自分を捨てる旅
第7回

犬鳴山のお利口な犬と猫

暮らし
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多くの人が出勤する時間、逆方向に向かって、夕方までの旅に出る。家を出てそれほどの時間が経ってないのに、同じ空間の文庫本のページをめくるかすかな音が聞こえるほど静かな場所にいる。何かに追われて焦る必要の一切ない時間。

世界に一番近い温泉

起きてみると天気がよかったので午前中に家を出た。夕飯の準備までに戻ればいいから、7時間はある。以前、大阪市内からそれほど時間をかけずに行ける近場の温泉街をインターネットやガイドブックであれこれ調べたことがあって、その時に気になっていた「犬鳴山温泉」に向かってみることにした。

「犬鳴山」と書いて「いぬなきさん」と読むその場所は大阪府の南部、泉南と呼ばれるエリアにあり、南海電鉄の泉佐野駅前からバスに乗って30分ほどの距離だという。泉佐野市には関西国際空港があるから、そこから距離的に遠くない犬鳴山温泉は“世界に一番近い温泉”というキャッチフレーズで知られていたりもするようだ。

今、改めて犬鳴山のことを調べてみたところ、福岡県にあって心霊スポットとして有名らしい「犬鳴峠」や「犬鳴トンネル」とか、“そこに足を踏み入れた者は二度と戻れない”みたいな都市伝説から生まれた「犬鳴村(実際はそのような村は存在しないが犬鳴峠の近くにあるとされる)」と混同されることがすごく多いみたいだ。今回行くのは福岡のほうではなく大阪の「犬鳴山」だ(が、犬鳴山にも「犬鳴山トンネル」という心霊スポットがあったりするそうでややこしい……)。

さて、私は新今宮駅から南海電鉄に乗り換えて泉佐野駅を目指すところだ。新今宮駅で自分がこれから乗る電車が来るホームへ向かって歩いていると、前方から今電車を降りてきたばかりの人たちが大勢歩いてきて、それが左側通行とか右側通行とか関係なく、壁のようになってこっちに迫ってくる。私は仕方なく自分の体を横向きにし、できるだけ平べったい形状になって人の壁をすり抜けた。こういうとき、「集団って怖い」と思う。たぶんみんな別に悪気はない。それぞれがただ改札を目指しているだけなのだろうが、大きな塊になると、逆方向に進む人がいるかもしれない可能性に無頓着になる。露骨に嫌な顔をされることもある。

100人の集団がいるとして、99人が進もうとする方向と別の方へ行こうとする1人の権利はどうしても軽視されがちだ。それが集団というものの性質なのだろう。私はできるだけ集団を避け、個人として暮らしつつ、綱引きの綱を(最終的には向こうに持っていかれるとしても)できるだけこっち側で踏ん張って引っ張りたい。大きな組織に馴染めなかった会社員時代を思い出して少し暗い気持ちになりつつ、泉佐野へ向かう電車に乗った。

泉佐野駅に降り立つのは初めてだった。時間に余裕があったら後で駅前を散策しようと思いつつ、まずは犬鳴山を目指す。改札を出てすぐのバス乗り場に「日根野駅前・犬鳴山方面行」と表示されていたので、そこで待つ。

南海電鉄・泉佐野駅前の風景
泉佐野駅から30分ほどで終点の犬鳴山停留所に着くらしい

やって来たバスに乗り、まずは運転手にお願いして「犬鳴山1dayフリーパス」を購入する。これがあると700円で泉佐野~犬鳴山区間が乗り降り自由になるうえ、犬鳴山温泉にある数軒の施設で日帰り入浴が割引になるというのである。そもそも泉佐野から犬鳴山へ行くだけで片道480円の運賃がかかるので、これは絶対に買っておくべきものである。

犬鳴山の「七宝瀧寺」で体験できる滝行の写真が配置されたすごいカード

走り出したバスは、私がまだ知らぬ町を進み、徐々に山道へと入っていく。途中で「水呑地蔵」を通り、頭の中に見たことのないお地蔵さんが一瞬浮かぶ。窓の外はすっかり山の緑だ。

乗客が一人降り二人降り、窓の外がどんどん緑になっていく

終点の犬鳴山停留所でバスを降り、温泉案内図の前にぼーっと立つ。さっき買った「犬鳴山1dayフリーパス」で割引になる温泉が4つあるというから、その4つを全部巡ることにしよう。まず、そのなかのひとつ「山乃湯」へ行ってみることにする。山の上へと続く坂を数分歩くともう看板が見えてくる。

