ぼんやり者のケア・カルチャー入門
第16回

磔にされることなく「親切になろう」と言うために――『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』

カルチャー
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『女の子は本当にピンクが好きなのか』・『不道徳お母さん講座』で話題の堀越英美さんによる新連載「ぼんやり者のケア・カルチャー入門」。最近よく目にする「ケア」ってちょっと難しそう……でも、わたしたち大人だって、人にやさしく、思いやって生きていきたい……ぼんやり者でも新時代を渡り歩ける!? 「ケアの技術」を映画・アニメ・漫画など身近なカルチャーから学びます。第16回は、なんと早くも最終回です! なぜなら、この連載を締めくくるにふさわしい大傑作が爆誕してしまったから。みんな大好き『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』です

「『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』観に行こうよ。お母さん昨日観たんだけど面白かったから。すっごい評判でアカデミー賞も獲りまくってるし」
「どこら辺が面白いの」
「母と娘のマルチバースものなんだけどさ、娘が『この世に意味がなさすぎてだるいな~』ってなってベーグルをブラックホールにして、全宇宙をぶっ壊そうとするわけね」
「SFかあ」
「母親はカンフーで戦って」
「え、カンフー映画?」
「ポメラニアンを振り回したりトロフィーをお尻に挿して戦ったりもする」
「うーん」
「そのほかにも指がホットドッグになる宇宙とかコックの頭の上に乗ったアライグマが料理を教える宇宙にジャンプしたりして笑えるし泣けるんだよね~」
お母さんがすすめると、面白く思えないんだよなあ……

お母さん。それは面白くなさの象徴のようなもの。インスタグラムの写真一枚で何十万人もの若者に影響を与える華やかなインフルエンサーの対極にあるものを定義するとすれば、それはお母さんである。勉強しなさい、早く風呂に入りなさい、野菜も食べろ、寝っ転がってiPadを見るな。お母さんが言わなければならないことはことごとく退屈で、我ながら退屈だなあとは思うけれど、子供の生活習慣、性格、発達、病気、事故、トラブルの責任を社会から問われるのも、やはりお母さんなのである。今も両親在宅時に幼児が窓から落ちたというニュースで、「母親が目を離したすきに」と報じられているのを目にしたところだ。ケア責任がお母さんに集中すればするほど、お母さんはいっそう退屈な存在となる。排水溝の掃除に親戚付き合いにベルマーク貼り、採点バイトまで、この世の退屈はだいたいお母さんが引き受けている。

ヒロインは家父長制にとらわれた退屈なお母さん

映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』の主人公エヴリンも、そういう退屈なお母さんとして登場する。コインランドリー店を経営する中国移民のエヴリンは、生活に疲れ切っている。エヴリンを支配しているのは、仕事をしながら家事も育児も介護も、さらには親族の誕生日や近所の人々をもてなす行事の準備まで、すべてのケア責任を母親が担わなければならないというアジアの家父長制的価値観だ。義務をこなすだけの退屈な生活を、彼女は円の中をただぐるぐる回っているようなものだと表現する。

一方、優しい夫ウェイモンドは退屈な生活に彩りをもたらす達人で、ランドリーバッグに目玉シールを貼ってかわいくしたり、客とダンスを踊ったりする。だが男に家父長であることを求めるエヴリンは、うだつのあがらない夫に内心失望し、まるで使用人のようなあつかいをする。家父長制において上下はあっても対等はない。上でなければ下なのだ。大学を中退した娘のジョイに対しても、見た目から言葉遣いまで、やかましく注意をせずにはおれない。

エヴリンが一番恐れているのは、中国から来た車椅子の父・ゴンゴンだ。駆け落ちして勘当されたにも関わらず、父に認められたい気持ちを手放せないエヴリンは、ジョイが同性愛者であることを必死に隠そうとする。その言動はジョイを傷つけるが、すっかり心が擦り切れているエヴリンは、娘の心までケアする余裕はない。いつも通訳を務めてくれる娘が帰ってしまったため、エヴリンは国税庁の監査に娘抜きで立ち向かわなければならなくなる。人生の煩雑さについに限界突破したエヴリンが国税庁の建物の中で目にしたのは、別宇宙のウェイモンドが乗り移った夫だった。彼からマルチバースにカオスをもたらす強大な敵を倒す使命を託されたエヴリンは、別宇宙にバースジャンプしてカンフー女優や歌手やシェフなど、これまで選ばなかった選択肢を生きるエヴリンの人生とリンクする。

