『女の子は本当にピンクが好きなのか』・『不道徳お母さん講座』で話題の堀越英美さんによる新連載「ぼんやり者のケア・カルチャー入門」。最近よく目にする「ケア」ってちょっと難しそう…でも、わたしたち大人だって、人にやさしく、思いやって生きていきたい…ぼんやり者でも新時代を渡り歩ける!?「ケアの技術」を映画・アニメ・漫画など身近なカルチャーから学びます。第7回のテーマは、自閉スペクトラム症と女の子のエンパワメントの物語。
機械的なシステムの導入が招く包摂的な社会の到来
新進気鋭の哲学者がファミリーレストランチェーン「サイゼリヤ」について語ったツイートが炎上しているのを見た。口頭ではなく、紙に番号記入する注文形式に寂しさを感じたという、ツイート自体は特になんということもないような内容である。そう思えるのは、欧米流の現代思想書がまだよく読まれていた20世紀に文学部の学生をやっていたせいなのかもしれない。高度資本主義社会における効率化がもたらす人間疎外、だとか、あらゆるものをコード化する管理社会に抵抗せよ、というような言い回しは、当時なじみ深いものだった。サイゼリヤがあまりにも愛されてるから、ちょっとしたぼやきでも批判が殺到してしまうのだろうか。ただ、気になる反応があった。番号による注文で、聴覚障害者や日本語がわからない外国人が使いやすくなったという声が複数みられたのだ。
これと似たような議論を、私は目にしたことがある。芥川賞受賞作品『コンビニ人間』(村田沙耶香)の海外評だ。
恋愛や人付き合いに興味がなく、マニュアル通りに動けばいいコンビニの店員でいるときだけ充足感をおぼえる36歳の未婚女性を描いたこの小説は、日本では100万部を突破するミリオンセラーとなった。2018年6月の米『ニューヨーカー』に掲載された『コンビニ人間』評は、この小説が海外でどのように受容されたかを端的に物語る。主人公の古倉恵子はoddball(奇人)、uncanny(不気味)、depraved(堕落した)、lack of soul(魂の欠落)と形容され、コンビニ店員という仕事も、奇妙で疎外された人間にふさわしい”a strange and alienating job”(奇妙で人間を疎外する仕事)とネガティブに評される。”grim post-capitalist reverie”(おぞましいポスト資本主義の白昼夢)という表現が示すように、まさに「高度資本主義社会における効率化がもたらす人間疎外」と一言でまとめられそうな、欧米らしい読みである。

ところがこれとはまったく異なる視点からの書評が、英『ガーディアン』に掲載された。

書き手は自閉スペクトラム症であることを公表しているアイルランド人作家のナオイーズ・ドーラン。彼女は「恵子を後期資本主義の操り人形と見るのは簡単だが、私は『コンビニ人間』を疎外された労働への問いかけとして読んでいるわけではない」と書く。
ドーランは、高度で複雑すぎる世間のコミュニケーションになじめず、表情からセリフまですべてがマニュアル化された単純労働のなかでのみ安心して社会と関われる主人公像に、自閉スペクトラム症である自分自身を見出し、共感したという。
私自身がはじめて『コンビニ人間』を読んだときは、主人公は「ふつう」の人間のゆがみを浮かび上がらせるために、狂言回しとして設定された、現実離れしたキャラクターだと思い込んでいた。だが、『自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界(サラ・ヘンドリックス、拙訳)』を訳してから読んだ同作からは、まったく異なる印象を受けた。作品内で障害の有無が明示されているわけではないものの、主人公の言動が自閉スペクトラム症女性の特性に似通っていたからだ。『自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界』によれば、自閉スペクトラム症女性は同じ障害を持つ男性に比べ、周囲に溶け込もうとする傾向が強い。そのため、社交用の会話を台本として覚え、定型発達の人々のまねをし、「ふつう」の擬態をすることがしばしばみられる。だが、暗黙の了解を察知できないこともあり、いわゆる「人間味がある」とされる複雑なコミュニケーションは困難だ。同僚と世間話をすることなく、機械を構成する部品のようにルーティン通りに仕事をこなしてくいくことに安心を覚える人もいるという。自分は人間である以上にコンビニ店員であると主人公が覚醒する『コンビニ人間』のラストは、彼女をそのような特性の持ち主と見れば、確かにハッピーエンドなのだった。
「人間味のある」世界で排除される者が、「人間を疎外している」はずのシステムで包摂される。このような例はほかにもある。地方の温かみを失わせる「ファスト風土」だと評論家から揶揄されるショッピングモールには、車椅子の障害者や高齢者、子連れが利用しやすいという側面もある、というように。一見奇妙に見えるこうした光景は、かつての人文学が定義する「人間(human)」が、健常で教育レベルが高く、弱者のケア責任を負っていない上流階級の男性(man)だけを意味していたのだと考えれば、矛盾ではないように思える。
物語の中で輝く自閉症スペクトラム症の女性主人公
現在、韓国Netflixで一番人気というドラマ『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』も、自閉スペクトラム症の女性が法律の世界で包摂される物語である。

