自分を捨てる旅
第2回

上を向いて有馬温泉を歩く

暮らし
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第94回米アカデミー賞に作品賞、監督賞、脚色賞、国際長編映画賞の4部門にノミネートされた『ドライブ・マイ・カー』の濱口竜介監督。同監督による演技未経験の出演陣とそれまでの演出方法を磨き上げ現代映画のひとつの到達点となった『ハッピーアワー』。スズキナオさんの旅エッセイ第2回は、『ハッピーアワー』のロケ地である神戸・有馬温泉を訪れます。

かけがえのない瞬間が待っている

『ドライブ・マイ・カー』や『偶然と想像』といった近作が海外の映画賞を受賞して話題になっている映画監督・濱口竜介の2015年公開作が『ハッピーアワー』だ。濱口監督が講師を務めた「即興演技ワークショップ in Kobe」という講座をベースにして制作された映画で、映画に出演しているのも、その講座の参加者である。

と、さも知ったような感じで書いているが私が『ハッピーアワー』を初めて観たのは昨年2021年のことで、映画のなかに監督本人が出ていることにも気づかなかったほど、当初は濱口監督についてよく知らなかった。

なぜ映画を観たかといえば、好きでよく飲みに行く神戸の町が舞台であるらしいこと、摩耶山(まやさん)の山頂へ行くために乗るケーブルカーがメインビジュアルに使われていること、Twitterで何度かその映画の名を目にしていたような気がすること、などが徐々に効いてくるパンチみたいに(そういうパンチを実際に受けたことはないが)蓄積していったからだ。また、上映時間が5時間17分もあるそうで、「そんなに長い映画って、観終えたらどんな感じがするんだろう」という興味もあった。

検索してみるとブルーレイディスクがリリースされているようで、それを買って自宅で見るのであれば、途中でもし眠くなっても安心だ(私は映画を見ているとたいてい眠くなるのだ)と思った。

届いた2枚組のディスクを早速観てみると、最初は役者たちの演技やセリフまわりがぎこちないものに思え、それに慣れるのに少しの時間を要したが、そのうち、メインの登場人物である4人の女性が本当にその役としてこの世界のどこかに存在しているように思えてきた。自分が知っている神戸の風景もたくさん映り、「あ、この道歩いたことがある!」などと思いながら観るのも楽しかった。

人と人が言葉を交わし、それがすれ違って気まずさを生み、「人間というのは結局はわかり合えないものなんだ」と寂しく感じるシーンもあり、しかし最後には「それでも言葉で気持ちを伝え合った先にかけがえのない瞬間が待っていることもある」という思いにたどり着いていた。

その後、気になったシーンを繰り返し再生したり、映画館で上映された機会に改めて全編を観直したりして、そうするごとに作品の印象が少しずつ変わっていくのがまたおもしろかった。

有馬温泉に行ってみたい

何度も『ハッピーアワー』を観ていて、そのたびに思うのが「有馬温泉に行ってみたい」ということだった。有馬温泉は神戸市北区にある、神戸の中心街からもそう遠くない温泉地で、たとえば三ノ宮駅前から直通のバスが出ていたりする。大阪・梅田から直行するバスもある。それぐらい身近な温泉地として認知されている場所なのだ。しかし私は行ったことがない。

映画のなかで、有馬温泉は非常に重要な場所として描かれる。30代を超えてから仲良くなったという4人の女性が旅行に出かけるのが有馬温泉で、彼女たちが温泉街をのんびり歩くシーンが登場する。4人が滝の近くを歩き、その前で記念撮影をするシーンがある。宿で麻雀卓を囲みながら浴衣姿の4人が会話する場面がある。話し合ううちに4人はお互いにまだまだ知らない部分があることを知り、「はじめまして」とお互いに挨拶し合う。そしてこの有馬温泉のシーンを最後に、4人が一緒の場に揃うことはなくなる。有馬温泉への旅行が、彼女たちが4人で共有した時間の最後のものとなる。

その有馬温泉を歩いてみたい。「彼女たちがあのとき見ていたのはこういう景色だったのか」と自分の目で確かめたい。繰り返すが、有馬温泉は神戸の中心街からそれほど遠くない場所にあるので、思い立ってしまえば拍子抜けするほどにすぐ行くことができた。映画のなかの4人は、4人のうちのひとりの夫が運転する車に乗って有馬温泉へ行くが、私は電車を使った。

JR三ノ宮駅まで向かい、神戸市営地下鉄に乗り換える。谷上(たにがみ)という駅から有馬口行きに乗り換え、今度はそこで有馬温泉行きの電車に乗り換える。乗り換え時の手間はあったけど、家を出てから1時間半後にはもう有馬温泉駅のホームに立っていた。家の近所より空気がしんと澄んで、少し気温が低い気がした。

