温泉に行きたい。旅館の敷いてある布団で眠りたい。そんな思いで検索していると「城崎温泉」が目に留まった。何度も目にしたことがある地名だが、これまで行ったことがないし、どこにあるのかも知らなかった。温泉に入って旅館でだらだらしたい。10月、城崎温泉に向かうことにした。
願掛けというのはそういうものでもないだろう
旅館に泊まって、部屋で食事をしてみたいと思った。夕飯を食べ終えて、温泉にゆっくり浸かって部屋に戻ると布団が敷いてあって、あとはそこに寝転がるだけ。興味がなくてもテレビをつけて、それを横目に寝酒を飲んでたっぷり眠りたい。ここ数か月、雑事に追われて疲れていたからか、そんな思いが強くなった。
温泉……旅館……と脳内で念じながらあれこれ検索していて、ふと「城崎温泉」が気になった。城崎温泉、きのさきおんせん、有名な温泉地としてその響きは何度も耳にしたことがあるが、行ったことがなかった。というか、そこがどのあたりにあるのかも知らなかった。城崎温泉は兵庫県の北部にある豊岡市にあって、日本海も近いから、冬場に獲れる新鮮なカニが名物だ。そういえば、よく駅に置いてある、電車に乗ってカニを食べに行こうというツアーのパンフレットでも、行き先のひとつとして城崎温泉の名を見かけてきた気がする。
旅館でカニを食べる、か。それはいいなとさらに調べてみたが、そのようなツアーの参加費は、とても自分が出せるような金額ではなかった。むしろ、名物である「松葉がに」の漁が解禁になる11月初旬の手前に行くのなら、宿泊費がだいぶ手頃になるようだった。カニが食べられなくてもいい、温泉に入って旅館でだらだらできるであれば、もうそれでいい。そう思って10月、城崎温泉に向かうことにした。
私の住む大阪から城崎温泉へは「こうのとり」という特急電車に乗って2時間半ちょっとだ。向こうに昼頃に着く電車を選んで、発泡酒のロング缶とおにぎりを買って乗り込んだ。

大阪を出た電車は尼崎や宝塚に停車し、篠山口を過ぎたあたりから窓の外が一気に山あいの景色になる。かつて丹波篠山に泊りに行ったとき、そこで食べた野菜のみずみずしさに驚いたのを思い出す。

11時半過ぎ、城崎温泉駅に到着した。電車からたくさんの人が降りてきて、自分もそのひとりなのだが、こんなに混んでいるものなのかと驚いた。この時期はいつもこんなふうなのかもしれないが、駅前の食堂に行列ができていたりして驚く。

旅に出る前、関西に住む友人に「城崎温泉に行くんですか! いいところですけど、結構な観光地ですよ」と言われていた。友人は私の好みを知ったうえで、行くのならもっと寂れた温泉地のほうが気持ちが落ち着くのでは? と考えてくれたらしかった。なるほど、たしかにここまでの人出だとは想像できていなかったが、あちこちの店が活気づいている様子は、それはそれでいいなと思った。
駅前に飲泉できる場所があったので、手にすくって温泉を味わってみる。ほんのりした塩気があって、このまま料理に使ってもよさそうに思えた。

駅から賑やかな通りを少し歩いていくと、大谿川(おおたにがわ)という川の流れに突き当たる。橋を渡った向こうにも街並みが続き、多くの旅館は川向うに集中しているようだった。

私が宿泊する予定の宿もそのあたりに見つかったが、まだチェックインまで時間がだいぶあるので、散策を続けることにする。明日まで丸一日以上を過ごすことになる街を生まれて初めて歩きながら、頭の中になんとなくの地図ができあがっていくのが楽しい。

「城崎温泉ロープウェイ」の乗り場が近いようなので、そこまで歩くことにした。その手前に温泉が湧き出ている場所があり、その脇の売店前に「自分で作る温泉たまご」という看板が立っていた。空腹を感じていたので、食べて行くことにする。ネットに入った玉子(3個入りと5個入りを売っている)を買い、「温泉たまご場」に紐でくくりつけて沈め、10分ほど待つよう説明を受ける。

生ビールを買って近くに座って飲んでいると10分後に設定したスマホのアラームが鳴った。自分が浸したネットを温泉から取り出し、売店脇のテーブルに備え付けられた「玉子割り器」で殻を割ると、スプーンですくって食べるのにちょうどいいような具合に殻が剥けた。

