外に出た。濡れたタオルは首にかける。
早風呂の常連さんたちはみんな今、入浴中なのだろう、玄関付近は空いていた。下駄箱や入口あたりの写真を撮る。


壁に閉店を告げる貼り紙がある。「閉店のご挨拶 65年の長きにわたり地域の皆様にご利用いただき深く感謝申し上げます。本年5月15日(日)を持ちまして閉店させて頂く事になりました。長い間本当にありがとうございました。 山の湯」
浴場内を撮影した写真も貼り出してあって、さっき見てきた女神像をその写真のなかでもう一度眺めた。

それで気が済んで、私は以前住んでいた千川のほうへ向かって、住宅街をまた適当に歩き出した。何度か振り返り、煙突の先を眺めた。

育児の日々に、風通しのいい時間をくれた「山の湯」。あの頃、そういう時間があることにどれだけ救われたことだろう。おかげで息子も私も、遠い場所で元気に暮らしています。大阪に帰ったら最後にたくさん撮った写真を息子に見せてやろうと思いながら、私は千川駅を目指す。一度も見たこともないような道に出てだいぶ迷った末、ふいに家の前の懐かしい通りに出たとき、涙が出そうになった。
筆者について
1979年東京生まれ、大阪在住のフリーライター。WEBサイト『デイリーポータルZ』、『集英社新書プラス』、月刊誌『小説新潮』などを中心に執筆中。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』、『酒ともやしと横になる私』、『関西酒場のろのろ日記』、『遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ』、『「それから」の大阪』、パリッコとの共著に『酒の穴』、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』、『“よむ”お酒』、『のみタイム 1杯目 家飲みを楽しむ100のアイデア』がある。