エヴリンの前に立ちはだかる強大な敵ジョブ・トゥパキとは、娘ジョイのマルチバースでの姿である。ジョイは才能を伸ばすためにマルチバースの母エヴリンに壊れるまで追い詰められた結果、精神が飛び散って宇宙最凶の存在ジョブ・トゥパキとなったのだった。ジョブ・トゥパキは、夢と希望、過去の成績表、あらゆる犬種、ゴマ、ケシの実、塩、その他すべてをベーグルの上に載せてブラックホールのようなものを作り出した(理論上はどんな物でもその質量のシュワルツシルト半径に達するまで圧縮すればブラックホールになり得る。なお、地球質量のシュワルツシルト半径は約9mmである)。

マルチバースをエヴリンの内面宇宙ととらえれば、個人の才覚が評価される華やかな職業に就いたり、指がホットドックの宇宙で女同士で暮らしたりしているエヴリンの姿は、家父長制からの脱出願望の表れとみることができる。中国で生まれ育った中高年女性にとって最も可能性の高い人生とは、そのまま中国で結婚して嫁として生きることだが、どの宇宙のエヴリンも嫁ではない。

前章でとりあげた『主婦である私がマルクスの「資本論」を読んだら』の著者チョン・アウンは、韓国で女性が結婚するということは、想像だにしていなかったありとあらゆる家事が否応なく降りかかってくることだと記している。韓国の既婚女性は、夫と子供の衣食住の世話のみならず、夫の拡大家族の大小さまざまな行事まで面倒をみなければならない。著者はそのやりくりを「決闘」と表現する。同じアジア系女性であるエヴリンも、冒頭から自分の生活を「戦場」になぞらえている。マルチバースにジャンプしたエヴリンが決闘を繰り広げるのも、彼女の目に映る他者とは、自分を見下して無理難題をふっかけてくる敵にほかならなかったからだろう。

母と娘が抱える虚無感

マルチバースがエヴリンの内面だとして、なぜ娘が最も強大な敵となるのか。家父長制下で自我を抑圧してきた母は、自分に従属するべきなのに自分とは異なる価値観をぶつけてくる同性の娘がモンスターのように見えるからではないだろうか。シーンごとに変わるジョブ・トゥパキのカラフルなファッションに、インスタ女王の渡辺直美を幻視した人は、きっと私だけではないはずだ。女性が自己表現する手段にあふれたSNSの時代を生きるアメリカ育ちの娘と、アジア育ちで自己抑制的な母との世代間断絶を、彼女のファッションは表現しているようにみえる。

ジョブ・トゥパキ/ジョイがブラックホールによって本当に崩壊させたかったもの。それは全宇宙ではなく、自分自身だった。単一の価値観にとらわれている母とは対照的に、マルチバースに精神が飛び散ってあらゆる価値観を体験したジョブ・トゥパキは、重要なものは何もないという虚無感にとらわれている。

ジョブ・トゥパキが感じる倦怠は、SNSなどを通じて多様な価値観に触れて価値相対主義に陥った現代人にもみられるものかもしれない。共同体が共有する単一の価値観に従うしかない伝統的共同体から抜け出した個人は、自由に思想や価値観を選ぶことができるようになった。少なくともリベラリズムは、それが可能であるという前提に立つ。自由を得た代わりに共同体からの承認を失った個人は、生きる意味を自分で模索しなければならない。生まれや属性よりも個人の能力を重んじる能力主義の社会では、さしあたってなんらかの能力を身につけることが承認を得る方法となる。多くの人がチャンスを得る一方で、競争は激しい。親や周囲の期待に応えられないのは自分の責任であるとして、罪悪感を抱える人も少なくない。研鑽を積んで能力を獲得しても、SNSで自分の上位互換はいくらでもいると知って、どうやって自分の価値を絶対視できるだろう。何も重要ではないという虚無感は、自分の存在価値が感じられない痛みからも、期待に応えられない罪悪感からも解放してくれる。

ジョブ・トゥパキ/ジョイは、母を連れてベーグルの中心に吸い込まれようとする。中心が空虚なベーグルは、父親の望む正しい娘になれなかったと考えるエヴリンと、母親の期待に応える能力を得られなかった自分に失望しているジョイが抱える虚無の象徴である。

最も印象的な宇宙は、母娘そろって岩になっている、生命の存在しない宇宙である。エヴリンは娘の言葉遣いを例によって注意するが、(岩になってまでそんなことを気にするなんて)マジか、と娘に突っ込まれ、クソ冗談よ、と自ら汚い言葉を使い始める。他者がおらず、そもそも性別もない宇宙でようやく、母娘は対等な個人としてやりとりできるようになる。バースジャンプのトリガーとなる「普段の自分が取らない行動」を繰り返したエヴリンは、いつの間にか自己の輪郭をゆるめ、「かくあるべき自分」「こうなりたかった自分」という自己を覆っていた緩衝材を取り払い、むき身のままで娘と関われるようになっていたのだった。人類の愚かさと虚無感を娘とわかちあったエヴリンは、やがて虚無のその先にむかう。そのキーとなるのが、岩に貼られる目玉シールだ。