犬鳴山温泉街は徒歩ですぐにまわれてしまうほどの規模
目的の「山乃湯」はすぐに見つかった
この奥に入口がある

日常からの脱出にいきなり成功したような気分

うっそうと茂る緑をかき分けるようにして階段を下りる。営業しているのかどうか不安になる雰囲気だが、ドアは開き、ランニング姿のご主人に入浴料を払って「階段を降りて左がお風呂」と聞いて進む。この時間の客は私ひとりだそうで、許可をいただいて写真を撮らせてもらった。

階段を降りていくとその先がお風呂
窓からの眺めがいい
脱衣所から見える景色

体を洗って湯舟につかってみると、とろっとした感じのある素晴らしいお湯だった。硫黄の香りがふわっと立ち上がって心が落ち着き、肌を撫でるとツルツルした感触。時間がよかったのか、このお湯に貸し切り状態で身を浸していられることに幸せを感じる。窓の外の木々を眺めながら、日常からの脱出にいきなり成功したような気分を味わった。

お風呂から出て再びご主人のいた階上へ戻る。お風呂に入った際にチラッと見たのだが、飲み物や軽食のメニューも用意されているようだった。ご主人はお食事中らしかったので料理を注文するのは遠慮しておくとして、瓶ビールぐらいならいいんじゃないかと思って聞いてみる。「ビールを飲んでもいいですか?」「え?」「瓶ビールって、ありますか?」「ビール?」「ここで瓶ビールを買って飲んでもいいでしょうか」「ああ、そこから取ってな。栓抜きは上や。グラスも取ってや」と、そんなやり取りがあった末、座敷に上がり、キンキンに冷えたビールにありついた。

すごく懐かしい香りのする空間だった

扇風機の風を浴びて少しのぼせた体を冷やし、ゆっくりとビールを飲む。すごく静かで、ご主人が文庫本のページをめくるかすかな音が聞こえるほどだ。家を出てそれほどの時間が経ってないのに、ここでこうしていることが不思議でならない。夏、山形の親戚の家に家族で帰省して、外は暑いからといってどこにも行かずに畳の部屋でゴロゴロして過ごしている時のような、何かに追われて焦る必要の一切ない時間だ。窓は閉め切られているから外の音はあまり聞こえないが、木々の葉が揺れるので風の動きはわかる。

心が落ち着く場所だった

だいぶ時間をかけてビールを飲み終え、代金を支払って外へ出た。改めて「山乃湯」の外観を眺める。周辺には緑に覆われて別の何かになったような古い車が何台もあって、見入ってしまう。

「山乃湯」外観
いつからここにあるんだろう
美しさを感じる廃車たち

バスの停留所のほうへ引き返すとその近くに「不動口館」という温泉旅館があって、そこの日帰り入浴も割引料金で利用できる。

「不動口館」すごく綺麗な温泉旅館だった

フロントで代金を支払い、ロビーを通ってエレベーターで大浴場へ向かう。日帰り入浴を利用すれば当然そういうことになるわけだが、なんだか、宿泊客でもないのにいいとこ取りしたような気になる。

ここもまたいい湯だったな

不動口館の露天風呂は目の前が川で、川の流れと川を覆うように伸びる木々を湯舟からずっと眺めて過ごした。さっきの山乃湯とはだいぶ趣きが違うけど、ここはここで素晴らしい。

犬鳴山温泉郷を流れる樫井川。不動口館の露天風呂からはこの川が間近に見えた

この日ほとんど誰とも言葉を交わしていなかった私は……

次に向かうのは「犬鳴温泉センター」。ここでも日帰り入浴ができるらしい……と思ったのだが、あいにく取材時は定休日だった。しかし、玄関の前に白い犬がいて、犬鳴山の看板犬に会えただけで得した気分になった。定休日だと気づかずに入口に私が近づいても吠えたりしないお利口な犬。

リリーちゃんという名の看板犬が番をしていた

さらに少し歩くと「空」という名のカフェ・レストランがあった。ここで昼食をとることにする。川沿いに建てられた店で、川を渡る橋の上にもテラス席がしつらえてある。

川沿いのレストラン「空」
川音を聞きながら食事できる

「お好きな席にどうぞ」と言われた私が川べりの席に腰かけると、お店の方が「そこがいちばんの人気席」と言いながらメニューを持ってきてくれた。「犬鳴地鶏ときのこの釜飯セット」を注文すると「炊けるまで30分かかるけど、いい?」と聞かれる。時間はまだある。「大丈夫です!」と言い、それまでのつなぎとしてチューハイレモンもお願いした。

