ぼんやり者のケア・カルチャー入門
第3回

読む女、手を動かす女 「かけ足が波に乗りたるかもしれぬ」と『ミシンと金魚』考

カルチャー
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『女の子は本当にピンクが好きなのか』・『不道徳お母さん講座』で話題の堀越英美さんによる新連載「ぼんやり者のケア・カルチャー入門」。最近よく目にする「ケア」ってちょっと難しそう…でも、わたしたち大人だって、人にやさしく、思いやって生きていきたい…ぼんやり者でも新時代を渡り歩ける!?「ケアの技術」を映画・アニメ・漫画など身近なカルチャーから学びます。第3回のテーマは、「読む女」。

本を読んで頭をはたかれたことがある人はどれくらいいるだろうか。

私はある。けっこうある。

小学生の頃、艶笑落語の本を図書館から借りてきたら親からはたかれた。「”艶笑”はまずかったかぁ」と子どもなりに反省し、江戸小咄の本を借りてきたら、またはたかれた。本の内容に問題があるといわれればそれまでだが、読書自体があんまり歓迎されていないことはうっすら感じていた。本を読んでばかりいると頭でっかちになる、ともよく言われた。確かに子どもが本に夢中になっていたら、家事要員としては使い物にならなくなる。実際、本を好きになればなるほど、家事手伝いが面倒になった。ただ、「読む女」が嫌われるのは、それだけでもないような気がしていた。

そんな少女時代を過ごしたこともあり、本を読んでいる女子が頭をはたかれるアイキャッチ画像に惹かれて、「かけ足が波に乗りたるかもしれぬ」(菅野カラン)というウェブ漫画を読んだ。2021年後期・第80回ちばてつや賞一般部門佳作受賞作である。この先ネタバレをする気満々で紹介するので、未読の方は拙文を読む前に一読してほしい。

かけ足が波に乗りたるかもしれぬ - 菅野カラン / 【コミックDAYS読み切り】かけ足が波に乗りたるかもしれぬ | コミックDAYS
【2021年後期・第80回ちばてつや賞一般部門】佳作受賞作品

物語は家族のワイシャツをたたみながら本を読んでいた主人公の少女が、いきなり祖母に頭をはたかれるところから始まる。「服をたたむときは服を、お皿を洗うときはお皿を見なければダメ!」祖母はたたんだ洗濯物を蹴り上げ、図書館の本を窓から放り投げてしまう。この祖母と折り合いの悪かった母はすでに家を出ていて、父は家族に無関心。家事をしながら本を読むことが、なぜ許されないのか、少女は「私が楽しそうにしてる」のが許せないのだろうと思う。少女は宿題の俳句を作るという名目で、息苦しい家を出て母の住む遠い場所へと向かう。

家出少女とその友達は、言葉が書かれた付箋を袋からランダムに取り出すというダダイズム的手法で、電車に乗りながら次々と俳句を作り出していく。思いがけない言葉の組み合わせに想像力を刺激され、ふたりの少女はここではないどこかに心を飛ばす。そんなときのふたりは、何があっても無敵だ。

森の向こうに住む母は、祖母が本を捨てる理由を娘にこう説明した。「目の前で本を読まれると桜子が遠くに行ってしまったように感じるのよ」。母の家で一晩過ごした少女は、家に帰ることを決める。家の中にいても、世界が狂っていても、心を遠くに連れて行ってくれる言葉の力を自らのものにしたいと思ったからだ。

このマンガは「目」と「手」の物語なのかもしれない、と感じた。女の手仕事、お母さんの手作り、という言葉があるように、女の人生は、「手」を主体にすることが求められる。そのとき「目」は、「手」の従属物にならなければならない。「服をたたむときは服を」見ろ、と少女の祖母が怒るのはそのためだ。自分の子供時代を思い返しても、お風呂のタイル目地をクレンザーでごしごししているとき、揚げ物の衣をつけているとき、心をどこかに飛ばすのは不可能だった。それは閉じ込められている感覚に近かった。だから家事がいやだったのかもしれない。

