ねそべるてつがく
第5回

重いの

学び
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紀伊國屋じんぶん大賞入賞作『水中の哲学者たち』で話題の永井玲衣さんによる新連載「ねそべるてつがく」。つねに何かを求め、成長し、走り回らなければならない社会の中で、いかにして「考える自由」を探し求めることができるのか。「ただ存在するだけ運動」や「哲学対話」を実践する哲学者がつまづきよろめきながら、言葉をつむいで彷徨います。「考える」という営みをわたしのものとして取り戻す、新感覚の哲学エッセイ!  

目の前のひとの顔を眺めながら、わたしはこのひとの血を見たことがない、と思った。

あなたはつまらなそうに疲れたため息をつき、ぱらぱらとせわしなく新書のページをめくっていた。一ページ、二ページと進んだあと、やけに丁寧な手つきで一ページ、二ページ、三ページと引き返し、しばらくじっと見つめたあと、何の意図もなさそうにばらばらばらばらばらっと勢いよくページをめくり、もう一度ため息をついて本を机の上に載せた。あの頃は、まだあの喫茶店で煙草を吸えた。本を置いた拍子に、灰皿から紙くずの断片のような灰が舞って、あなたの腕にぴたりと張り付く。あなたは不機嫌そうに腕をくんで、黙って目をつぶり、平日の労働の疲労に身を浸していた。

わたしの身体はよく血を流す。少なくとも月に一度、わたしは自分の血を見る。夜に、おびただしい血をわたしは洗い流す。真っ赤な自分の血を。それを見ている。

「重いの?」

あなたは目をうっすら開けて、わたしにたずねる。何がとは言わない。うん、とだけわたしは答える。「無理しないで」とあなたは小声で言って、また目を閉じる。わたしはあなたの腕についた灰の欠片を見ている。わたしはあなたの血を見たことがない。

女性は15歳から50歳までが出産をして下さる年齢。『産む機械、装置の数』が決まっちゃったと。その役目の人が、一人頭で頑張ってもらうしかない。

「「女性は産む機械」発言の柳沢厚労相、安倍首相が厳重注意」2007年1月29日、AFPBB News

女性は産む機械だと、国のえらいひとが言った。わたしは15歳だった。「元気な赤ちゃんを産めるように」と大人たちはわたしに栄養の付くものを食べさせた。それをわたしは食べた。食べて、食べて、食べて、血を流して、また食べて、食べて、食べて、また血を流した。

わたしの意志とは関係なく、どくどくと流れる真っ赤な血がお風呂の排水口に吸い込まれていくのを見ながら、自分はこの国で、この場所で、何かを産む機械なのだと思った。保健の授業は退屈で、子宮の断面図は気持ちがわるく、宇宙人のようだった。期末テストは適当に受けて、14箇所ほどの解答欄を、ほぼすべて「卵巣」で埋めた。どれか一つに、苛立った様子の先生の丸がついていて、赤点だった。そのペンの色もまた、ひどく赤かった。

女子だけが集められた日パラシュート部隊のように膝を抱えて

飯田有子『林檎貫通式』/書肆侃侃房

どこかの戦場に降り立つ準備をするように、膝を抱えてわたしたちは座る。「おとなの女性になる準備です」。あの日、ピンクの白衣を着た先生が言った。「おかあさんになりたい」と帰り道に友だちが言った。見知らぬひとから「三人は子どもを産んでね」と言われた。テレビで「女性は地元に戻ってどんどん子どもを産んでもらわないと」と誰かが言った。だからわたしは、女性は産む機械と聞いたとき、なるほどうまいこと言ったものだなと、かすかに笑ったのだった。

わたしはずっと男になりたかった。おじさんになりたかった。物心が付く前から、スカートを履くことが、引き裂かれるように嫌いだった。「お出かけ」の日に、ワンピースを着なければならず、朝には喉が千切れるほど部屋で泣いた。学芸会はひとりだけ男役を選んだ。女になりたくなかった。「れい」という名は、男の名前だから気に入っていた。髪はずっと短かった。

安いチェーンの中華料理屋に入る。隣のひとが、長い爪をスマホの画面にガチガチと音をたてさせていじっている。チャーハンが運ばれてきて、そのひとはそれを食べる。くちゃくちゃという音が聞こえる。じっとりとした不快感がわたしの中に注ぎ込まれていく。カウンター席はべとべととしていて、肘がぬめっている。身体の奥底の、でもきっと誰にも探し当てることのできない場所に痛みを感じている。

痛みを感じるからこそ、自分を確かめられると言ったひとがいた。だが、本当に? 痛みはわたしと常に無関係だとわたしは感じる。腰にまとわりつく熱を帯びた痛み、何かが頭に巻き付いたかのような圧迫感、滴り落ちて溜まっていくわたしの血、それはわたしの存在とは関係がなかった。関係することができなかった。苦しみながら、痛みは他人事のようにすすんでいた。痛みはわたしを超えてあらわれた。