「有馬温泉」と行き先名が表示された電車に乗れるのがなんだか嬉しい

駅前のローソンで缶チューハイを買い、念のためリュックに入れておく。どこで飲みたくなってもいいようにだ。駅前に設置されていた地図をザッと憶えて適当に歩いていくと、すぐに映画に出てきた有馬川沿いの風景が広がった。

映画撮影時よりだいぶ整備されていた川沿い

川のほとりを歩けるようになっていて、映画のなかではそこを4人組のうちのひとりの夫と、その夫が編集者として一緒に仕事をしている若い女性作家が歩き、それを4人が遠くから見つけて手を振るのだが、その映像のなかの川沿いとは違い、だいぶ整備が進んでいた。とはいえ、4人が立って手を振っていた手すりは残っていて、「彼女たちはここからあっちを見ていたんだな」と確かめられたことが嬉しかった。

ここに4人がいた時間が確かにあった

この缶はずっとここにあったのかもしれない

そこからさらに先に進むと、有馬温泉の名物である「炭酸せんべい」や饅頭などを売る土産物屋が並ぶ一角が見え、細い路地沿いに古い建物が並ぶ風景へと続く。そこがもっとも温泉街らしい雰囲気が漂う場所で、平日の昼下がりでも、私と同じような観光客らしき人たちの姿があった。

特に目的地も決めず、気になったほうへ進んでいくと「天神泉源」という温泉源に着いた。高温の源泉から立つ蒸気が白煙となってパイプの先からのぼっていく。マスクをおろしてみると、鉱物のような匂いがした。

「鼓ヶ滝(つつみがたき)」という滝が徒歩圏内にあるようで、映画の中で4人が記念撮影をしていた場所がそこなのではないかと思って歩く。道の脇の草むらに、アメリカの星条旗をモチーフにしたようなすごく古いデザインの空き缶が転がっていた。ここ数年内に捨てられたものとは到底思えなかった。

この空き缶はいつのものだろう

ひょっとしたら20年とか30年とか前のものではないだろうか。映画が撮影されていたときも、この缶はずっとここにあったのかもしれない。坂道を少しのぼっていくと、滝が見えてきた。温泉街にはたくさんの人の姿があったのに、まわりを見渡してもここには私しかいないようだった。

最初は自信が持てなかったが、滝を目の前にした場所にある手すりの感じに見覚えがあって、やはり4人が記念写真を撮ったのはこの滝の前だと思った。映画のなかでは滝の前にベンチがあって、そこに座っていたひとりの女性が4人に頼まれてスマホのシャッターを押す。

この滝の前で4人が最後の記念写真を撮った

その写真は4人が一緒に写った、おそらく最後の写真だ。写真を撮るとき、4人のうちのひとりが「写真は笑顔で撮るんが勝ちや」「笑顔で撮っておけば、あとで見たとき、よう覚えてへんけど、あのときむっちゃ楽しかったんやなってことになんねん」と言い、もうひとりが「なんやねん。実際むっちゃ楽しいっちゅうねん」と言い返す。4人は笑顔で滝の前に立って、それを偶然そこに居合わせた人が撮影する。今ここに4人がいたら、「シャッターを押してください」と私が頼まれるかもしれない。そう考えるとドキドキした。

ちょっと飲むとスーッと通りますねぇ

滝のすぐそばには「滝の茶屋」という、おでんや甘酒などを出す茶屋があって、その建物はあるのだが、冬季は長く休むようで、再開は「3月ごろ」と書いた紙が貼られていた。そういえば、来る途中に「ます池」という、釣り堀でマスを釣ってその場で唐揚げにしてもらって食べられるという施設があって、そこは今日が定休日だった。私は間が悪いときに来てしまったのかもしれなかった。まあ、だからこそ静かに滝を眺められるとも言えるか。リュックのなかから缶チューハイを取り出し、滝を見ながら飲んだ。

再び温泉街に戻り、昼食をどこかで取ろうと思った。定食が食べられるらしい「食堂森本」、芦屋に本店のある蕎麦の人気店「土山人(どさんじん)」など、いくつかのお店に惹かれつつ、「う越利(おとし)」という寿司屋へ入ることにした。

寿司屋だけど町の食堂っぽくもあり、うどんもいち押しらしい

そこで私は親子丼を注文し、「いや、ここはお寿司とうどんのセットだったろう」とすぐに後悔したが、実際に親子丼を食べてみると「ああ、これを注文してよかった」と思った。甘じょっぱい出汁がたっぷりとご飯に沁み、玉子も鶏肉も柔らかく、食べながら「これはもはや、おかゆ」と思った。体にいいことをした気分で外へ出た。