実生活でウェイモンドがあちこちに貼る目玉シールは、母と娘の虚無をあらわすベーグルを白黒反転させたものといえる。目玉シールは、あらゆる無意味に意味をもたらす楽観主義の象徴だ。この映画のもっとも面白くない要約は、「人に優しくなれないおばさんが、楽観的な夫の『親切になって(be kind)』という言葉で改心して親切になり、国税庁の監査を乗り越える」である。そしてここまでしてきた私の面白くない説明ではさっぱり想像がつかないかもしれないが、この映画は社会派映画でもシリアスなヒューマンドラマでも租税教育映画でもなく、直球のド下ネタとダグラス・アダムス『銀河ヒッチハイク・ガイド』ばりのSF不条理ギャグが怒涛のように繰り出されるお笑い映画である。事実、監督のダニエルズはi-Dのインタビューで『銀河ヒッチハイク・ガイド』の影響を公言している(※)。

広大な宇宙からみればすべては無意味

『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』と『銀河ヒッチハイク・ガイド』の笑いのベースにあるのは、広大な宇宙からみればすべては無意味であるという虚無主義だ。『銀河ヒッチハイク・ガイド』は、こんなエピソードから始まる。たまには人に親切にしたらすてきだろうな、と言ったばかりに一人の男が磔になってから約2000年後、小さなカフェに一人座っていた女の子が突然の啓示を得る。今まで何が間違っていたのか。今度こそ確実に、誰も磔にされることなく、世界を幸せな善い場所にする方法とは何か。だが、女の子がそれを理解した直後、銀河バイパス建設の邪魔になるからという理由で地球が破壊される。「誰も磔にされることなく、世界を幸せな善い場所にする方法」は永遠に失われ、小説は彼女と一切関係なく進む。

『銀河ヒッチハイク・ガイド』においては、人の死も地球滅亡も、ささやかなできごとにすぎない。地球を破壊したヴォゴン人がなおも主人公たちを殺そうとするのは攻撃本能を無意味な暴力として健全に発散するためだし、人間の5万倍の知能を搭載されたロボットは重度のうつ病になるし、主人公の命が助かるのは愛や勇気や努力のおかげではなく、ただの偶然だ。神も倫理も存在しない宇宙で、宇宙人は朝目覚めるたびに頭を悩ませる。「わたしが生きる目的はなんなのか」。それを知るため、彼らはスーパーコンピューター「ディープ・ソート」を設計し、「生命、宇宙、すべて( Life, the Universe, and Everything)の究極の問題」への解を求めた。750万年後にディープ・ソートがはじき出した答えは、「42」だった。生きる意味を算出させるには、問いがぼんやりしすぎていたのだ。続編以降も生きる意味を求める試みは続くが、ことごとく銀河系の精神分析医らによって邪魔をされる。みんなが生きる意味を知ってしまったら、精神分析医や哲学者の商売が上がったりになってしまうからだ。

『銀河ヒッチハイク・ガイド』が描くこうした人間存在の軽さは、他者におびえる人付き合いが苦手なギークたちの救いとなってきた。私もずっと大好きな作品だ。一方で、この小説をそのままマニュアルとして読めば、他者を尊重することに意味を見出せない人間になりかねない(難病を抱えた従業員を解雇し、「(エンジニアのような本当の仕事をしていない君がクビを不当だと訴えるのは)対人スキルがあるからとでもいうのか?」と揶揄したTwitter社のCEOイーロン・マスクの愛読書が、『銀河ヒッチハイク・ガイド』であることは有名だ)。『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』に、『銀河ヒッチハイク・ガイド』にはない新しさがあるとすれば、虚無主義のその先に意味を求めるために、「親切」を見たことのないパッケージで打ち出していることである。

親切を勝たせる困難さ

みんながみんなに対して親切になれば、すばらしい世界になることは間違いない。だが、「親切になろうよ」とただ口にしたところで、ナイーブなお花畑脳の持ち主としてバカにされるのは容易に想像がつく。バカにされるだけならまだいいほうで、親切の対象が社会的弱者や地球や動物だった場合には、きれいごとをシノギのネタにして利権をむさぼっているのだろうと裏読みされたり、社会正義のふりをした差別主義者と糾弾されたりすることだってありうる。他者へのおびえを人を人とも思わぬ冷笑的な態度によって覆い隠すことが、現実的な賢さを示すふるまいとなって久しい。みんなが私的な欲望を追求すれば見えざる手によって社会全体の幸福が実現すると考える経済人にとって、倫理は欲望に待ったをかけて幸福追求を邪魔する足かせにすぎない。