月経は社会や公的なコミュニケーションから排除されているといえる。つまり私たちは社会生活の中で、たとえ月経であっても月経でないふりをしなければならない。社会生活の中に月経を持ち込めないようになっている。

宮原優「なぜ月経を隠さなくてはいけないのだろうか? 月経のフェミニスト現象学」『フェミニスト現象学入門』ナカニシヤ出版、2020年、35ページ。

なぜわたしたちは「あれ」を隠すのだろうか? 恥ずかしいと思うのだろうか? 頑なに、その言葉を言わないように気を払うのだろうか? なぜ「ない」ふりをするのだろうか?

隣のひとがいじるスマホから、K-POPの女性アイドルグループのパフォーマンスがちらりと見えた。ほとんどの肌が露出していて、激しいダンスを踊っていた。彼女たちは「あれ」などないように笑っている。そんなもの、この社会に、この世界に存在しないかのように。きらびやかなテープが舞っている。

友だちが赤ちゃんを産んだ。抱っこした。やわらかくて、動いていて、こわれそうだった。子どもを産む機能があるらしいひとたちと集まって、かわいいねえと笑った。だがわたしたちは誰も、互いに「子どもはどうするの?」とは尋ねない。決して問うことはない。かつて、パラシュート部隊のように膝を抱えて集まったわたしたちは、互いに銃を向けることはしない。それぞれの戦場に降り立って、生きて、この年になって、誰かは出産して、誰かはそうではない。

「子どもを産まない方が幸せじゃないかと勝手なことを考えて(いる人がいる)」「皆が幸せになるためには子どもをたくさん産んで、国も栄えていく」

「「子ども産まない方が幸せ、勝手なこと」自民・二階氏」、2018年6月26日、朝日新聞

「この結婚[福山雅治と吹石一恵の結婚報道]を機にママさんたちが『一緒に子どもを産みたい』という形で国家に貢献してくれればいい」

「菅官房長官「出産で国に貢献」 福山雅治さん結婚で」、2015年9月30日、日本経済新聞

「父性や母性の感覚を養うことを否定する男性や女性は、何か根本的なもの、重要なものが欠けているのです。[……]文明は、父性や母性の豊かさを失うことで老齢化し、人間性を失っていきます。そして、私たちの祖国は子どもがいないために苦しみ、いささかユーモラスに言われているように『子どもがいない今、誰が私の年金のために税金を払うのか、誰が私の世話をするのか』となるのです。人は笑ってそう言いますが、これが真実です」

「教皇フランシスコ、「人口統計学的な冬」に子ども持つ代わりにペット飼う夫婦を批判」、2022年1月19日、CHRISTIAN TODAY

わたしは子どもを産んでいない。だから毎朝目覚めると「日本、ごめん」と思う。そしてすぐに「くそったれ」と思う。ひとりきりでの育児に泣いている友だちがいる。子どもを産んだ人生を心から愛する友だちがいる。仕事を取り上げられないように出産を隠す友だちがいる。子どもがほしいができないと擦り切れるように生きる友だちがいる。出産と結婚を迫られて、喉の奥がふさがりそうに苦しい友だちがいる。子どもが自分の人生を豊かにしてくれたと涙を流す友だちがいる。「家」のために子どもを産む運命の友だちがいる。夫のために子どもがほしいふりをする友だちがいる。自身の家庭環境が理由で、子どもを産みたくないと願う友だちがいる。子どもを抱きながら、子どもがいない人生を想像する友だちがいる。そして、どれもこれもが大げさだと笑うひとがいる。わがままだと叱咤するひとがいる。子宮がある存在だけが女性であると主張するひとがいる。国に出産で貢献しましょうと呼びかけるひとがいる。

 そうしてわたしたちはまた、それぞれの戦地を生きる。

すべての女性は出産すべきであるという社会的前提は、一部には、女性とその肉体との間の緊密で基本的な相関関係に端を発している。女性が、自然界の要素と同一視されるのは、妊娠・出産と母乳育児という動物的と見なされる能力を持つためだ。したがって、私たちの体は、妊娠できるかどうかによって評価される。つまり、出産能力こそが、私たちの生命の本質であり、そのことが存在を正当化すると考えられるのだ。[……]

同時に、もうひとつの対照的な仮定が存在する。それは、すべての女性が母になることを希望し、したがって自由な選択によって母になるというものだ。この仮定のもとで、女性は積極的に、賢明に、合理的に、解放された自由意志をもって、母への道を目指す。「泣き言はやめなさい!自分で選んだ道なのよ―向き合いなさい!」とは、辛さを相談した母親がよく耳にする言葉だ。

