自分を捨てる旅
第1回

蔵前のマクドナルドから

暮らし
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話題作『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』などの著書を持ち、現在「最も注目すべき」エッセイの書き手として活躍するスズキナオさんの新連載エッセイ。「ああ……疲れた」観光名所をめぐり歩く、お腹がはち切れんばかりに食べる、記憶を失うほど酒を飲む……そんな体力はもうないが、それでも旅がしたい。執着を解き放ち、自分の輪郭を失くしながら歩く知らない町。人に出会い、話を聞く。言葉に出会い、考える。それでもこの世界をもう少し見てみたいと思う小さな旅の記録。前向きな言葉に、大きな声に、すべての疲れている人へ。

ほとんどいつも疲れている

蔵前のマクドナルドの2階席でウトウトしていた。祝日の夕方だったが店内には私の他に2人しか客がおらず、みな食事が目的というより、私と同じようにただ時間を潰すためにここにいるように見えた。

スマートフォンの充電がなくなり、このマクドナルドでは2階席のあちこちに充電用のコンセントが備え付けられているようだったから、それで私はここに来た。充電ケーブルをスマートフォンに差し込むと、充電が開始されたことを知らせる振動がブーッブーッと2度、手に伝わってきて安心した。そして100円で購入したホットコーヒーを少しずつ飲んでいるうち、眠気に襲われたのだった。つかの間の眠りから目を覚まして「疲れた……」と小声でつぶやく。立ち上がる時や座る時に「よっこいしょ」という言葉が口を突いて出るみたいに、私は「疲れた」とばかり言っている。起床時間を気にせずにたっぷり寝て起きた時ですら「ああ、疲れた」と言って目を覚ます。

ほとんどいつも疲れている。この体の重たさはなんなのか。私は酒が好きで、ふらっとどこかへ出かけてはあまり知らない町の食堂や居酒屋に入って時間を過ごすのが好きだった。その気持ちは今も変わらないのだが、ここ最近、ほんの少ししか酒が飲めなくなってしまった。チューハイを2杯も飲んだらもう胸がいっぱいになって、それ以上、酒が入っていかなくなる。そうなるともちろん、つまみを食べることもできない。そんなささやかな量の酒で激しい二日酔いに苦しむことすらある。おそらくアルコールを分解する能力が衰えてしまったんだろう。

数年前の健康診断で肝臓の数値に異常が見つかり、近所の医者の診察を受けることになった。「鈴木さん、あなたはもう飲める分のお酒をほとんど飲んでしまったんです。人それぞれ飲める量っていうのは決まっていて、あなたはそれほど強くないんだ。あと10年も今の生活を続けていたら肝硬変になりますから」と言われた。それ以来、肝臓に良いとされるサプリメントだの漢方薬だのを気休めに飲みながらおそるおそる過ごしているが、医師の言っていた通り、私はもうかつてのように酒を飲むことはできないみたいだ。

そうなってみて困るのは、どうやって時間を潰すかということだ。どこかに出かけて、軽い食事ですぐ満腹になったとして、その後の長い時間をどう過ごせばいいのか。これまで酒に頼ってやり過ごしてきた大量の時間が、地平が広がるようにふいに目の前に現れた。私はただ立ち尽くしてしまう。

数年前に大阪に引っ越し、東京へはたまに行くだけになった。東京は私の育った町で、実家に顔を出したり、懐かしい友人と会ったりする。そうしている時間は気持ちが落ち着くし賑やかな気分になりもするのだが、最近では次第に時間を持て余すようになってきた。

行ってみたい場所はたくさんあるはずなのだ。会いたい人もいる。しかし、そこまで行って誰かと会ったとしても、すぐに疲れ果ててしまうのが目に見えている。痛快なペースで酒を飲むこともできないし、酔った勢いがないと饒舌に話すこともできない。そう思うと誰に声をかけることも、気合を入れて遠くまで行くこともできず、近所をただあてもなく歩くだけなのだった。

今日もそんなふうに目的地も決めずに歩いていた。昼間、東京の実家に顔を出し、父と母と、ちょうど子供を連れて遊びに来ていた妹と会った。母の作った惣菜を少し食べ、缶チューハイを飲むと、すぐに眠くなってきてホットカーペットに横たわった。ここ数日、仕事仲間との酒の席が続いていたという父はあまり元気がなく、私から少し離れた場所に、同じように横になっている。「酒の疲れがすぐに消える薬はないものかね」と目を閉じたままつぶやく父に「そうねぇ」と返事をし、私は重たい上半身を起こした。

「もう帰るのか」「うん。どこか散歩でもしてくるわ」「はい、じゃあまた元気で」

宮崎の田舎を1匹でふらふら歩いていた

実家を出て、近所の公園まで歩く。私の実家のすぐそばを隅田川が流れていて、新大橋という橋がそれをまたいでいる。オレンジ色の支柱が2本立っているのが遠めからでも目立ち、この新大橋から風景を眺めて育ってきた私は久々にその橋を見て、東京にいることを実感する。