『手の倫理』(伊藤亜紗/講談社選書メチエ)によれば、西洋哲学において、感覚のヒエラルキーの最上位に位置するのは視覚であるという。「たとえばプラトンの『イデア』論を見ればあきらかです。『イデア』という語はギリシャ語『イデイン』、すなわち『見る』に由来しています」(56ページ)。プラトンはイデアをとらえるために、自らの肉体から離脱して魂で真理を認識しなければならないと説いた。プラトンが言うのは肉体の目ではなく魂の目だとしても、抽象的な思考をするとき、視覚が一番の助けになるのは事実だ。視覚は対象から離れていても、対象について考えることを可能にする。本を読めばさまざまな時代や国、数十ミクロンの生物から宇宙、誰かの頭の中身まで、想念を広げられる。触覚はその逆だ。腕の長さ以上のところへは届かない。

「かけ足が波に乗りたるかもしれぬ」の祖母が孫娘の読書を嫌がるのも、本を読む孫娘が自分のわからない遠い世界に行ってしまうと思ってのことだった。人間関係を個人がコミュニケーションを取り合って利害を調整するフラットなものではなく、下が上に服従するものだと考える人にとって、下に位置する女が自分の知らないことを知っているのは不愉快なことだ。「読む女」は、家の外の世界を知っていて、外に出たいと思っている女である。そんな女は、大人しく家に服従しないかもしれない。本を捨てられた少女は自ら言葉を生み出すメディアになることで、誰にも支配されない世界を作ろうとする。

私自身は、家を出てからは「手」よりも「目」に寄せた人生を歩んできた。読書、映画、インターネット。目からの感覚入力に没頭している間は、心ここにあらずでぼんやりしていたって、誰にもとがめられることはない。ただ、ケアということを考えたとき、どうしても「手」に立ち戻らざるをえない。乳児は年がら年中抱っこしていないといけないし、幼児は手をつながないと車道に飛び出してしまう。乳幼児育児はぼんやりが死に直結する世界だ。よく聞く育児訓 「乳児は肌を離すな。幼児は肌を離せ、手を離すな。少年は手を離せ、目を離すな」にあるとおりである。

さらに私には自閉スペクトラム症(以下、ASD)の小学生の次女がいるので、大きくなっても触れる関わりは欠かせない。どうやら快適な触覚刺激によって分泌される神経伝達物質「オキシトシン」が、ASDの症状の改善に役立つらしいのだ。ASDである動物学者のテンプル・グランディンが、18歳のときに自身の不安を抑えるためにハグ・マシーンを開発した逸話はよく知られている。難しい理屈は抜きにしても、ハグなどの愛着的な触覚刺激が落ち着かせるのに有効なのは、経験的に学んだことだ(※なお、ASD者の中には感覚過敏があって特定の触覚刺激を好まない人もいる)。

「目」が「手」に従属させられる人生は、どこにもいけない閉塞感があってつらい。けれども、「目」ばかりで生きてゆくのは難しい。

「読む女」であることを禁じられた女たちの「手」が豊かに描かれているのが、第45回すばる文学賞受賞作の『ミシンと金魚』(永井みみ/集英社)だった(本作もとてもとても面白いので、まず読んでほしい)。認知症の老女の饒舌な語りによる小説、と聞いて、深刻なイメージを抱く人もいるかもしれない。が、主人公のカケイさんの語りは軽やかだ。病院の待合室で見世物小屋のキンタマ娘の話を延々として、付き添いの女性にあきれられる。カケイさんは、「じいさん」たちのいばった態度を「負け」だと思っている。「おもしろいことを言ったりやったりしたもん勝ちだ」。まま母にいじめられて育ったカケイさんは、家事にこき使われ、小学校にもほとんど行かせてもらえなかった。それでも、独学で新聞を読めるようになった。「まま母の目ぇぬすんで、がんばって古新聞の上に文字のれんしゅうして……」(24ページ)。


 
自力では立ち上がれない老いたカケイさんを助けるのは、「みっちゃん」とカケイさんが一律に呼ぶケアワーカーの女性たちだ。女性たちはカケイさんがうつむいただけで瞬時に判断し、手を貸してくれる。カケイさんはみっちゃんたちの区別はつかないけれど、「手」の区別はつく。今日のみっちゃんは、冷たい手のみっちゃんだ。「手はつめたいけど、あんしん感はバッチリだから、あんしんして歩きはじめる」 (12ページ)。

カケイさんは「糞づかみの手」と呼ばれていた、「ばあさん」の肉付きのいい手のことをよく覚えている。貧しくて働きづめだったばあさんは、カケイさんにこう言い聞かせた。「女はねえ、絶対手に職つけなきゃ、損するぞ」 (29ページ)。それでカケイさんはミシンを覚えた。進駐軍の奥さん用に、レースをたくさんぬいつけたカラフルなシルクのスリップやブラジャーを作り続け、夫の失踪後も家計を支えた。