塩をふって食べてみたのに不思議と甘みを感じ、「こういうお菓子みたいだ」と思った。これは美味しいな。あっという間に食べてしまう。
ロープウェイの乗り場にも多くの人がいて、スタッフのひとりが「今日も大変混雑しております。山頂のカフェもおそらく並ぶことになると思います」と、乗車を待つ人の列に向かって大きな声で言っている。この時期の週末は臨時便を出しているらしい。

「今からロープウェイにご乗車いただきますと、城崎温泉の温泉街が見下ろせます。その向こうに見えてくるのは日本海ではなく、川です。その川のさらに向こう、左手のほうに広がるのが日本海です」と、同じスタッフが教えてくれる。なるほど、その通り、一瞬「海だ」と思ったのは川で、その川が流れる先に日本海が見えた。

山頂の「みはらしテラスカフェ」には、言われた通りの行列ができている。展望台の近くに「温泉寺」という寺の奥の院があって、そこで「かわらけ」を投げることができる。素焼きの小さな皿をふもとに向かって投げて願掛けをするというもので、昔、京都の寺で同じようなことをした記憶がある。投げるための皿を売っているのも「みはらしテラスカフェ」らしく、おとなしく私もカフェのレジへと続く列に並ぶ。コーヒーを買う人、ホットドッグを買う人、かわらけを買う人、その全部を買う人。私はかわらけと生ビールを買った。
3枚で1セットのかわらけには「厄除」「吉祥」「甘露」という文字が刻んであり、その順に投げる決まりだという。

少し下に的が立っていて「一願成就」と書いてある。かわらけを投げ、的のなかの小さな輪を通せたら願いがかなうのだとか。

1投目、的の左に大きくそれた。2投目、軌道は頼りないが、的には近づいた。3投目、力が入り過ぎてまったく見当はずれの方向に飛んでいった。思わず、「悔しい。もう一回皿を買ってやり直したい」と思ったが、願掛けというのはそういうものでもないだろう。爽快感は十分にあったのでこれでよしとした。
城崎の町で生活している人がいる
山頂で少し休み、帰りのロープウェイに乗ってふもとに戻ると、ちょうどチェックインの時間が近づいてきた。宿で受付を済ませ、仲居さんの案内で部屋に通される。Hさんと名乗るその方が明日までこの部屋の世話をしてくださるらしい。お茶、お茶菓子、座椅子とひじ掛け。こういういかにも旅館らしい旅館に来たのはずいぶん久々な気がして、早くも贅沢な気分になる。

Hさんが浴衣と一緒に地図と「外湯めぐり券」を渡してくれる。城崎温泉には7か所の「外湯」があり、街のあちこちに点在するそれらの湯を、浴衣を着てめぐるのが定番なのだという。「外湯めぐり券」は今から明日の15時まで使うことができて、それを見せればどこにでもフリーパスで入れるそうだ。「え、じゃあ7つ全部行かなきゃ」と思わず口に出すと、Hさんは笑って「無理なさらないでいいんですよ。全部行けなかったら、また来ればいいの」と言う。
とはいえ、できる限りはめぐりたい。夕飯は18時に準備されるとのことで、とにかく急いで浴衣に着替えて外に出る。「今日4つめぐって、明日3つだな。待てよ、明日が休みのところもあるのか。こことここだけは絶対に今日中に行っておかないと」と、旅館でゆっくり過ごすはずが、地図を凝視して早くも焦り始めている。
受付に鍵を預け、サンダルをつっかけて外に出る。神社の境内で猿回しをやっていて、立ち止まって少し見る。まだ幼いらしい小さな猿が、遠く離して置かれた階段と階段の間をひとっ飛びに渡りきる。歓声が上がる。

いや、私は湯めぐりを急がねばならないのだった。地図を片手に最初に向かったのが「一の湯」だ。

湯めぐり券のQRコードを受付の読み取り機にかざすとピローンと音が鳴って「はい、どうぞー」と係りの方が言う。7つの外湯はすべてこのシステムで入れるようになっていて(一か所ずつ現金を支払って入浴することもできるようだったが)、そのデータを集計し、どこの外湯が今混んでいるかなど、館内のモニタに表示されるようになっている。
浴衣姿なので脱ぐのも着るのも楽でいい。浴場内に入っていくと、露天の洞窟風呂というのがあり、ゴツゴツとした岩がくり抜かれたような湯舟で壮観だった。お湯はさらっとしていて、硫黄の匂いが強い感じでもなく、なんというか、軽い入り心地だった。15分ほどで出て、駅前にある「さとの湯」を目指す。