レモンチューハイにはお通しもついて、さらには釜飯セットのサラダも運ばれてきたので、これでたっぷり間がもちそうだ。

お通し皿のいちばん右にあるのは犬鳴地鶏のハムだ

美味しい地鶏ハムを食べつつ、チューハイを飲み、川の音を聞き、目の前の釜の燃料が燃えているのを眺める。この火が消えたら食べ頃とのこと。火が消える直前にいい匂いがしてくるそうで「それがたまんないの」とお店の方の言。

釜飯が炊けるのをゆっくり待つ時間も贅沢に思える

言われたとおり、湯気が吹き出しはじめ、たまんない匂いがしてくる。いよいよもうすぐ炊き上がりか! と思ったところで、この店の猫、さくらちゃん(名前は後で聞いた)がとことこと歩いてきて、私の膝に乗った。

炊き上がりとほぼ同時にさくらちゃんが歩いてきた
スマホを立てかけてセルタイマーで写真を撮ったらちゃんと顔を出してくれた

と、こんな写真を撮っている私の目の前には炊き立ての釜飯があるのだ。さくらちゃんを膝に乗せつつお椀によそって食べる。あっさりした味付けで素材の風味が際立って美味しいな。

地鶏もきのこもたっぷり入った釜飯
鍋底のおこげまでしっかりいただいた

膝の上のさくらちゃんは、別に釜飯を分けて欲しくてやってきたようでもなく(もちろん勝手にあげたりしてはいけないのだろうけど)、ただじっといて、時折ニャーと鳴く。この日ほとんど誰とも言葉を交わしていなかった私は、さくらちゃんに話しかけつつ釜飯を食べる。「ここはいいところだね。静かでいいね」「……」「こんなところにやってきてあなたは幸せだね」「……」「釜飯美味しいね」「……ニャー」と、思っていることが言葉にできてうれしかった。

さくらちゃんと別れて外に出て、最後に「み奈美亭」の日帰り温泉に入っていく。

「み奈美亭」も大きくて綺麗な旅館だった

再び汗を流してさっぱりして、露天風呂にゆっくりつかる。こうしてあちこちの日帰り温泉をめぐるというのもなかなかいいものだな。少しずつ温泉の濃度が違うのがわかったり、浴場の雰囲気やそこから見える風景を「ほほう、全然違うものだな」と吟味してまわって、温泉評論家になった気分だ。

「ここはすごい店やで。こんな店は梅田にも難波にもないわ!」

外に出てバス停のほうをのぞいてみると、ちょうどバスが来たところらしかった。たしか1時間に1本のペースだったなと、事前に見てあった時刻表のことを思い出し、慌てて飛び乗った。私が乗るとすぐにドアが閉まり、バスは出発した。

いつの間にか私は眠っていたようで、終点の泉佐野駅に到着したことを告げる運転手のアナウンスで目が覚めた。ズボンの後ろポケットに入れていたはずの1dayパスのカードを取り出そうとすると……ない。リュックを探してみるもどこにも見当たらず、結局片道の運賃である480円を支払って下車したのだが、その代金が惜しいとかどうとかより、自分がさっきまで本当に犬鳴山温泉いたのか、寝起きのぼーっとした状態ということもあって不安になってきた。デジカメで撮った写真を確かめる。山乃湯で飲んだビールも、猫のさくらちゃんも映っている。大丈夫だ。現実だった。

家に帰らねばならない時間までまだ間があったので、泉佐野駅前を散策することにした。「駅上商店街」という小さなアーケード街を歩く。

泉佐野駅前の小さな商店街

これまた駅前のビルの2階にある「スーパースターレコードby更科」という店をふらっとのぞいてみると、店内に所狭しと貴重盤の並ぶすごいレコード屋だった。

泉佐野駅に降りることがあったらのぞいてみてほしい店

泉佐野駅のある泉南エリアは昔からレゲエがさかんで、それゆえか、レジ前にはレゲエのMIXCDがたくさん並んでいる。私はレゲエに詳しくないので、どれから聴いてみるべきか見当がつかなかったが、2枚組で1000円と手に取りやすい値段だった『今が浅井タイム!!』というMIXを買ってみることにした。

するとレジのなかの店主が、「このCDをこうてくれるとは、ありがとうございます。これ、私が2枚目の最後ではっぴいえんど歌ってますんで」と言う。「えっ⁉ 歌ってるんですか?」と言いながら財布からお金を取り出すと、すぐ近くにいた常連さんが「ここはすごい店やで。こんな店は梅田にも難波にもないわ!」と教えてくれた。

「有名人も来てるんやで」とお客さんが言い、店主が「有名人、誰かうちとこ来てたか?」と聞き返すと「来てるやん! 桑名晴子来たゆうてたやん!」と素早く切り返す。「桑名晴子、桑名晴子」と、私はその名を何度もころころと転がすように頭の中に思い浮かべながら泉佐野の強い日差しの下を歩く。

