紀伊國屋じんぶん大賞入賞作『水中の哲学者たち』で話題の永井玲衣さんによる新連載「ねそべるてつがく」。つねに何かを求め、成長し、走り回らなければならない社会の中で、いかにして「考える自由」を探し求めることができるのか。「ただ存在するだけ運動」や「哲学対話」を実践する哲学者がつまづきよろめきながら、言葉をつむいで彷徨います。「考える」という営みをわたしのものとして取り戻す、新感覚の哲学エッセイ!
電子の水槽を泳ぐ電子の熱帯魚を見て「あれ、未来ってこういうことだったんだっけ」と思った。
電話があちらこちらで鳴っている。コピー機が、こしゅー、こしゅーと寝息のような音をたてて、紙を排出している。隣では、ひとが向かい合って、契約書を確認している。不動産屋さんにいるのだ。自分がどこに住みたいのか、何にこだわりたいのか、集中することができない。自分が、何がほしいのかわからないのだ。
次々と目の前に出される四角い間取りをぺらりぺらりとめくる。ここに住みたいような気もするし、そうでないような気もする。判断がつかない。何もしたくない。子どものときに見た何かの映像で、江戸っ子が「しっこしだよ!」と忙しそうに荷物をあっちこっちやっていたのを思い出す。江戸っ子は「ひ」を「し」と発音します。頭をよぎる映像に、注釈を自分でつける。小さくつぶやく。声に出ていたかもしれない。少し心配になったが、不動産屋さんはコピー機の面倒を見ている。「ひそひそ声」と江戸っ子が発音したいときは「しそしそ声」になるのだろうか。不動産屋さんが振り返ったら、聞いてみようか。
集中しない目線を彷徨わせていると、コピー機の斜め上に、水槽が置いてあるのが目に入った。透き通るような水の中を、カラフルな熱帯魚が泳いでいる。作りもののように綺麗だったし、それは文字通り作りものだった。
水槽はiPadが表示させている画面であった。まるで生きているみたいに、魚たちは泳ぎ回っている。だがわたしはテクノロジーの発展の実感よりも先に「ああ、こっちの方が楽でいいな」と思った。熱帯魚を育てるには、それなりの設備が必要だ。餌もやらなければならない。病気にもなるだろう。だがiPadで表示してしまえば、準備も、リサーチもいらない。
「あれ、未来ってこういうことだったんだっけ」
不動産屋さんはいなくなり、代わりに問いがやってきてわたしの目の前に座った。
未来ってなんだかこう、スタイリッシュというか、かっこいいというか、暗い空間に青みがかった光線のようなものが行き交っているイメージというか、想像できなかったようなことができるようになっているというか、そんな感じなんじゃないのか。
そしてそこを生きるわたしは立派な大人で、自分の住みたい家なんて一発で決められるし、こんなみっしりと隙間なく建つアパートの一室ではなく、空中に浮いている謎のビルにでも住むかもしれなかったし、江戸っ子の口真似なんてしていなかった、そんな感じなんじゃないのか。
だが「未来」を生きるわたしは電子の魚を見て、まず「こっちの方が楽でいいな」と思ったのだった。かっこいい、とか、未来っぽい、とか、そういうのではなくて、「面倒くさい」を避けて通るための、ひとつの手立て。シュッとしているのではなく、ぬるっとした感情。
もしかすると、こうやって進んでいくのではないか。いや、もう既にそうやって、未来を受け入れ始めているのではないか。
こっちの方が「楽」な熱帯魚たちは、小さな水槽を動き回った。生きているみたいな、計算された動きを。手前のオレンジ色の魚は、決まった時間だけ左に身体を動かし、決まった時間だけ移動先にとどまった。他の魚たちも同じように、その魚なりの同じ動きをした。魚たちは動く。iPadのバッテリーが切れない限り、永遠に。
*
世界中のひととつながることができるようになった。未来だ。子どものときに教科書で読んだ「グローバリゼーション」という言葉の意味が、ようやく少しずつわかってきた。つながることは、均質化を招くこととも言える。どの国に行ってもマクドナルドがある。わたしの町で食べるケンタッキーと、エジプトで食べるケンタッキーはほとんど同じ味である。