新大橋から隅田川を眺めるのが子どもの頃から好きだった

川の両脇は遊歩道として整備されていて、上流の両国橋方面へも、下流の清洲橋方面へもずっと歩いていくことができるのだが、数日前まで雪が降っていたという寒さに川沿いを歩く勇気が出ず、私は馬喰町から浅草橋方面へとゆっくり歩いていった。

コンビニに立ち寄ってトイレを借り、そのお礼のつもりで買った缶チューハイを飲みながらさらに歩いていて、私は「カエさん」のことを思い浮かべた。蔵前に住んでいる古い友達で、お互い忘れた頃にどうでもいいことで連絡を取り合うような、気ままな仲だ。

馬喰町、浅草橋あたりは土日の夜になるとそれほど人通りもなくて静かだ

「今、浅草橋あたりにいるんだけど暇?」と、いくら親しい友達といってもあまりに急な、いきなりボールを投げつけるみたいな誘いの言葉をLINEアプリに打ち込むと、しばらくして応答があった。「19時には犬の散歩が終わってるからその時でどう?」「全然大丈夫」「近所に公園がある。トイレもあるからそこでどう? 寒いか」「大丈夫」「犬に会いたい? 会いたければ連れていくけど」「おお、ぜひ」と、そんなやり取りをしていたらスマートフォンの充電が切れてしまった。長年使っているスマートフォンは充電池が劣化し、最近では半日ももたなくなってしまったのだが、機種変更の手続きが面倒なのでだましだまし使い続けている。こんなこともあろうかと充電用のケーブルは持ち歩いていたので、どこか充電させてくれる場所はないかと、そうやってたどり着いたのがこの蔵前のマクドナルドだった。

リュックの中から文庫本を取り出して開いてみてはすぐにウトウトして、ようやく約束の19時が近づいてきた。半分ぐらい充電の回復したらしきスマートフォンをポケットにしまい、私はマクドナルドを出た。地図アプリを立ち上げ、カエさんに教わった公園の名前で検索してそこへ向かう。だだっ広い公園にぽつんと置かれたベンチに座って待っていると、カエさんが柴犬を連れて現れた。リードというのか、散歩用のひもがネオンのように光っている。挨拶もそこそこに一旦そのままコンビニへ向かい、それぞれ一缶ずつ、酒を買う。公園への道を戻る途中、同じように柴犬を散歩させている人が横断歩道の向こうにいて、カエさんは「こんばんはー! 帰りですか?」とその人に手を振った。「犬を散歩させてるとさ、近所に知り合いが増えんのね。いいことしかない」と私に向かって言う。

公園のベンチに座り、「久しぶりー」と乾杯した。カエさんの連れている犬は「小太郎(こたろう)」という名の柴犬で、飼い始めて半年とちょっとだという。全国に支部を持つ保護団体によって保護されていた老犬で、右の前足が悪く、ひょこひょこと独特のリズムで歩く。

――これが小太郎かー!

カエさん そうです。可愛いでしょ。

――そもそもどうやって出会ったの?

カエさん 柴犬の写真とか動画を見るのが趣味でさ、たまたま見た犬猫の飼い主募集サイトにいたんですよ。小太郎の写真があまりにも可愛くて、ちょくちょく見にいっては「まだもらわれてないんだなー」なんて思って、飼おうっていう気持ちは全然なかったけど。

――そうやってただちょくちょくサイトで姿を見てるだけの期間があったのね

カエさん そうそう。ちょうど1年くらいかな。

――もらい受けることになったのはなんで?

カエさん その前の年(2020年)の11月にコロナでオフィス縮小ってなって。それまでも在宅で作業するようになってたんだけど、もう収束しても会社に行かなくていいっぽい体制になったのね。それが最大のきっかけかしらね。でもそこから数か月迷ったね。

――小太郎っていう名前は、自分でつけたの?

カエさん いいえ。最初からなんです。宮崎の団体から銀座の団体に引き取られて、そこで名付けられたんだって。もう2年近くその名前だし、似合ってたから。

――もともと宮崎にいたんだ?

カエさん 宮崎の田舎を1匹でふらふら歩いていたらしい。2019年のクリスマス頃に保護されて年明けてから東京に連れて来られたって聞いたわ。

――何歳なの?

カエさん 8歳から10歳くらいと言われた。引き継ぎでもらったワクチン接種証明書に生年2016年というのがあって、保険は若いほうが安いからそれで申し込んだけど。

――だいたいまあそれぐらいだと。

カエさん 老犬ですよ。

――右手はどうしたんだろう

カエさん 骨折したのを治療せずにいたから曲がったままくっついちゃったらしいね。野良になってからなのか前の飼い主にやられたのか、わかんない。

――でもサッサッと歩くよね。

カエさん 歩く歩く! 1メートルくらいジャンプするし。足が曲がってることによって「オホホ」のポーズになって可愛いの。

口元に右手が近づく「オホホ」のポーズで眠る(写真提供=カエさん)

――引き取って最初の頃は大変だった?