ここもまた立派な建物で、浴場は階段を上った2階と3階にある。洗い場や内湯のある2階から、裸のまま階段を上っていくと3階が露天風呂になっている。湯舟は広く、高いところから滝が流れ落ちてくるような造りが凝っている。もうもうと湯気が立ち上がるなかには、海外からの観光客らしき人もちらほらいて、同じ湯気に包まれ、同じお湯につかって誰が誰だかわからなくなっている感じがいいと思った。立ち上がると遠く向こうの景色まで見え、さっきロープウェイに乗った先の山頂から見たのと同じ川をここからも眺めることができた。
なるほど、一つひとつの外湯がそれぞれに違っていて、これはめぐりがいがありそうだ。「一の湯」も「さとの湯」も館内がすごくきれいで、まだ建ったばかりのようにすら見える。どちらにも休憩所があって、自販機が設置されているが、アルコール類は販売されていない。そのかわり、外湯を出て歩く街のあちこちに生ビールを売る売店や、それを飲みながら休めるベンチなどがあり、お風呂はお風呂、飲食は飲食と、きっぱり分業されているようだった。
さらにもうひとつ「地蔵湯」へも行ってみる。

ここの浴場は前のふたつと比べて作りがシンプルだが、お地蔵さんの形を模したらしき湯舟の湯がかなり熱めで気持ちいい。湯が熱いからか、家族風呂が併設されていて、子連れ客はそっちにゆっくり浸かっているようだった。外に出ると日が落ちかかっていた。

通りを何度も行ったり来たりして、湯めぐりもして、城崎温泉の雰囲気がだいぶわかってきた気がする。お風呂と食事処がはっきり切り分けられていたように、城崎温泉は街に統一感があって、ひとつのコンセプトが隅々まで行き渡っているように思えた。秘湯的な温泉地に比べて、そこに物足りなさを感じる人もいるかもしれないが、昭和の時代に栄えた温泉地でも大きなホテルが廃墟と化していたりする今を思えば、温泉を中心とした街がこのようにしっかり観光地として成り立っているのは貴重だと思う。
路地裏を歩き、売店の店頭で生ビールを飲んで夕飯の時間まで過ごした。

宿に戻るとすぐにHさんが部屋に入ってきて夕飯の用意をしてくれた。部屋の外から、カランコロンと下駄の音がする。浴衣を着た人々がどこかへ歩いて行くのだろう。卓上に御馳走が並ぶ。「旬菜盛り」「甘鯛蕪蒸し」「とり貝と貝柱の酢の物」……瓶ビールをグラスに注いで飲みながら、私はそれらをどんどん食べていく。空いた器をHさんが下げ、また次の料理を運んでくる。

「カニの季節はやはり混みますか?」とHさんに聞いてみる「それはもう、とんでもないことになります。私らはこれから3月まで大忙しでございますよ。地獄でございます。でも最近はもう、カニがお高いでしょ。なかなか獲れなくなっていますから。私らはもう、カニなんて御馳走過ぎて全然。セコガニは好きですよ。あれをこの辺の人は炊き込みご飯にしますねん。あれは身をほぐすのが大変ですねん。でもこの辺の人なら上手にできる。子供の頃からやってますから、給食にも出るほどですから。セコガニがいちばん。ミソも子も入れて炊き込みご飯。これがいちばん。私らは他のカニは滅多に食べないですよ」と、流れるようなリズムで教えてくれた。Hさんが食器を下げて出て行くと、シーンと部屋が静かになって、また外から下駄の音が聞こえてくる。
はち切れんばかりになって食事を終え、再び外へ出てみた。でき過ぎなほどに夜の温泉地らしい風景だ。川面に移る柳の木が美しい。自分もそうだが、浴衣の人々がゆっくりと街並みを歩いていく姿が、どこか幻じみていて面白い。