くたくたに疲れた夜、コンビニのおにぎりとカップ麺を買って、パソコンの前に座った。誰かと食べている実感が欲しくて、最近好きな韓国アイドルが食事をしている動画を探す。表示されておどろいた。もはや世界的な大スターで、驚異的な金額を稼ぎだすアイドルたちが、わたしと同じものを食べていた。もちろんカップ麺をよく食べるという食文化も向こうにはあるのだが、絞り切った雑巾のようになっている自分と、信じがたいほどのストレスと過密スケジュールの中で生きるアイドルたちが、同じものを啜っている。
複雑な感情と感慨が折り重なって、うまく言葉にならない。たしかにこのカップ麺とおにぎりはおいしい。同じものを食べているということも、ふしぎな感じがして嬉しさもある。でも何だろう、このざわめきは。摂取するように口に運ぶ。お腹はすいているのに、なんだかもう食べたくない心持ちがする。そういえば昨日も同じものを食べた気がする。
これを「つながっている」と言って、喜んでいいんだっけ。未来って、こういうことだったんだっけ。
わたしたちはどんどんつながっていく。つながって、つながって、そして均質化していく。だが一方で、急速に分断もすすんでいる。だから、より手触りのあるつながりを求める。それがまた、どこかで食い違っていって、めちゃくちゃになっていく。
韓国アイドルと同じものを食べ終えて、ぐったりとベッドに横たわる。何もしたくない。何も考えたくない。スマフォをひらき、ゲームを起動する。
おかえりなさい! お休みしていた間にアップグレード特典が消えちゃったよ。
最近ダウンロードした「キャンディークラッシュ」は、同じ色のキャンディーを縦か横に三つ以上つなげて消すというスマフォのゲームだ。四つ以上つなげて消すと、爆発力のあるキャンディーを生成してくれ、それをうまくつなげて消すことで、爽快感を得ることができる。
キャンディークラッシュを立ち上げると、友達とつながった方がいいとか、このイベントが始まるよとか、ログイン特典はこれだとか、いろいろなお知らせが次から次へと流れてくる。目にそのままうつして「OK」ボタンを押していく。
できるだけレベルをたくさんクリアしてね!
キャンディークラッシュに追い立てられている。ステージをクリアしたら、すぐに次のステージのプレイボタンを押す。もうステージレベルは180以上に達している。キャンディーが消えると、スマフォがぶるぶると振動する。連鎖したり、爆発したりして消えると、もっとぶるぶると震える。それがとてもちょうどいい。わたしの憂鬱な日々を、ほんの少しだけ揺らしてくれる。揺さぶってくれる。何も考えなくてもいい。
だが一つだけ考えることがある。それはレベルをたくさんクリアすることだ。キャンディーをうまいこと動かせば、効率良くステージを進めることができるだろう。だが、そんな戦略を立てるほど、脳みそは動いてくれない。少しでも指をとめれば「ここを動かすといいよ」とゲーム側が、キャンディーの位置を示してくる。それを動かせばいいだけだ。だから、考えるべきことといえば、とにかくクリアすること。できるだけステージを進めること。できるだけレベルをたくさんクリアしてね!
学生時代の満員電車で、腕を折り曲げ、無理にでもスマフォを顔面に持っていき、ゲームをやっているひとをたくさん見かけた。その姿は、楽しくてやっているというよりは、何かから逃避してゲームの中に身を投げ入れいているように見えた。だが同時に、助けを求めているようにも見えた。誰か助けてくれ。ここから出してくれ。どうか。
キャンディークラッシュは全世界でこれまでに1兆回以上プレイされているよ!
ロード中にも、キャンディークラッシュは豆知識を教えてくれる。全世界で遊べるゲームなのだ。すごい力だ。どんなにわかりあえないあなたも、あなたも、あなたも、わたしと同じキャンディークラッシュで遊んでいる。会ったことがなく、これから一生会うことのないだろうあなたも、キャンディーを爆発させているだろうか。
キャンディークラッシュは世界中でプレイされているよ! なんと南極まで!
