ねそべるてつがく
第9回

手のひらサイズ

学び
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紀伊國屋じんぶん大賞入賞作『水中の哲学者たち』で話題の永井玲衣さんによる新連載「ねそべるてつがく」。つねに何かを求め、成長し、走り回らなければならない社会の中で、いかにして「考える自由」を探し求めることができるのか。「ただ存在するだけ運動」や「哲学対話」を実践する哲学者がつまづきよろめきながら、言葉をつむいで彷徨います。「考える」という営みをわたしのものとして取り戻す、新感覚の哲学エッセイ!  

それはひどく厭な夢のなかの出来事に似ていた。最初、私の頭に一撃が加えられ眼が見えなくなった時、私は自分が斃れてはいないことを知った。それから、ひどく面倒なことになったと思い腹立たしかった。そして、うわあと叫んでいる自分の声が何だか別人の声のように耳にきこえた。

戦慄する文というものがある。言葉がある。出会ってしまったならば、もう忘れることができない。最初はうまく飲み下すことができないことが多いだろう。しかし、じわじわと時を重ね、日を重ね、年を連ねる中で、ずっとそばにいることに気がつく。言葉はどこにも行かない。ひっかかっている。わたしの身体にからみついている。心にぴたりとはりついている。

冒頭の文をはじめて読んだひとは「私」に何が起きたと思うだろうか。このひとはパンツ一丁で起きてきて、妹に朝寝坊をしたことにぶつぶつ文句を言われ、トイレに入っている。夜明けに一度起きて、また寝て、それで寝坊をして、このときは朝の8時ごろで、8月6日で、1945年のことだ。

作者は原民喜、作品名は『夏の花』。「一撃」とは広島市に投下された、原子爆弾である。

それから、ひどく面倒なことになったと思い腹立たしかった。

わたしはこの文を読んだときに、本当に、心底おどろいた。これが、あまりに「手のひらサイズ」の言葉だったからだ。爆撃を受けるという極限の状況で「面倒なことになったな」と腹立たしく思う、そのひとりの感情のふるえに、おそるべきものを感じる。

「戦時中」という言葉は厄介である。まるで戦争の中に、彼らの生活があったように思ってしまう。日本という国が戦争をして、そこにひとびとがいて、悲惨な目にあって、でもなんとかやってきて、そんなふうに聞こえてしまう。だが本当は、生活が先にあった。人間がいた。ひとりひとりの名前をもった人間がいた。パンツ一丁で寝坊する兄を叱るひとがいた。トイレから出てきた「私」のもとにやってきて「電話、電話、電話をかけなきゃ」と呟き、どこかへ立ち去った顔が血だらけのひとがいた。歴史的な出来事を前にして、トイレで「面倒だな」と苛立ったひとがいた。生活があって、ひとが生きていて、そこに戦争が入り込んだ。そうして、戦争の中にひとが生きているようにしてしまった。

戦争は歴史となり、歴史はひとりひとりの人間をのっぺらぼうにした。数字にした。あるいは、出来事の一つにした。教科書には著名なひとの名前だけが印字された。数十年後の学生たちは、そこにたっぷりと水分を含んだ蛍光マーカーで塗りつぶして、数ある暗記するべき項目のうちのひとつにした。

あの瞬間に、ひとりの人間が爆撃を頭上に受けて「面倒なことになったな」と思う、その感情はちいさなものだ。原民喜が作家として書き遺さなければ、決して生きながらえない、手のひらサイズの何かだ。だが、この感情はとりかえがきかない。ひとりの人間が、決してとりかえがきかないように。

東日本大震災があった日の経験を聞いてまわっていたとき、あるひとと話をした。そのひとはまだ小学生で、あの日は遊びに行っていた友だちの家にそのまま泊まらせてもらったと話した。どうだったのかと聞くと、そのひとは穏やかに微笑んでこたえた。

そうですね、スキニージーンズがきついな、って思いました

心にこびりつく言葉。あの多くのひとが経験した、大きなものの中に、やはりひとりひとりの人間がいた。いや、ひとりひとりの人間がいて、そこに大きなものが覆いかぶさった。それぞれの仕方で体験され、そしてその微細さはゆっくりと忘却された。だが忘れられているだけで、消えたわけではないのである。

大きな語りをすること、それはしなければならないことだ。しかし、その大きさにもたれかかることもできるのが厄介だ。いや、時にどうしてもよりかからなければならないこともある。大きな語りのおかげで、わたしの小さな語りが可能になることだってある。

しかしどこか空々しく響くときもある。ある高校で哲学対話をしたとき、どこか足元がぬかるんでいるような感覚におそわれたことがあった。対話はとても「うまく」いっていたと思う。ひっかかるところはなく、なめらかに進んだ。だが、そこで語られる言葉はどれも大きな語りであり、主語は「国」であったり「社会」であったり「概念」であったりした。そこに人間はいなかった。

これまで自分の考えをたずねられたことが一度もなかった、とあなたは言った。あなたはどう思うのか、どう表現するのか、誰かに問われたことがなかった。

聞かれるべきひとと、そうでないひとがいると思われている。聞かれるべき言葉と、そうでない言葉があると考えられている。だが本当にそうなのだろうか。大きな語りをする子どもたちは、自分のちいさな言葉など、何の意味がないと思ったのではなかっただろうか。だからこそ、抽象的な視座で、そこに誰もいないような語りをしたのかもしれない。

考えを話すことでさえそうなのだから、そこに「哲学」などと大仰な冠がかぶせられれば、より哲学すべきひとと、そうでなひとがいるかのように思えてしまう。いまでもわたしは、哲学という大いなる営みに、見合うことができているか不安だ。だがそれは哲学に対してであって、周りのひとたちに対してではない。