美味しかった「う越利」の親子丼

食欲が満たされ、私は「金の湯」という公共浴場へ向かう。「う越利」からはほんのちょっとの距離だ。

気軽に有馬温泉の湯を堪能できる「金の湯」

料金を払って階段をのぼり、浴場へと足を踏み入れる。さっき温泉源で感じたのと同じ匂いの赤茶色の湯舟がふたつある。そのふたつは「ぬる湯」と「あつ湯」になっていて、体を洗ったあと、まずは「ぬる湯」に、慣れたところで「あつ湯」に入った。

赤茶色のお湯を両手で掬ってみる。手の平のなかでもそのお湯は茶色い。重なった手の隙間からこぼれたお湯が水面に波紋をつくる。その波紋が、普段私が近所の川で眺める波紋より、とろーっと、粘度を持った動きに見えたのは気のせいだったろうか。改めて視線を前に向けると、視界はもうもうとした蒸気に包まれ、その向こう、天井に近い部分にはめ込まれた5角形の窓から青い空がのぞき、こちらに光を通している。蒸気を貫いて届く光が美しく、その前を裸の人たちが時折行ったり来たりする。

温泉を出て、ロビーで売られている「有馬サイダー」を買った。瓶に口をつけようとしたそのとき、床を掃除しているスタッフの方が「ゆっくり飲んでくださいね。炭酸が強いですからゆっくりとね。私なんか炭酸が苦手なもんで、ちょっとしか飲まれへん。喉の通りが悪い時なんかにちょっと飲むとスーッと通りますねぇ」と声をかけてくださった。なるほど本当に炭酸が強い。私は炭酸水でも缶チューハイでも「強炭酸」と表示してあるようなものが好きだけど、これはすごい。すぐに飲み干せるようなものではない。

甘さも控えめですっきりしておりすごく好みだった

ちなみに有馬温泉を代表する公共浴場としてこの「金の湯」と、透明なお湯の「銀の湯」のふたつがあって、多くの人はその両方をハシゴするらしいのだが、なんと「銀の湯」は2月いっぱい改修工事中なのだとか。つくづく間の悪い私だ。

お賽銭を入れると音楽とお経が流れます

温泉を出て、少し坂を登って行った先に「炭酸泉源公園」という公園があるという。おもしろい名前だなと思ってそこへ向かってみる。途中に石仏、その横に賽銭箱がある。「お賽銭を入れると音楽とお経が流れます」という木札が横にくっついている。

石仏の脇に設置されていた賽銭箱

「音楽とお経……」気になって、お賽銭を投げ入れてみると、少し間があったあと、くぐもった音で聴いたことのあるイントロが流れる。「うっえっをむういーてぇ あーるこーおっおっおっ なっみっだがぁ こーぼれーなーいよーおっおっに」と、坂本九の歌声が聞こえたと思うとそこでブツッと曲が途切れ、「はんにゃーはらみーたー ぎゃーてい」と、いきなりお経を唱える声が流れ、また唐突に終わる。

「なんだこれ」と、なんだか愉快な気持ちになって歩き、「炭酸泉源公園」へたどり着く。文字通り炭酸泉源がある公園で、炭酸泉を飲むことのできる蛇口があった。蛇口をひねると、頼りない、ちょろちょろっとした流れが手のひらに落ちてきた。少しだけすぼめた手にそれを受け、飲んでみる。鉄の味がして、なるほどその奥に、ほんのかすかに炭酸がはじける感触があった。

有馬温泉に湧く炭酸源

脇の立て札に「一度に多量にお飲みになると、お腹を壊す恐れがありますのでご注意ください」とあり、少し不安になる。そして、映画のなかにそのような場面はなかったけど、『ハッピーアワー』の4人もここまで来てこの炭酸泉を飲んだのではないかと想像した。

「なにこれ! 鉄やん! 血の味や」「ほんまや。炭酸ってゆうけどシュワッとする? せんくない?」「いや、私いま、ちょっとしたかも。めっちゃ少しやけど」「するかぁ? 見て! お腹壊すって書いてんで!」「こんな少しやったら大丈夫やって」「ほんまかー?」などと笑い合ったかもしれない。