女の手仕事の延長線にある作業と思われていたためだろうか、ミシン縫製は戦後の一時期、既婚女性の職業の定番だった。満州から無一文で夫とともに引き揚げてきて、家の裏手にある小さな縫製工場で働きながら子供たちを育てた私の祖母も、そうした女性たちの一人だった。幼かった私はよく工場に入り込み、祖母がミシンを踏む横でカラフルなはぎれで遊んでいたものだ。祖母を含め、働く女性たちはミシンと一体化したかのように一心不乱に作業を続け、誰も小さな子供をかまおうとしなかった。縫製は家事育児の延長ではなく、職人仕事だった。カラフルなはぎれやボタンも子供心にときめいたが、誇り高き職人たちが作業に集中し、放っておいてもらえる空間も居心地がよかった。歩くとギシギシきしむ節穴だらけの床、生地の匂い、大量のレース、並べられたミシン糸。今でもはっきり覚えている。

私は祖母や母が本を読んでいるのを見たことがないが、ミシンは日常の中にあった。文化を楽しむようなモラトリアム期間も教養も持つことを許されなかった時代の女性たちにとって、ミシンは世界とつながる数少ない手段だったのではないだろうか。

子供を抱えてどこにも行けないカケイさんも、本を読む代わりにミシンを踏むことで、ここではないどこかに心を飛ばすやりかたを知った。目ではなく、手で「魂の目」を獲得したといえるのかもしれない。ミシンの振動に身をゆだね体ごとメディアになることで「ミシン目が道みたくなって、その道をびゅぅんびゅぅんと走り続けて、おんなじとこでミシン踏んでるのに、運動会のリレーで先頭切って、だぁれも寄せ付けず」 (89ページ)走っているような感覚を体得する。そんなときのカケイさんは、「石担ぎでも女相撲でもなんでもできるんじゃないか」(90ページ) と思えるほど無敵になる。俳句を作る少女たちのように。

幼児は肌を離せ、手を離すな。カケイさんが無敵モードに入っている間に、放っておかれた3歳の娘は亡くなってしまう。「みっちゃん」は娘の名前だった。その死を魂を「ふわふわ」させた自分への罰だと引き受けつつも、それでも娘を兄と一緒にかわいがった3年間は、カケイさんにとって幸せな日々だった。ミシンの技術も、彼女の誇りであり続けた。年寄りの世話をしなくちゃいけない「かあいそう」なケアワーカーの女性に、ミシンを教えてあげようとするほどに。

カケイさんの祖母は死の間際、自分の手に白い花が咲くのを見たと語ったことがあった。「ああだけど、職のつかないこんな手にも、きれいな花が咲くんだねえ」 (29ページ)。やがてカケイさんの手にも、色とりどりの花が咲く。今生の見納めに何か面白いことはないか、と目を動かした先に、幼い「みっちゃん」の手あとがあった。カケイさんは小さな手あとに自らの手を重ねる。

面白いことが好きだけど、本を読む余裕などなく、ひたすら手を動かして生涯を終えたカケイさんやその祖母のような女性は、きっと無数にいるのだろう。カケイさんは発言小町に10本くらいトピックを立ててもいいほどひどい目に遭ってきているのに、言葉によって恨みを定着させることなく、そのときどきのかかわりで他者のとらえかたを変えている。すぐはたく息子の嫁にげんなりしつつも、酒の飲みすぎで手のひらがむくんでいるからあまり痛くないと思い、嫁も何か抱えているものがあるのだろうと想像する。カケイさんの台所をきれいにする嫁の無駄のない手つきを見て、「仕上がってる」と感心したりもする。「みっちゃん」の手にケアされるばかりでなく、家庭の悩みを打ち明けた「みっちゃん」の手を握って慰めることもある。カケイさんは手で他者を理解し、触り合って他者と共鳴する。ケアワーカーの女性たちと亡くなった娘と自分とが、触れて溶け合って「みっちゃん」になり、その境界はあいまいになる。