原民喜は偉大な作家であるが、手のひらサイズの言葉で語った。手のひらサイズで語ったから、偉大な作家なのかもしれない。しかしそれでも、ひとりの著名な、教科書や本屋に並ぶような「聞かれるべき」言葉を持ったひとだった。

だがわたしは無名のひとたちの、手のひらサイズの言葉が気になる。問いが気になる。教科書や本屋に並ばない、無名のひとたちの哲学が気にかかる。あまりにさりげなく、今にもかき消えそうで、しかしとりかえがきかないような言葉が。

なんで人に教えてもらうときって、なんでこんな『はいっ』って顔するんだよって

かれらの言葉は、わかりにくい。大きい語りはどこか似通っている。だからこそわかりやすい。飲み込みやすい。だが、手のひらサイズの哲学は、そのひとが否応なく見ている世界を反映してしまって、いびつで、のんきで、切実である。

僕はまっすぐ死にたい

それはどこか詩の響きを持っている。そのひとの、そうとしか表現できない、そのひとだけの言葉だからだ。世界の奇妙さにおののき、かろうじて出てきてしまった言葉だ。

この世にないものは人間は想像できないってことだ!

気持ちを共有することがコミュニケーションなら、わたしは学校でコミュニケーションできてないってことになる

生きることと存在すること、どちらが重いですか?

いろいろな場所に出向く。小学校や、企業や、公民館や、書店や、図書館や、美術館や、お寺や、まちだったりする。そこに集うひともばらばらだ。かれらが何者なのかわたしは知らない。名前を聞くことはほとんどない。どこから来て、どんな仕事をしているのかについて聞きもしない。たまたま集まって、問いを聞き、共に哲学をする。

僕らは池に入っていて、そこから出て、振り向いて、はじめて、あ、自然だと思った

たまたま聞いてしまったあなたの哲学を、ただ保存する。哲学された言葉は、場に出されて、そうしてまた誰かの哲学を引き起こす。場がうねり、対話が展開し、手のひらサイズの哲学が集まって、また何かに姿を変えていく。大きな語りになりそうなときもある。そしてそれが必要な局面もある。しかしそれを注意深く拒まなければならないときもある。

哲学は抽象的なことばかりを考えているわけではない。根無し草に考えることはできない。必ずどこかに根ざし、それは育まれる。それはわたしたちがいまいる場であり、関係性の中であり、社会であり、世界である。手のひらサイズの哲学は、どこに根ざしているのか、誰として言葉を語っているかが問われる言葉である。

わたしがわたしとして語る。考える。簡単なことではない。大きな語りの方が楽なときもある。どこに根ざしているのか、関わらないですむからだ。わたしがどんな言葉を持っているのか、研ぎ澄ます必要がないからだ。

先日、D2021のライブイベントがあった。東郷清丸さんと、後藤正文さんがそれぞれ弾き語りをし、合間にわたしも入ってトークもした。しずかで、ゆっくりした時間だった。

清丸さんは、かざらない様子でふらふらとステージに出て、ギターを弾いてうたった。どうやって奏でているかわからないほどに、手のひらサイズの音だった。後から出てきた後藤さんが、それを何のてらいもなく「よかったなあ」と繰り返した。それから響かせた彼の音は、まぎれもなく後藤さんの音で、声で、とりかえがきかなかった。

アンコールに、清丸さんと後藤さんがふたりで「Summer Dance」をうたったあと、後藤さんがひとりでまた舞台に歩いてきた。とことこと、散歩をするように光の下にやってきた。舞台を照らす光もまた、強いスポットライトというよりは、樹々のあいだから差し込む、やわらかな光のようだった。

「小さな声でうたうのって大事だと思う」

清丸さんはとても小さな声でうたっていた。思わず耳をすましてしまうような、彼の音だった。それについて後藤さんは言ったのだと思う。そうして後藤さんは、マイクから少し離れてうたいはじめた。それは「Farewell, My Boy」という、あまりにうつくしい曲だった。

マイクで増幅されない音。大きくなりすぎない声。マイクをとおして、簡単に鳴り響かせてしまえる中で、それを拒みながらも小さくうたうこと。そしてそれを、わたしたちが聞き取ろうとすること。

後藤さんのかすれて、時にゆらぐ声。手のひらサイズの音、言葉。とりかえのきかない、あの瞬間の、あのときだけの、何か。わたしたちは、そんな音を、どれだけ聞き取ることができるだろうか。どれだけ発することができるだろうか。

筆者について

永井玲衣

ながい・れい。哲学研究と並行して、学校・企業・寺社・美術館・自治体などで哲学対話を幅広く行っている。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)。詩と漫才と念入りな散歩が好き。

  1. 第1回 : ぱちん
  2. 第2回 : まだいます
  3. 第3回 : 豆乳鍋と抵抗
  4. 第4回 : ぬるり
  5. 第5回 : 重いの
  6. 第6回 : 絶句
  7. 第7回 : 笑う
  8. 第8回 : 遅くなりました
  9. 第9回 : 手のひらサイズ
連載「ねそべるてつがく」
  1. 第1回 : ぱちん
  2. 第2回 : まだいます
  3. 第3回 : 豆乳鍋と抵抗
  4. 第4回 : ぬるり
  5. 第5回 : 重いの
  6. 第6回 : 絶句
  7. 第7回 : 笑う
  8. 第8回 : 遅くなりました
  9. 第9回 : 手のひらサイズ
  10. 連載「ねそべるてつがく」記事一覧
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