気が済んだ私は、有馬温泉駅の近くまで戻ってきた。そこまで来てふと、「待てよ。さっきの音楽の流れる賽銭箱。あの1曲だけとは限らないよな。ランダム再生になっていて、ひょっとしてTRFの『EZ DO DANCE』が流れる可能性だって、ないとはいえない」と思ってしまった。思ってしまったからには確かめねばならない。来た道を再度引き返し、さっきの石仏の前まで来た。賽銭を投げ入れて待つ。

チャリーン。イントロ……。「うっえっをむういーて あーるこーおっおっおっ」

私は確信した。あの4人もここで「何これー」と立ち止まって賽銭を入れ、きっとこの曲を聞いて笑った。

「なんでこの曲やねん! まあいい曲やけどさ」「ええやん。名曲やで」「そしたら私らも上を向いてもう少し歩きますか!」「上向いてたら危ないで! ほらっ」

「上を向いて歩こう」(作詞:永 六輔/作曲:中村八大)

筆者について

スズキナオ

1979年東京生まれ、大阪在住のフリーライター。WEBサイト『デイリーポータルZ』、『集英社新書プラス』、月刊誌『小説新潮』などを中心に執筆中。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』、『酒ともやしと横になる私』、『関西酒場のろのろ日記』、『遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ』、『「それから」の大阪』、パリッコとの共著に『酒の穴』、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』、『“よむ”お酒』、『のみタイム 1杯目 家飲みを楽しむ100のアイデア』がある。

  1. 第1回 : 蔵前のマクドナルドから
  2. 第2回 : 上を向いて有馬温泉を歩く
  3. 第3回 : つながっている向こうの場所で
  4. 第4回 : 敦賀の砂浜で寝転ぶ
  5. 第5回 : 家から歩いて5分の旅館に泊まる
  6. 第6回 : 煙突の先の煙を眺めた日
  7. 第7回 : 犬鳴山のお利口な犬と猫
  8. 第8回 : 暑い尾道で魚の骨をしゃぶる
  9. 第9回 : 湖の向こうに稲光を見た
  10. 第10回 : 枝豆とミニトマトと中華そばと
  11. 第11回 : あのとき、できなかったこと
  12. 第12回 : いきなり現れた白い砂浜
  13. 第13回 : 予備校の先まで歩くときがくる
  14. 第14回 : “同行二人”を思いながら野川を歩く
  15. 第15回 : 米子、怠惰への賛歌
  16. 第16回 : 生きなきゃいけない熊本
  17. 第17回 : 和歌山と姫路、近いけど知らないことばかりの町
  18. 第18回 : 幸福な四ツ手網小屋と眠れない私
  19. 第19回 : 熱海 夜の先の温泉玉子
  20. 第20回 : 今日もどこかでクソ面倒な仕事を
  21. 第21回 : 海を渡って刺し盛りを食べる
  22. 第22回 : 城崎温泉の帰りに読んだ『城の崎にて』
  23. 第23回 : 寝過ごした友人がたどり着いた野洲駅へ、あえて行く
  24. 最終回 : 秩父で同じ鳥に会う
連載「自分を捨てる旅」
  1. 第1回 : 蔵前のマクドナルドから
  2. 第2回 : 上を向いて有馬温泉を歩く
  3. 第3回 : つながっている向こうの場所で
  4. 第4回 : 敦賀の砂浜で寝転ぶ
  5. 第5回 : 家から歩いて5分の旅館に泊まる
  6. 第6回 : 煙突の先の煙を眺めた日
  7. 第7回 : 犬鳴山のお利口な犬と猫
  8. 第8回 : 暑い尾道で魚の骨をしゃぶる
  9. 第9回 : 湖の向こうに稲光を見た
  10. 第10回 : 枝豆とミニトマトと中華そばと
  11. 第11回 : あのとき、できなかったこと
  12. 第12回 : いきなり現れた白い砂浜
  13. 第13回 : 予備校の先まで歩くときがくる
  14. 第14回 : “同行二人”を思いながら野川を歩く
  15. 第15回 : 米子、怠惰への賛歌
  16. 第16回 : 生きなきゃいけない熊本
  17. 第17回 : 和歌山と姫路、近いけど知らないことばかりの町
  18. 第18回 : 幸福な四ツ手網小屋と眠れない私
  19. 第19回 : 熱海 夜の先の温泉玉子
  20. 第20回 : 今日もどこかでクソ面倒な仕事を
  21. 第21回 : 海を渡って刺し盛りを食べる
  22. 第22回 : 城崎温泉の帰りに読んだ『城の崎にて』
  23. 第23回 : 寝過ごした友人がたどり着いた野洲駅へ、あえて行く
  24. 最終回 : 秩父で同じ鳥に会う
  25. 連載「自分を捨てる旅」記事一覧
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