『女の子は本当にピンクが好きなのか』・『不道徳お母さん講座』で話題の堀越英美さんによる新連載「ぼんやり者のケア・カルチャー入門」。最近よく目にする「ケア」ってちょっと難しそう…でも、わたしたち大人だって、人にやさしく、思いやって生きていきたい…ぼんやり者でも新時代を渡り歩ける!?「ケアの技術」を映画・アニメ・漫画など身近なカルチャーから学びます。第8回のテーマは、カルトと母性幻想。
近代化と「家庭のカルト」の誕生
7月8日に安倍元総理大臣銃撃事件が起き、容疑者の生い立ちの一部が報道によって明らかになるなかで、どうしても気になったことがあった。それは、「カルトに全財産をつぎ込んで家庭を壊したとされる容疑者の母親は、いったい何を求めていたのだろう」ということだ。
献金先が旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)であったことも、心がざわめいてしまう理由のひとつである。大学に入学したばかりの頃、統一教会の学生下部組織である原理研に勧誘されるがままに、彼らが集団生活をしている一軒家に入り込んだことがあるからだ。当時、彼らがカルトであることはさんざん注意喚起されていたし、私もそれは知っていた。ぼんやり者らしい浅はかな好奇心のなせるわざである。もちろん、期待していたようなお試し宗教体験などできるはずもなく、30万円かかる合宿に参加するよう数時間詰められ、生きた心地がしなかった。その日会ったばかりの人間に大金を払わせようとする組織を、どうすれば信仰する気持ちになれるのだろう。SNSを見ても、カルトの被害者であるにもかかわらず、容疑者の母親に対して共感や同情を寄せる人はあまり見ない。共感が難しい対象だからこそ、行動の理由を少しでも理解してみたかった。
だから容疑者のものと思われるTwitterアカウントが発見されたと報じられたときは、まっさきに母親関連の書き込みを探した(※現在アカウントは凍結中)。印象深い書き込みはいくつも見つかった。母親が国公立大学卒で栄養士の資格を持っていること。両親に支配的にふるまう母方の祖父の存在。母親を殴っていた父親の自殺。そして容疑者の子ども時代、母親の手料理よりカップラーメンが食べたいとせがみ、根負けした母親に作ってもらったカップラーメンをうまいうまいと言いながら食べたら、それまで見たことないくらいの勢いで母親に”ブチキレ”られたということ。
子どもは栄養バランスに優れた愛情手料理よりもインスタント食品が好き、というのは現代のSNSでは「子育てあるある」として広く共有されているネタだ。このようなエピソードが拡散されるのは、子どもの身もふたもない欲望が、母親は子どものために完璧な食事を作り続けなければならないという母性幻想を吹き飛ばしてくれるからだろう。だが、SNSなどなく、母性幻想に従って「完璧な母」になるよう努力する以外の人生を知りえなかった時代の女性からすれば、人生まるごと否定されたような気持ちになってしまったのかもしれない。とりわけ学校社会のなかで努力が認められ、評価されてきた勤勉で優秀な女性の場合は。
(…)多くの母は、別の、おそらくもっと微妙な問題に苦しめられている。それは、新自由主義と資本主義の「完璧であれ」という精神だ。このモデルによると、「正常な母性」が起こり得る「正常な状況」があり、常にそれらを達成するために努力する必要がある。
『母親になって後悔してる』(オルナ・ドーナト著、鹿田昌美訳、269頁)
『母親になって後悔してる』によれば、近代以前の西欧社会では、理想とは神の体で表されるものであり、人間には到達不可能なものとして認識されていた。ところが19世紀半ば以降、人間も理想の一部になることが可能であり、そうしなければならないという価値観が生まれたという。
このような価値観を後押ししたもののひとつが、19世紀に発達した出版産業だった。1820年~60年に出版されたアメリカの女性雑誌などを分析した歴史家のバーバラ・ウェルターは、敬虔、純潔、従順、家庭的という4つの美徳を備えた女性が「真の女性」と見なされ、理想化されていたと指摘する(”The Cult of True Womanhood: 1820-1860″ )。中流以上の白人女性たちは物質的には恵まれていながらも、生物学的に劣っているとされ、政治などの社会活動を大きく制限されていた。家庭に閉じ込められた彼女たちのプライドを満たすために、家庭の神聖化が求められたのだろう。歴史家のアイリーン・クラディターはこのような理想への崇拝を、「家庭のカルト(cult of domesticity)」と呼んだ。