射的場の看板が灯っていて、店内が賑やかだった。棚にずらりと並べられた女神像を撃ち、落とした数に応じて景品がもらえるようだ。


前半はまったくダメだったが、後半にコツをつかんで得点を伸ばす。「ミニオン」の柄がプリントされたメモ帳をもらった。

そのまま、外湯のひとつである「まんだら湯」に入って、これで今日の目標である4湯達成だ。露天スペースに壺湯があり、そこに浸かっているとすぐ近くから秋らしい虫の音が聞こえた。

宿へ向かって歩いていると、中学生ぐらいの子どもがジャージ姿で走っていき、その後ろを母親らしき人が自転車で追いかけていった。運動部にでも入っていて、夜のトレーニングをしているようだった。もう少し歩くと、営業を終えた蕎麦屋の店内で、店員らしい人がくつろいでいるのが見えた。外から来て去って行く私のような者だけでなく、この町で生活している人が当然いる。どんな暮らしだろうかと想像してみる。宿に戻り、宿の中の大浴場にもゆっくり入り、寝酒を飲んで横になった。
翌朝、「そうか、なるほど」と思った。これがビジネスホテルだったらチェックアウトのギリギリまで寝ているのだが、Hさんが朝ごはんの用意をしに7時半には部屋に来るのだ。となると、それまでに朝風呂に入って身なりを整える必要があるから……と、部屋で食事を食べるというのは、それはそれで気を遣うものであることがわかった。
朝ごはんをいただく。天ぷら、イカ刺し、湯豆腐、温泉たまご、カレイの一夜干しなど。

瓶ビールを飲んでいると、Hさんが「朝からビールですか。よろしおますなあ」と言う。「Hさんは、この旅館は長いんですか?」と聞いた。「ふふふ。この旅館でいちばんの古株なんです。それでもまだ16年ですよ。いつの間にか、日が経ちました。この仕事はここが初めてで、初めてさしてもうて、まさかこんなに長くにおると思うへんかったんだけど、おるんですね。どうしましょう」とのこと。
「この旅館の居心地がよかったのか、初めてなもんで、他と比べようもないんです。ふふふ」と言う。「城崎温泉には初めて来たんですが、いいところですね」「そうですか。ええ。でも私らなんか、ここのお風呂入ったことないんです。お仕事終わったらサッと帰るしね。私は豊岡で、ここから15分か20分だから。それに私らはこの城崎温泉に籍があるわけやないから、お風呂に入ろうと思ったら600円払わなあかんの。ふふ。町の人はだいぶ安く入れるんですけどね」と、当然のことだが、Hさんにとって城崎温泉は暮らしのための場なのであった。
食後、部屋の畳の上でひと眠りして荷物をまとめて外へ出る。Hさんが「行ってらっしゃいませ」と見送りしてくれる。お世話になりました。
この少しの間をなんとか記憶に留めたいと思った
昨日ロープウェイに乗った近くの「鸛(こう)の湯」から今日の外湯めぐりをスタートすることに。

庭を眺められる広い露天風呂が素晴らしい。陽光が湯を通り抜け、湯舟の底に光の模様を作る。それがゆらゆらと揺れるのを眺める。視線を上げると立ち上がる湯気を通って光が差し、これ以上何を望もうかという気持ちになる。
昨日通らなかった裏道を歩こうと思ってうろうろと散策していると、「城崎文芸館」という施設を通りかかった。何の気なく入ったが、展示を見ていて、「そうか城崎温泉と言えば、『城の崎にて』だ」と今さら思う。館内では志賀直哉のこの短い小説のことが詳しく解説されていた。
『城の崎にて』は「山の手線の電車に跳ね飛ばされて怪我をした」という一文で始まる。絶対にかつて読んだことがあるはずなのに、初めて読むような衝撃を受けた。「山の手線の電車に跳ね飛ばされて怪我をした」……それはすごいことだ。
志賀直哉は、友人で小説家の里見弴と遊んだ帰りに線路のそばを歩いていて、不注意からか、やってきた電車にぶつかったのだという。命に別条はなかったものの、背中に重症を負い、「頭は未だ何だか明瞭しない。物忘れが烈しくなった」と、後遺症もあったようである。その療養にと訪れたのが城崎温泉だった。3週間ほど滞在し、この街が気に入ってその後も幾度となく来たそうだ。
「生きている事と死んで了っている事と、それは両極ではなかった」と、小説のなかの一文が抜き出して展示されていた。私は改めて『城の崎にて』を読みたくなって、館内で売られている、小説と解説がセットになっているミニブックを買った。