カエさん 4月に初めて顔合わせして、5月になって散歩したの。保護団体の人も一緒で。その時に向かいからトイプードルみたいなのが来たら小太郎が興奮しちゃって、保護団体の人と私の足に噛みついた。

――2人とも噛まれた。

カエさん そう。歯の跡がしっかり残ってしばらくしたらあざで真っ青になったよ。流血はしなかったけど。引き取ってからもそう。しばらく他の犬とすれ違う時は噛みつかれた。5回くらい。相手の犬とか人とか噛ませるわけにいかないじゃない? だから自分のほうに寄せてさ、狭い道は決死の覚悟なの。

「頑張れ」のおばさんもたくさんいるし、「可哀想」おじさんも大勢いた

――今は行儀よくしてるね。慣れたんだね。

カエさん もうね、いいことしかない。まず早寝早起きで毎日3時間近く歩くから痩せたでしょ。夜中まで飲んで二日酔いみたいなこともないし、オンライン会議でイライラしても終わったあと、犬を触ると気持ちが落ち着くわけ。犬に向かって笑いかけたりするのも絶対に精神とかに良さそうじゃん。一人暮らしだと声も出さないし表情も変えることないもんね。

――散歩も楽しい?

カエさん そりゃ楽しいよー。ラジオ体操帰りの婆さん集団に話しかけられて「その足はどうしたんだ?」って聞かれたから「野良犬で多分その時に交通事故かなんかにあったんだと思いますー」って言ったら、「あら、あなたその犬を引き取ったの? いいことしたわねー! これからあなたもいいことあるわよ!」ってさ、私の人生がこれまで真っ暗だったみたいなこと言われて、苦笑いしたよ。

――ははは。いいことしようとして引き取ったわけじゃないのにね。

カエさん ね。可愛い犬を飼ってるだけなの。でも褒められる。代理ミュンヒハウゼンみたいな気持ちになってくるよ。

――代理なんとかっていうのは何?

カエさん 自分の子供が健康なのに車椅子に乗せて「お母さん大変ね」って周りからチヤホヤされるように仕向ける心の病気みたいな。

――そんなことがあるのか。可哀想に思われる気持ち良さみたいな。

カエさん 最初の頃、小太郎に、おばさんは「可哀想」って言って、おじさんは「頑張れ」って言ってくる傾向があるかなと思ったけどそんなことなかった。「頑張れ」のおばさんもたくさんいるし、「可哀想」おじさんも大勢いた。まあ別に悪い気もしないけどね。本当に良かったよ。犬はいいよ。

――そうか。よかったね。

私たちの足元でじっと座ってくれていた小太郎

それからお互いの近況について少し話していると、私たちの足元に行儀よく座る小太郎があくびをした。「可愛いでしょ。口がくさーいの。可愛いったらないよ」とカエさんが言う。冬の公園のベンチに1時間ほど座っていたから体が芯から冷えてきて、きっと小太郎もカエさんも寒いだろうと思った。「じゃあそろそろ帰るわ」と私は立ち上がる。

「はいはい。またね。また東京来たら連絡くださいよ」「うん、急にありがとうね」「いえいえ、お互い元気でね。死なないでね」

私は蔵前から茅場町方面へと静かな夜の町を歩いた。宮崎の田舎をひょこひょこと歩いていたという小太郎の姿を思い浮かべ、右手で撫でた背中の、ソフトなたわしみたいな毛並みの感触を思い出した。

茅場町のビジネスホテルにたどり着くなりユニットバスに熱い湯をためる。時計を見るとまだ21時を過ぎたばかりだけど、お風呂で体をしっかり温めたらすぐに布団に入ろうと思った。

筆者について

スズキナオ

1979年東京生まれ、大阪在住のフリーライター。WEBサイト『デイリーポータルZ』、『集英社新書プラス』、月刊誌『小説新潮』などを中心に執筆中。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』、『酒ともやしと横になる私』、『関西酒場のろのろ日記』、『遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ』、『「それから」の大阪』、パリッコとの共著に『酒の穴』、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』、『“よむ”お酒』、『のみタイム 1杯目 家飲みを楽しむ100のアイデア』がある。

  1. 第1回 : 蔵前のマクドナルドから
  2. 第2回 : 上を向いて有馬温泉を歩く
  3. 第3回 : つながっている向こうの場所で
  4. 第4回 : 敦賀の砂浜で寝転ぶ
  5. 第5回 : 家から歩いて5分の旅館に泊まる
  6. 第6回 : 煙突の先の煙を眺めた日
  7. 第7回 : 犬鳴山のお利口な犬と猫
  8. 第8回 : 暑い尾道で魚の骨をしゃぶる
  9. 第9回 : 湖の向こうに稲光を見た
連載「自分を捨てる旅」
  1. 第1回 : 蔵前のマクドナルドから
  2. 第2回 : 上を向いて有馬温泉を歩く
  3. 第3回 : つながっている向こうの場所で
  4. 第4回 : 敦賀の砂浜で寝転ぶ
  5. 第5回 : 家から歩いて5分の旅館に泊まる
  6. 第6回 : 煙突の先の煙を眺めた日
  7. 第7回 : 犬鳴山のお利口な犬と猫
  8. 第8回 : 暑い尾道で魚の骨をしゃぶる
  9. 第9回 : 湖の向こうに稲光を見た
  10. 連載「自分を捨てる旅」記事一覧
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