「スーパースターレコードby更科」で買ったMIX CD

帰宅後、買ってきた『今が浅井タイム!!』のCDを聴いてみると、夏らしくも暑苦しくはなく、どこかリラックスした気持ちで聴けるMIXで、すごくよかった。半信半疑だったけど、本当に2枚目の最後にあのレコード屋の店主と思われる人が「さよーなら! アーメリカ! さよーなら! ニッポン!」とダミ声でがなるように歌う声が収録されていた。「あんなにたくさんあったCDやレコードのなかからこれを選んだ自分、なかなかやるじゃないか」と思いつつ、私はそのCDをまた最初から再生して台所へ向かう。さあ、そろそろ夕飯を作らなくては。

筆者について

スズキナオ

1979年東京生まれ、大阪在住のフリーライター。WEBサイト『デイリーポータルZ』、『集英社新書プラス』、月刊誌『小説新潮』などを中心に執筆中。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』、『酒ともやしと横になる私』、『関西酒場のろのろ日記』、『遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ』、『「それから」の大阪』、パリッコとの共著に『酒の穴』、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』、『“よむ”お酒』、『のみタイム 1杯目 家飲みを楽しむ100のアイデア』がある。

  1. 第1回 : 蔵前のマクドナルドから
  2. 第2回 : 上を向いて有馬温泉を歩く
  3. 第3回 : つながっている向こうの場所で
  4. 第4回 : 敦賀の砂浜で寝転ぶ
  5. 第5回 : 家から歩いて5分の旅館に泊まる
  6. 第6回 : 煙突の先の煙を眺めた日
  7. 第7回 : 犬鳴山のお利口な犬と猫
  8. 第8回 : 暑い尾道で魚の骨をしゃぶる
  9. 第9回 : 湖の向こうに稲光を見た
  10. 第10回 : 枝豆とミニトマトと中華そばと
  11. 第11回 : あのとき、できなかったこと
  12. 第12回 : いきなり現れた白い砂浜
  13. 第13回 : 予備校の先まで歩くときがくる
  14. 第14回 : “同行二人”を思いながら野川を歩く
  15. 第15回 : 米子、怠惰への賛歌
  16. 第16回 : 生きなきゃいけない熊本
  17. 第17回 : 和歌山と姫路、近いけど知らないことばかりの町
  18. 第18回 : 幸福な四ツ手網小屋と眠れない私
  19. 第19回 : 熱海 夜の先の温泉玉子
  20. 第20回 : 今日もどこかでクソ面倒な仕事を
  21. 第21回 : 海を渡って刺し盛りを食べる
  22. 第22回 : 城崎温泉の帰りに読んだ『城の崎にて』
  23. 第23回 : 寝過ごした友人がたどり着いた野洲駅へ、あえて行く
  24. 最終回 : 秩父で同じ鳥に会う
連載「自分を捨てる旅」
  1. 第1回 : 蔵前のマクドナルドから
  2. 第2回 : 上を向いて有馬温泉を歩く
  3. 第3回 : つながっている向こうの場所で
  4. 第4回 : 敦賀の砂浜で寝転ぶ
  5. 第5回 : 家から歩いて5分の旅館に泊まる
  6. 第6回 : 煙突の先の煙を眺めた日
  7. 第7回 : 犬鳴山のお利口な犬と猫
  8. 第8回 : 暑い尾道で魚の骨をしゃぶる
  9. 第9回 : 湖の向こうに稲光を見た
  10. 第10回 : 枝豆とミニトマトと中華そばと
  11. 第11回 : あのとき、できなかったこと
  12. 第12回 : いきなり現れた白い砂浜
  13. 第13回 : 予備校の先まで歩くときがくる
  14. 第14回 : “同行二人”を思いながら野川を歩く
  15. 第15回 : 米子、怠惰への賛歌
  16. 第16回 : 生きなきゃいけない熊本
  17. 第17回 : 和歌山と姫路、近いけど知らないことばかりの町
  18. 第18回 : 幸福な四ツ手網小屋と眠れない私
  19. 第19回 : 熱海 夜の先の温泉玉子
  20. 第20回 : 今日もどこかでクソ面倒な仕事を
  21. 第21回 : 海を渡って刺し盛りを食べる
  22. 第22回 : 城崎温泉の帰りに読んだ『城の崎にて』
  23. 第23回 : 寝過ごした友人がたどり着いた野洲駅へ、あえて行く
  24. 最終回 : 秩父で同じ鳥に会う
  25. 連載「自分を捨てる旅」記事一覧
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