オルナ・ドースト『母親になって後悔してる』鹿田昌美訳、新潮社、2022年、31ページ。

わたしは男になりたかった。ずっと、ずっと、なりたかった。だが、本当はそうではなかった。わたしは「主体」になりたかったのだ。「男」でも「女」でもなく、「主体」になりたかったのだ。だがそれは決して合理的で「解放された自由意志」をもって、すべてを選択しきる主体ではない。そんな主体は存在しない。

ある居酒屋に入った。店員さんが朗らかに「いらっしゃいませ!」と近づいてくる。おしぼりが三種類あります、温かいのと、冷たいのと、人肌、どうしますか?  誰かが「温かいの」と言うので、「わたしも」と言う。隣のひとも「同じで」と言う。お水をお持ちします! 氷あり、氷なし、どうしますか? 店員さんは早口でにこやかに聞いてくれる。えっと、とわたしたちは考える、考えるふりをする。誰かが何かを言うのを待っている。

わたしたちはこうして、目まぐるしく時が進む中、何もかもをわたしの意志で選択しなければならないのだろうか? もしおしぼりが熱すぎたとき「自分で選んだ道だ」と言われたらどうしたらいいだろうか? わたしたちは何を選んだことになっているのだろうか?

わたしはただの「客体」であることをやめたかった。全てを選択できる強い主体でもなく、何もかもが強いられる客体でもなく、他者からの呼びかけに応答しながら、自らをつくるような、わかりにくい「主体」でありたかった。かぼそくても、見えにくくても、わたしが何を欲しているのか、何にうちのめされているのか、知りたいわたしでありたかった。消えそうな灯火のような、そんな自由を見つけたかった。

重い、重い、わたしの身体。わたしは子どもを産んでいない。まだいないのか、ずっといないのかはわからない。なぜ産んでいないのかは、ここには書かない。現実はいつだって複雑で、絡み合っていて、それをすべて書くことはできない。何もかもを表明することはできない。

わたしを見てひとは「自分の人生を楽しんでいるんだね」と言う。わたしは子どもがいないことで「自分の人生を楽しむ」特権を得ているのだろうか? 子どもがいる友だちは、自分の人生を捧げているのだろうか? 子どもを産むひとは、社会に強いられ、愚かな選択をしてしまったのだろうか? 二度と戻らない自分の人生を手放してしまったのだろうか? そんなにも、ものごとは単純で、わかりやすいのだろうか?

膝を抱えたわたしたちは、すぐにばらばらになってしまいそうになる。つながれた手が離れてしまいそうになる。ここには、いろんな幸福のようなものがあって、いろんなおぼろげな選択があって、いろんな生がある。だから祈ろう。あなたの幸せが、わたしを傷つけないように。そして、わたしの幸せが、誰かを苦しめるものでないように。

釜ヶ崎芸術大学に行った。見知らぬひとびとと座って、何かを考える。テーマはもう忘れてしまった。誰かが言った言葉を聞き取った誰かが、それをスライドに打ち込んでいく。誰かの不完全な言葉は、不完全に聞き取られ、不完全に書き出される。それを見ている。何かの折に誰かが言った「日々の思い」という言葉が「日々の重い」と不完全に打ち込まれる。

目の前に座るひとが「重い」とつぶやく。「重いから、日々の中でふと気がつくのね」と言う。その言葉が生まれて、ぽとりと床に落ちる。わたしはそれを拾って、東京に持ち帰って、考える。

重い、重い、わたしの身体。わたしの生。そうか、重かった、でも重くなかったら、気がつくことができなかった。わたしの祈り、わたしの願い、重い、重い、わたしの祈り。

血が流れる。明日も、明後日も。わたしの身体は血を流しつづける。出産のためでも、国のためでも、自分のためでもなく、ただ血が流れる。重い、重い、わたしの身体。

筆者について

永井玲衣

ながい・れい。哲学研究と並行して、学校・企業・寺社・美術館・自治体などで哲学対話を幅広く行っている。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)。詩と漫才と念入りな散歩が好き。

  1. 第1回 : ぱちん
  2. 第2回 : まだいます
  3. 第3回 : 豆乳鍋と抵抗
  4. 第4回 : ぬるり
  5. 第5回 : 重いの
  6. 第6回 : 絶句
連載「ねそべるてつがく」
  1. 第1回 : ぱちん
  2. 第2回 : まだいます
  3. 第3回 : 豆乳鍋と抵抗
  4. 第4回 : ぬるり
  5. 第5回 : 重いの
  6. 第6回 : 絶句
  7. 連載「ねそべるてつがく」記事一覧
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