かつては到達できなかった理想が、現在では達成可能と見なされているわけだ。この変化が示すのは、「正常な条件」下での「正常な母性」の理想に関して、女性は完璧を目指す競争の中で一瞬たりとも休むことができないということだ。なのに、「理想的で正常な」母性は、女性がどれだけ達成しようと努力しても、どれだけ権利を与えられていても、そもそも手の届く範囲にあるとは限らないのである。
『母親になって後悔してる』(オルナ・ドーナト著、鹿田昌美訳、269-270頁)
裕福な家庭に育ち、知的能力が高い女性であれば、競争を勝ち抜いていい大学に入り、良妻賢母となるにふさわしい教養を身に付けるのは、自らの努力次第で達成できることだろう。だが、ひとたび結婚して学校や会社から離れ、家庭内ケア従事者になれば、自律性は失われ、自助努力ではどうにもならない他者の事情に振り回されることになる。家事育児を完璧にこなしても子どもが難病になることもあるし、障害をもって生まれることもある。夫のストレスのはけ口として殴られることもあるかもしれない。完璧な食事を子どもが好まないことは日常茶飯事だ。「母親が手の込んだ愛情手料理を作れば子どもは母親に感謝して素晴らしい子どもに育ちます。子どもが不良になるのはインスタント食品を与える悪い母親のせいなのです」と社会に繰り返し刷り込まれても、手料理よりもインスタント食品を食べたがる子どもはいくらでもいる。家族はそれぞれに個人であって、母親の努力でコントロールしきれるものではないからだ。だが、努力によって周囲から認められてきた優秀な女性ほど、「完璧な母になって夫が出世できるよう支え、資本主義社会に役立つ完璧な子どもを育てよ」という社会の期待に応えられなかったときに、絶望を抱えてしまうだろう。
現代社会が「幸福な家庭」をイメージするとき、その空間の中心にはかならず母がある。無私無欲で寛大な慈母が家族を包み込み、他者との緊張関係を一切感じることなく、家族が一つに溶け合うような空間。新自由主義・資本主義における自己改善と競争のプレッシャーが増せば増すほど、そこから逃れられる癒しの場として、家庭と母性はいっそう神聖視される。だが、理想を達成するべく努力と競争を強いられる母を包み込む大きな存在は、家庭内にはない。母親業が神聖視されていなかった中世であれば、家庭や子どもから離れて修道院に入るという選択肢もありえたが、現代においてそのような場を作るのは不可能だろう。
それが、カルトにあったとしたら?
母性幻想への執着とカルトへの共鳴
ホラー映画『ミッドサマー』(2019年)に登場する北欧の架空のカルト的共同体「ホルガ村」は、序盤だけをみれば育児に疲れたママが逃げ込みたくなるような、母に優しい世界である。育児は村人全員で行うことになっており、母親が赤ちゃんを置いて巡礼の旅に出ても、誰もとがめない。ホルガ村は疑似家族のような共同体として描かれるが、家族といっても私的領域としての近代家族ではなく、料理や食事も村ぐるみで行う大規模な拡大家族である。
この村に招待されたアメリカの女子大生ダニーは、精神を病んだ妹の言動に振り回された挙句、妹の無理心中で家族全員を亡くしたばかりで、不安定な精神状態にある。ダニーたちを故郷の村に誘ったペレは、自分も幼くして両親を失ったから君の気持ちがわかると、ダニーに共感を示す。「でも僕は喪失感とは無縁だった。この地に”家族”がいるからだ。みんなが僕を抱きしめ力づけてくれた。共同体が僕を育てたんだ」。ペレは自分の村を”本当の家族”と呼び、ダニーも”家族”の一員になれるという。
ダニーとともにこの村にやってきた彼女の恋人を含む3人の男子学生は、資本主義社会に適応したネオリベ的な強者男性である。女性を「孕ませる」道具扱いする性差別的な会話で結束を固めつつも、研究で出し抜こうと互いに競争意識を燃やす。彼らにとって、複雑な内面を抱えるダニーは面倒くさい女以上のものではない。うすうすそのことを感づいているダニーの表情には、常におびえがつきまとう。
だが、ホルガ村においては、母親や女性だけが無私を強いられ道具になることはない。個人であることが、誰にも許されていないからだ。女性だけでなく、男性もまた、生殖の道具でしかない。性交から結婚、死にいたるまで、全員が共同体の掟に従わねばならない。その代わり、誰かが嘆けばその場にいる人々が共鳴してくれるから、孤独を感じることはない。自己と他者の境界があいまいな”家族”の中に埋没しているかぎり、他者に否定される不安とは無縁でいられるのだ。
ダニーは残酷な儀式の数々を目の当たりにしながらも、最終的に男性との恋愛幻想によって救われようとするのを諦め、カルト的共同体の家族幻想に同化する道を選ぶ。優しい笑顔の村人たちが”家族”以外の者にみせる残虐性もおそろしいが、この映画がなによりホラーなのは、カルトに救われるダニーの気持ちがわかってしまうことにある。