ウ・ヨンウを「天才」たらしめているのは、一度読んだ本はすべて記憶するという(おそらくはサヴァン症候群と呼ばれるタイプの)突出した記憶力による。法律を全文暗記している彼女は、クライアントの弁護に適した法律をその場ですらすらと暗唱することができる。そのぶん自閉スペクトラム症の特性も強く、コミュニケーションが苦手で、表情や体の動きもぎこちない。予想外の味に対応できないため、材料が一目瞭然であるのり巻きしか食べられない。また、好きなもの(クジラ)に異常に執着し、話を聞いてくれる人を見つけるとその話題を一方的に話し続けてしまう。このドラマにおける法廷は、あいまいなコミュニケーションではなくロジックとファクトが重んじられ、先入観のない観察眼と観察から導かれる直観によって真実にたどりつく世界として描かれる。それは恵子にとってのコンビニや、クジラにとっての海のように、ヒロインにとって息のしやすい世界である。
特殊な天才肌のヒロインが活躍するコメディというと『のだめカンタービレ』『あまちゃん』などの日本ドラマを彷彿とさせるが、このドラマがそれらと異なるのは、ヒロインのウ・ヨンウの依存性だ。第一話で先輩の男性弁護士が「依頼人と話し、法廷に立つのが弁護士です/社会性や話術が必要なのに/自己紹介もまともにできない子ですよ」と彼女の就職を心配するように、彼女の社会的能力は極端に低い。それが克服される見込みも薄い。だがそのあたりは、スピーチ大会で優勝するような他の弁護士たちがカバーする。あまりに弱さがあからさまなので、周囲が助けてあげずにはいられないのだ。
第二話では、依頼人(大富豪)の娘のことを同僚の弁護士が陰で「精神的に独立していないとダメなのに親に頼りっぱなしだ」と言っているのを聞いたウ・ヨンウが、自分もそうだと告げたうえで、娘にそのまま伝えてしまう。だがその正直すぎる語りが、娘の自立をうながし、人間関係のもつれを解決に向かわせる。字面だけ見れば失礼と受け止められない彼女の言葉が聞き入れられたのも、見た目にわかりやすい弱さのためだろう。
ドラマは自閉スペクトラム症の愛されやすい面だけを取り上げているわけではない。第三話に登場する被告人は重度の自閉スペクトラム症の男性で、知的能力が低く、医大生の兄を殴り殺した容疑がかけられている。ドラマの冒頭で描かれるパニック状態の彼の姿は、世間の人が自閉スペクトラム症に抱く負のイメージを体現したものだ。事実、彼が傷害致死で起訴されたニュースが流れると、ネットニュースのコメント欄には自閉症者に対する差別的な言葉がずらりと並ぶ。容疑者の母は、優秀なウ・ヨンウの姿を見て複雑な気持ちになったと正直な感想を述べる。
同じ自閉症なのにあまりに違うから/比べてしまって/賢い子もいると知っていたけど/実際に見たら何とも言えない心境で…/自閉症の子は大抵うちみたいでしょ/よくなるという希望はなかなか抱けない
成績トップだったウ・ヨンウですら、中高時代にハードないじめを受けている。法律事務所のチームや身近な知り合いからかばってもらえても、世間の大多数は障害に無理解だ。同じ自閉症者の家族からも、距離を置かれてしまう。彼女はモノローグで、自閉症者の能力を認めたハンス・アスペルガーとナチスの優生思想との関係に触れたうえで、障害ゆえに疎外される自らについてこう語る。
わずか80年前 自閉症は生きる価値のない病気でした。
今も数百人の人が”障害者じゃなく医大生が死んだのは国家的損失”このコメントに”いいね”を押します。
それが私たちが背負うこの障害の重さです。
弁護士として見知らぬ他者とかかわる以上、法律の条文の中だけでは生きられない。時折登場する空を泳ぐ海洋生物は、なじめない世界で必死に泳ごうとするウ・ヨンウの心象風景を象徴しているように見える。
彼女が法律事務所のチームに包摂されるのは、ずばぬけた能力があり、ぎこちなさがかわいらしく見えるからこそで、平凡な自閉スペクトラム症の女の子が救われるわけではない、という評はその通りだと思う。いわゆる天才タイプではない自閉スペクトラム症の女の子を育てる身として、そのあたりが気にならないわけではない。けれども、定型発達のような「人間味」をもたないヒロインが特殊な世界で必要とされる姿には、どうしてもわくわくしてしまう。ウ・ヨンウのこだわりを矯正すべきものではなく愛らしさとして描くオープニングからは、自閉スペクトラム症へのエンパシーをはぐくもうという意志が感じられ、それ自体が祝福すべきことだとすら思う。他人に興味がなく、猫や戦国武将の話を一方的にしてしまう次女が大人になったときに迎え入れてくれる世界が、どうかこのように愛らしいものでありますようにと願わずにはおれない。
筆者について
ほりこし・ひでみ。1973年生まれ。フリーライター。著書に『女の子は本当にピンクが好きなのか』・『不道徳お母さん講座』・『モヤモヤする女の子のための読書案内』(河出書房新社)、『スゴ母列伝』(大和書房)、訳書に『自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界』(河出書房新社)、『ギタンジャリ・ラオ STEMで未来は変えられる』(くもん出版)、『ガール・コード』(Pヴァイン)など。