第12回で紹介したヴォネガット『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』の主人公エリオットも、弱者に無差別に親切にした挙句、最終的に精神病院に送られてしまう(ちなみにダニエルズ監督は前述のインタビューでヴォネガットの影響も口にしている)。「愛は負けても、親切は勝つ」はヴォネガット作品のテーマを表す有名なフレーズだが、これは諦念含みの言葉でもある。「人間を人間だから大切にするという理由と方法」の必要性を誰よりも痛感しながら、それを提示することの難しさも、ヴォネガットは作家としてよく知っている。経済人が支配する社会で、磔にされることなく親切になろうと口にするのは困難だ。

虚無を超えて親切になるために

『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』は、「誰も磔にされることなく世界を幸せな善い場所にする方法」、そして「人間を人間だから大切にするという理由と方法」に一つの回答を示す。中年男性が放つ「親切になって(be kind)」というシンプルなフレーズが、これほど痛切に響く作品はないだろう。ド下ネタもウエストポーチで戦うアジア系あるある小ネタもポメラニアンを振り回すひどいギャグも、ウェイモンドの言葉を広く響かせるためには絶対に必要だったと個人的には思う。隅から隅まで良識的に作られていたら、中年女性と同性愛者とアジア系が活躍する本作は、倫理を押し付けて娯楽を奪う「ポリコレ」映画としてマジョリティに磔にされることは想像にかたくないからだ。

マルチバースにおけるウェイモンドの戦い方を見て、他者の状況を想像するエンパシーの重要性を理解したエヴリンは、額に目玉シールを貼る。彼女はもう、押し寄せる刺客たちを力でねじふせることはない。刺客たちが求めることを察し、個々へのケアの実践によって窮地を脱する。家父長制規範に縛られていたエヴリンは、マルチバース体験によって、一人ひとりに宇宙があり、価値観があり、人生があることを理解したのだった。周囲を敵視し、対話を拒否していたエヴリンの他者への接し方が、決定的に変わった瞬間である。『銀河ヒッチハイク・ガイド』では敵でしかなかった官僚主義的な公務員も、この作品ではエンパシーの対象となる。

ウェイモンドが訴える「親切」は、道徳的な規範ではない。混沌とした世界で、虚無に陥ることなく生きる意味を見出す処方箋のようなものである。女が男に、子どもが親に、下が上に従属する家父長制は、他者が他者であることの恐怖に耐えられない人にとっては居心地の良い制度だったのかもしれない。女・子供を家庭と地域の「絆」で縛り付けておけば、他者を尊重するなんて面倒なことをするまでもなく、孤独にならずにすむ。だが、インターネットで多様な価値観を知った女も子供も、もはや大人しく従属はしない。世界はふたたび混沌に包まれる。

混沌とした世界で、他者を自己をおびやかす脅威とみれば、心は恐怖と苛立ちで擦り切れる。他者への恐怖は、やがて怒りと攻撃に変わるだろう。人生は混乱する一方だ。だが、自己の輪郭をゆるめて他者の人生を想像することによって、日々の混沌に意味が生まれる。何が起こっているのかわからないときほど親切にせよ、とウェイモンドが語るのはそういうことだと思う。あらゆる宇宙を体験し、自分にとって大切なものが何かを思い知ったエヴリンは、人生で出会う他者と対話し、関わるという道を選ぶ。そして過去の選択への後悔をやめ、「今・ここ」の人生を愛し始める。

「残念ながら女児です」という言葉とともに生まれ、父に「なにひとつやりとげたことがない」と存在価値を認められずに育ったこと。それが長い間エヴリンのトラウマとなっていた。だが、家父長の目ではなく、自分自身の目によって自分を肯定できるようになったエヴリンは、父に否定されてももはやゆるがない。「あなたが私を誇りに思えなくてもかまわない。やっと自分になれたから」。

自己肯定を通じて娘の存在を肯定できたエヴリンは、あなたの価値観は理解できないが、それでもあなたと一緒にいたいのだと娘に打ち明ける。トラウマの世代間継承が断ち切られ、母と娘はただ、互いを否定することなく別々の宇宙を生きる。この結末は、それぞれの宇宙がぶつかりあって常に争いが絶えないSNS時代を生きる我々をも包み込む。