共同体の掟が個人を抑え込む全体主義と、個人を尊重する個人主義。どちらがいいかと問われたら、もちろん自我が強すぎる私は個人主義だと答えるが、それは他者を尊重しなければすぐにつながりが破綻してしまう、不安定な世界を選ぶということである。個人主義をまっとうしながら孤独を避けるには、絶えざる相互ケアが必要だ。自分だけケアを担当しても孤独になるし、他者だけにケアを押し付ければ嫌われる。そのような不安に耐えるくらいなら、自由がなくてもカルト的共同体のほうがいいという人がいてもおかしくない。それに、母親のみにケアが期待される近代家族においては、相互ケアが可能な関係性を築くこと自体が困難だったりもする。
個人主義を否定し、共同体への埋没を促すのは、特殊なカルト宗教に限った話でもない。たとえば内閣府のサイトには、「母と子の絆」から始まる共同体の「心の絆」が弱まって「行き過ぎた個人主義」がはびこっているために、さまざまな問題が起こっているという講演録が掲載されている(「平成21年度子育てを支える「家族・地域のきずな」フォーラム講演録・議事録」https://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/family/forum/h21/fukui/lecture.html)
産経新聞は2016年2月の記事で、憲法24条が生んだ「家族を「個人」の集合体と考える」「行き過ぎた個人主義」が、少子化につながっていると説く(https://www.sankei.com/article/20160221-OC5JOSZ4HVKLVJVJI6TA5BSOOE/)。福岡県の教職員組合「福岡教育連盟」は、公式サイトの「私たちの主張」コーナーに、「言葉遣い、権利、個人主義の暴走に危機感を」(https://www.fenet.or.jp/opinion/id/94)と題した文章を載せている。内容は、2016年に話題になった匿名ブログ「保育園落ちた、日本死ね」をやり玉にあげ、職を失いそうな母親の切実な訴えを、「権利に対する過激な主張や個人主義が蔓延するような社会の風潮に違和感を覚える」と高みから切り捨てるものだ。
一番あからさまなのは、統一教会の教祖が設立し、岸信介ら保守系政治家が所属したことで知られる政治団体「国際勝共連合」だ。彼らは公式サイトのトップで堂々と「行き過ぎた個人主義によって日本が国内から崩れようとしています」と個人主義の脅威を煽る(https://www.ifvoc.org/)。「個人主義をことさらに強調し、伝統的な家族制度を否定する思想が広がりつつ」あるのが、日本崩壊の原因であるらしい(https://www.ifvoc.org/threat/)。
「過激」「行き過ぎた」と留保をつけることが多いとはいえ、保守系団体、メディア、政治家が「個人主義」を良い意味で使う例はあまり見ない。悪しき個人主義に対置されるのは、家族、特に母親の無私の奉仕である。個人主義を疎んじる背景には、「個」を捨てた母親にケアを一方的に担ってもらいたいという欲望があるのだろう。さらにいえば、その欲望の根源にあるのは、他人が他人であることが怖いというおびえなのかもしれない。自分とは異なる意見を持つ他人が怖いから、自分を全面的に受け入れケアする母のいる”家庭”がほしい、そのためなら他者の「個」を奪ってもかまわないと考える人々が保守政党の勢力を拡大させ、権力を得た保守政治家たちはカルトの教義と共鳴し、政策で「個」を抑え込もうとする。権力のお墨付きを得たカルトは温かい”家庭”の顔をして、「個」を否定されて孤独を抱え込む人々からお金を吸い上げ、ますます肥え太るだろう。
あまりにも劇的で悲惨な事件を目の当たりにすると、どこかにいる優秀なヒーローが悪のカルトを倒して正常な社会に戻してくれることを、つい夢見たくなる。だが、個人として生きることを否定する価値観を注意深く遠ざけ、ケアの責任を誰かに偏らせることなく、個人がつながる方法を模索することでしか、あのような悲劇を防ぐことはできないのではないか。夏休み中の子どもたちに食事を用意する面倒に黙って耐える代わりに、どうしても食べたいというインスタント麺を小学生に作らせてみるというような、どうということのない日々の営みもまた、カルトに取り込まれない戦い方のひとつだと私は信じている。
筆者について
ほりこし・ひでみ。1973年生まれ。フリーライター。著書に『女の子は本当にピンクが好きなのか』・『不道徳お母さん講座』・『モヤモヤする女の子のための読書案内』(河出書房新社)、『スゴ母列伝』(大和書房)、訳書に『自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界』(河出書房新社)、『ギタンジャリ・ラオ STEMで未来は変えられる』(くもん出版)、『ガール・コード』(Pヴァイン)など。