『手の倫理』は、ふれることで生まれるそのような関係性を、「『まなざし』を介した他者関係とは異なる、『手』を介した他者関係のあり方」 (178ページ)だと表現する。90年代の冷笑文化が嫌がられるのは、「まなざし」が他者を自分たちとはかけ離れた異物として対象化し、ときにそれが暴力となってしまうからだが、手を介した関係ではその逆のことが起こりうる。他者との混ざり合いと共感。そんな手の巧者たるカケイさんとは対照的に描かれるのが、他者と触れ合いたがらないか、いきなり胸をさわってくるような「じいさん」たちである。

「読む女」である私も、他者との触れ合いが苦手で老人ホームでレクリエーションをこなせる自信がない、という意味では「じいさん」寄りの人間ではある。今のところカケイさんのようにはなれそうもない。引き続き「読む女」として魂をびゅんびゅんあちこちに飛ばし続けるつもりだが、手を使うコミュニケーションが想念の暴走をとどめてくれることも、ときどき感じている。

さて、これを書いているのが夜の9時。一緒に寝ようよ。肩もんでいい?と次女が肩をもんできた。気持ちいい?何回がいい?百回がいい?ありがとう、やさしいね、じゃあ一緒に寝ようね。いつまでも母親にくっついて眠りたがるのは情緒の遅れ。そんな読みかじりの言葉が頭をかすめつつも、手は子供のおでこをなでる。子供は目をつむりながらうれしそうににっこりして、憂いはどこかに飛んでいく。

筆者について

堀越英美

ほりこし・ひでみ。1973年生まれ。フリーライター。著書に『女の子は本当にピンクが好きなのか』・『不道徳お母さん講座』・『モヤモヤする女の子のための読書案内』(河出書房新社)、『スゴ母列伝』(大和書房)、訳書に『自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界』(河出書房新社)、『ギタンジャリ・ラオ STEMで未来は変えられる』(くもん出版)、『ガール・コード』(Pヴァイン)など。

  1. 第1回 : 『鬼滅の刃』胡蝶しのぶ人気と『ビルド・ア・ガール』に見るケアの復権
  2. 第2回 : ケアのおせち、あるいはケアの倫理と学校道徳はどう違うのか
  3. 第3回 : 読む女、手を動かす女 「かけ足が波に乗りたるかもしれぬ」と『ミシンと金魚』考
  4. 第4回 : 「ケア」と「面白」の和解を目指して 北村薫のお笑い批評と錦鯉のM1優勝
  5. 第5回 : 子どもの言葉を聞き続けるということ 映画『カモンカモン』の「暗がり」について
  6. 第6回 : 『平家物語』における語るケア
  7. 第7回 : 「人間」を疎外するシステムで、包摂される人々―『コンビニ人間』『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』評
  8. 第8回 : カルトは家庭の顔をする――『母親になって後悔してる』『ミッドサマー』から考えるカルトへの抗い方
  9. 第9回 : 『教えて?ネコのココロ』から考える猫と家父長制
  10. 第10回 : 学生運動に足りなかったもの 母校の高校紛争体験記を読む
  11. 第11回 : 家父長制の国のハロウィン 暴動からボン・ジョヴィへ
連載「ぼんやり者のケア・カルチャー入門」
  1. 第1回 : 『鬼滅の刃』胡蝶しのぶ人気と『ビルド・ア・ガール』に見るケアの復権
  2. 第2回 : ケアのおせち、あるいはケアの倫理と学校道徳はどう違うのか
  3. 第3回 : 読む女、手を動かす女 「かけ足が波に乗りたるかもしれぬ」と『ミシンと金魚』考
  4. 第4回 : 「ケア」と「面白」の和解を目指して 北村薫のお笑い批評と錦鯉のM1優勝
  5. 第5回 : 子どもの言葉を聞き続けるということ 映画『カモンカモン』の「暗がり」について
  6. 第6回 : 『平家物語』における語るケア
  7. 第7回 : 「人間」を疎外するシステムで、包摂される人々―『コンビニ人間』『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』評
  8. 第8回 : カルトは家庭の顔をする――『母親になって後悔してる』『ミッドサマー』から考えるカルトへの抗い方
  9. 第9回 : 『教えて?ネコのココロ』から考える猫と家父長制
  10. 第10回 : 学生運動に足りなかったもの 母校の高校紛争体験記を読む
  11. 第11回 : 家父長制の国のハロウィン 暴動からボン・ジョヴィへ
  12. 連載「ぼんやり者のケア・カルチャー入門」記事一覧
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