本作のもう一つの面白くない要約は、ケア責任を一人で背負い込み自他の心をケアできなくなった中年女性が、背負った荷物をおろしてケアをわかちあい、主体的にケアの実践を選ぶ物語である。お母さんは退屈な存在になりすぎないよう、知らないうちに背負い込んだ「かくあるべき自分」をときどきはぶん投げたほうがいいのだ。親切はそこから始まる。

※ ”Interviewing the cast of Everything Everywhere All At Once”, i-D, 13 May 2022 https://i-d.vice.com/en/article/n7nx8b/everything-everywhere-all-at-once-interview

筆者について

堀越英美

ほりこし・ひでみ。1973年生まれ。フリーライター。著書に『女の子は本当にピンクが好きなのか』・『不道徳お母さん講座』・『モヤモヤする女の子のための読書案内』(河出書房新社)、『スゴ母列伝』(大和書房)、訳書に『自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界』(河出書房新社)、『ギタンジャリ・ラオ STEMで未来は変えられる』(くもん出版)、『ガール・コード』(Pヴァイン)など。

  1. 第1回 : 『鬼滅の刃』胡蝶しのぶ人気と『ビルド・ア・ガール』に見るケアの復権
  2. 第2回 : ケアのおせち、あるいはケアの倫理と学校道徳はどう違うのか
  3. 第3回 : 読む女、手を動かす女 「かけ足が波に乗りたるかもしれぬ」と『ミシンと金魚』考
  4. 第4回 : 「ケア」と「面白」の和解を目指して 北村薫のお笑い批評と錦鯉のM1優勝
  5. 第5回 : 子どもの言葉を聞き続けるということ 映画『カモンカモン』の「暗がり」について
  6. 第6回 : 『平家物語』における語るケア
  7. 第7回 : 「人間」を疎外するシステムで、包摂される人々―『コンビニ人間』『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』評
  8. 第8回 : カルトは家庭の顔をする――『母親になって後悔してる』『ミッドサマー』から考えるカルトへの抗い方
  9. 第9回 : 『教えて?ネコのココロ』から考える猫と家父長制
  10. 第10回 : 学生運動に足りなかったもの 母校の高校紛争体験記を読む
  11. 第11回 : 家父長制の国のハロウィン 暴動からボン・ジョヴィへ
  12. 第12回 : 親切で世界を救えるか――『すずめの戸締まり』『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』
  13. 第13回 : ドラマ『エルピス』が描く、守るべき者がいる人間の弱さと悪について
  14. 第14回 : ぼんやりプリンセスとケアするヒーローのときめきの魔法 映画『金の国 水の国』とこんまりメソッド
  15. 第15回 : 主婦バイトが『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』を読んだら
  16. 第16回 : 磔にされることなく「親切になろう」と言うために――『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』
連載「ぼんやり者のケア・カルチャー入門」
  1. 第1回 : 『鬼滅の刃』胡蝶しのぶ人気と『ビルド・ア・ガール』に見るケアの復権
  2. 第2回 : ケアのおせち、あるいはケアの倫理と学校道徳はどう違うのか
  3. 第3回 : 読む女、手を動かす女 「かけ足が波に乗りたるかもしれぬ」と『ミシンと金魚』考
  4. 第4回 : 「ケア」と「面白」の和解を目指して 北村薫のお笑い批評と錦鯉のM1優勝
  5. 第5回 : 子どもの言葉を聞き続けるということ 映画『カモンカモン』の「暗がり」について
  6. 第6回 : 『平家物語』における語るケア
  7. 第7回 : 「人間」を疎外するシステムで、包摂される人々―『コンビニ人間』『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』評
  8. 第8回 : カルトは家庭の顔をする――『母親になって後悔してる』『ミッドサマー』から考えるカルトへの抗い方
  9. 第9回 : 『教えて?ネコのココロ』から考える猫と家父長制
  10. 第10回 : 学生運動に足りなかったもの 母校の高校紛争体験記を読む
  11. 第11回 : 家父長制の国のハロウィン 暴動からボン・ジョヴィへ
  12. 第12回 : 親切で世界を救えるか――『すずめの戸締まり』『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』
  13. 第13回 : ドラマ『エルピス』が描く、守るべき者がいる人間の弱さと悪について
  14. 第14回 : ぼんやりプリンセスとケアするヒーローのときめきの魔法 映画『金の国 水の国』とこんまりメソッド
  15. 第15回 : 主婦バイトが『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』を読んだら
  16. 第16回 : 磔にされることなく「親切になろう」と言うために――『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』
  17. 連載「ぼんやり者のケア・カルチャー入門」記事一覧
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