ゲームの画面が切り替わり、何かの区切りで成績が出たようだ。わたしはプロフィール登録も特にしていないので「PLAYER」という無機質な名前だった。本当に楽しんでこのゲームをしているひとも、もちろんたくさんいるだろう。だがわたしは、脳みそに微弱な快楽を与えるためだけのプレイヤーだったから、なげやりなプレイの仕方しかしていなかった。もちろん成績は最下位だった。
全世界とつながっている。だが、つながっている感じがあまりしない。ランキングを表示させると、一位はPLAYERで、二位もPLAYER、三位もPLAYERだった。かれらが何者なのか、わたしは知ることができない。だがおそらく、世界中の見知らぬ誰かなのだろう。誰かがいるという気配はあまりなく、ただその言葉が並んでいる。
未来ってこういうことなんだっけ、わたしはぼんやりとその問いを思い出して、またすぐに忘れた。
「つぎ救急車呼ばなきゃってことになったら、あたしをまず呼んで、すぐ行くからね」
自動ドアの「押す」ボタンを、べちんと叩くようにして開けるおじいさんの背中を、店員さんがさすりながら言っている。口に含んだ珈琲を飲み込みながら、耳をすませる。おじいさんは、ありがとうねえ、ありがとうねえ、と繰り返しているようだ。
ある朝、どの町にもあるだろうチェーン店で、わたしは何度も座ったことのある椅子に座っていた。この珈琲の味も知っている。この間大阪に行ったときも入ったし、仕事で向かった見知らぬ町にもこの店はあった。同じ味、同じロゴ、同じインテリア。
だが、当然のことながら、そこに集まるひとたちはみなばらばらだ。そこで働くひとたちも。そして、そこで生まれるコミュニティも。つながりも。関係性も。
店員さんは、てきぱきとした看護師さんのように、おじいさんにどう毎日を過ごすべきか、声掛けをしている。体調を気にする、家族のようにも見える。介護士のようにも。
あの口ぶりからすると、彼女はおじいさんがどこに住んでいるのか、どんな持病をかかえているのか、すべて知っているようだった。あのおじいさんだけではない。別のお客さんにも「久しぶり」と声をかけ、最近の体調をたずねる。
効率化、文化の均質性、グローバリゼーション、世界のマクドナルド化。こういう状態を批判的に見る言葉はたくさんある。つながっていそうで、全然つながっていなくて、さみしくてたまらなくて、でも何となくつながってしまう、いや、つながるというよりは、等し並みにしてしまう。あらゆる価値が、のっぺらぼうになって、並列化されて、すべてがPLAYERで、もう誰が誰だかわからない。
あなたの食べるおにぎりの味も、わたしが食べるおにぎりの味も、もうどう違うのかわからない。あなたも、あなたも、あなたも、みんな同じに見える。あなたも同じ人間である、というような親愛に満ちた親近感ではない。みんな、みんな、PLAYERでしかない。それをどんどんグローバリゼーションはまた加速させる。だからそれを簡単に批判したくなる。
だが、それでも、そこに生きているのは人間である。人間なのだ。ひとりひとり、名前をもった、それぞれの仕方で疲れたり、病気になったり、心配したり、笑ったりしている、人間なのである。
どれだけ均質性が世界を覆っても、どれだけ同じ味の珈琲を出したとしても、そこで働くひとが人間なかぎり、独自の、その地域の、固有のつながりが生まれてしまう。店員さんとおじいさんのような、交流が生まれる。資本主義の中にもケアがうごめいているように、均質さの中に独自性がきらめく。あるいは、均質性があるからこそ、そこに独自性が生まれる。
わたしたちはiPadの水槽を泳ぐ熱帯魚ではない。わたしたちは、一回たりとも、同じ動きはしない。どんなにテクノロジーがわたしたちをつなげても、どんなに同じもので遊んだとしても、どんなに同じ味を食べたとしても、それを味わう舌は、動かす指は、眠そうな目は、あなただけのもので、わたしだけのものなのだ。
でもそれを忘れさせる速度も、この社会にはある。誰が悪いとか、悪くないとか、無垢だとか、犯人だとか、そんなわかりやすくはない。社会はしぶとい。つながっているようで、つながっていなくて、ばらばらではないようで、ばらばらである。たまにそれを思い出して、また忘れて、そしてまた、少しだけ思い出す。何もかも、簡単ではない。
何もない街での誰かの聖域であるだろう雨のマクドナルドは
まるやま作、穂村弘『短歌ください その二』収録(KADOKAWA)
筆者について
ながい・れい。哲学研究と並行して、学校・企業・寺社・美術館・自治体などで哲学対話を幅広く行っている。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)。詩と漫才と念入りな散歩が好き。