その後、私は、仲居のHさんがおすすめしてくれた海鮮料理の店で昼食を取り、「御所の湯」「柳湯」をめぐって無事に7つの外湯をめぐり終えた。



「御所の湯」の露天風呂に入っていると、ニューヨークから来たという人が別の客に日本語で話しかけられていた。聞こえてくる会話によれば、ニューヨークから日本に来てしばらく滞在し、全国を観光している途中らしい。
「これからどこに行くの?」「広島に行きます」「おお、広島ね! もみじまんじゅう! 原爆ドーム」「もみじまんじゅう? それはお好み焼き?」「いや、もみじまんじゅう! もみじまんじゅう! 広島のあとはどこに行く?」「福岡に行って、そのあとは、北海道に行く」「すごいな! めっちゃ遠い! ベリーベリー、遠い」「いま、アメリカのドルが高いから、日本がすごくいい」「ああ、そうやな。いいなー!」
風呂上りに近くの酒屋の店内でまたクラフトビールを飲み、外湯めぐりも終えたことだし、そろそろ帰ろうかと思った。さっき行った文芸館で、志賀直哉が「東山公園」という近所の公園をよく散歩していたというようなことが書いてあったのを思い出し、最後にそこに寄っていくことにした。途中、コンビニがあったので缶入りの「緑茶割り」を買った。
東山公園は温泉街から少し外れた北東方向にあり、急な斜面を登っていく、小山のような場所だった。志賀直哉がここを歩いたんだなと思いながら坂を上る。

山の上にポツンと展望台が建っていて、階段で上まで登れるようだった。

息を切らして上がっていくと、小さなスペースだが、ぐるりと周囲の景色を見晴らせる場所に出た。

昨日今日と歩き回った街も、ロープウェイで行った山上や露天風呂の上から眺めた川も、またここから見ることができた。昨日の混雑が嘘のように、この公園には人の姿がまるでなく、ただただ静かに景色が広がっているだけだった。

リュックの中から、コンビニで買った緑茶割りの缶を取り出し、その一缶を飲み終えるまで、ずっとそこにいた。街のほうを見て、川の流れる先を見て、山や木を見て、また街を見る。遠くを走る電車の走行音、鳥と虫の鳴く声、風の音。それは神々しいようにすら思える時間で、私はこの少しの間を、いつでも鮮やかな状態で取り出せるよう、なんとか記憶に留めたいと思った。それが無理なのもわかっていたが、どうしてもこの時間だけは、と思った。

大阪へ向かう電車の中で、『城の崎にて』を読んだ。
ある午前、自分は円山川、それからそれの流れ出る日本海などの見える東山公園へ行くつもりで宿を出た。「一の湯」の前から小川は往来の真中をゆるやかに流れ、円山川へ入る。
という一文があり、自分が歩いた道が志賀直哉の足跡と重なり合うような気がしてなんだか嬉しかった。電車にはねられ、きっと強く死を意識したであろう志賀直哉が、城崎温泉で見た色々なもののなかに、生と死のあっけない近さを感じ取っていたのが伝わってくる文章だった。
「生きている事と死んで了っている事と、それは両極ではなかった」と、私も最近そう思うことがある。でもやはり、生きているから、お湯の熱さに、魚の味に、海と山と街がある景色を眺めながら飲む緑茶割りに、幸せを見い出せるのだろう。生きていることはいい。本当にいいことだと思って、早くも思い出になりつつあるさっきまでの時間を一から反芻してみるのだった。
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スズキナオ『自分を捨てる旅』次回第23回は、2023年12月15日(金)17時配信予定です。
筆者について
1979年東京生まれ、大阪在住のフリーライター。WEBサイト『デイリーポータルZ』、『集英社新書プラス』、月刊誌『小説新潮』などを中心に執筆中。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』、『酒ともやしと横になる私』、『関西酒場のろのろ日記』、『遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ』、『「それから」の大阪』、パリッコとの共著に『酒の穴』、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』、『“よむ”お酒』、『のみタイム 1杯目 家飲みを楽しむ100のアイデア』がある。