宇宙機の制御工学を専門としながら、JAXAのはやぶさ2・OKEANOS・トランスフォーマーなどのさまざまな宇宙開発プロジェクトに携わる、宇宙工学研究者・久保勇貴の新連載がOHTABOOKSTANDに登場! 久保さんはコロナ禍以降、なんと在宅研究をしながら一人暮らし用のワンルームから宇宙開発プロジェクトに参加しているそうで……!? 地べたと宇宙をダイナミックかつロマンティックに飛び回る、新時代の宇宙エッセイをお楽しみください。
ワンルームには、天動説がよく似合う。
部屋の東側、空色のカーテンをぶら下げた窓に太陽が朝を届ける。宇宙の中心であるこのワンルームのために世界が回り始める。ワンルームの朝を気持ちよく演出するために、鳥たちがチュンチュンピロピロさえずりだす。ワンルームでの快適な目覚めのために、起床予定の三十分前にエアコンが室温を整え始める。そのエアコンのふもと、空調の風が最もよく当たる位置に白いデスクがある。宇宙の中心であるワンルームの、その生活の中心である、白いデスク。その白いデスクで、オートミールとプルーン一粒、糖質60%カットのヨーグルトを食べる。なかやまきんに君がYouTubeで紹介していた、完璧な朝食。完璧な朝。世界は、このワンルームのために回っている。その、宇宙の中心であるワンルームの白いデスクで、僕の研究が始まる。ノートパソコンには、コンピュータ上でシミュレーションされた宇宙機の運動を示すグラフが表示されている。人工衛星や宇宙探査機などをいかに上手に制御するかを研究する学問、宇宙機制御工学が僕の専門領域だ。
「宇宙工学を研究してます」と言うと、すごい研究してんねえ、なんて驚かれることが多い。そんでもって、「最近はずっと家で研究してます」と言うとさらに驚かれることが多い。たしかに宇宙というととてつもなく広いイメージがあるし、宇宙工学というとバカでかいロケットとか銀ピカ巨大マシーンのイメージがあるだろうから、こぢんまりと一人暮らしのアパートで研究している姿なんてあまり想像できないのだろう。もちろん分野によっては派手な実験装置を使って研究をすることもあるけれど、 案外僕のようにノートパソコン一つで宇宙工学の研究をしている人も多い。「普段ワープロとグーグルしか使いません!」という人にとっては、ノートパソコン一つで宇宙工学の研究ができるなんて結構驚きかもしれない。
実際にどうやっているかというと、例えば宇宙機を目的地まで正確に飛ばす方法を考える軌道制御という分野では、宇宙機の運動を数学的に方程式化して、その方程式をパソコンで解くというようなことをやっている。「パソコンで計算ってどうやるんだ!」「電卓でやれというのか!」と不安な人も、安心してほしい。今どきはオープンソースのプログラミングソフトがたくさんあるので、ちょこっとプログラミングコードの書き方を覚えればほとんどの計算は誰でもタダでできてしまう。簡単な計算ならエクセルでだってやれなくない。もちろん数学や制御工学の知識については教科書で一生懸命勉強する必要はあるのだけれど、道具に関して言えば、おうちにあるそのワープロ・グーグル専用パソコンでも今すぐ研究を始められてしまうのだ。「軌道力学 シミュレーション」なんかで調べてみると入門用のウェブページがいくつか出てくると思うので、気が向いたら実際に体験してみると面白いと思う(※1)。自分のパソコンで計算した宇宙機の軌道を初めて見た時は、自分の目で宇宙の真理を覗いたような感覚があるかもしれない。
コンピュータシミュレーションは、研究分野によっては万能な手法ではない。例えば、飛行機のように空気中を飛ぶものだと機体やジェットエンジンの周りの空気の運動が非常に複雑なので、そもそも運動を方程式として正確に表現するのが難しい上に、立てた方程式もコンピュータで上手く解くには相当な工夫と高い計算能力が要る。なので、シミュレーションがきちんと実世界の運動を再現できているかを逐一実験で確認するというプロセスがどうしても必要になる。その点、宇宙機の制御はコンピュータシミュレーションとは相性が良い。宇宙機は空気も何もない宇宙空間を飛ぶので複雑な運動をする要因が少なく、ほとんどの運動はニュートンの古典的な方程式にかなり良い精度で従うからだ。宇宙での物体の運動というと、とんでもなく難しい方程式を解くようなイメージがあるかもしれないけれど、少なくとも宇宙機の制御という点では高校の物理で習う方程式でもそこそこ太刀打ちできてしまうものなのだ。これまた結構驚きかもしれない。
また、コスパの観点で見てもシミュレーションは宇宙工学と相性が良い。実際、宇宙空間に機械を飛ばして実験をしようと思ったら1キログラムあたり百万円というとんでもない打ち上げ費用がかかるのに対して、シミュレーションは必要機材がおうちのパソコン一つという抜群のコスパを誇っている。さらにさらに言うと、実際の宇宙機は打ち上げ後に故障したら基本的に二度と修理しに行けないという大きな制約が課せられることを考えても、失敗したら何度でもやり直せるシミュレーションはとっても有用な道具だと言えるだろう。
そういうわけで、僕の研究は多くの場合パソコン一つで完結してしまう。ワンルームの白いデスクにA4サイズのノートパソコンを広げ、今日も一人黙々と研究をする。大がかりな道具は要らない。何度失敗したっていい。思いついたアイディアが上手くいくことなんて滅多にないけれど、それでもパソコンに向き合い続け、そうこうしているうちにあっという間に日は暮れていく。それが、今の僕の生活だ。
ワンルームには、天動説がよく似合う。
部屋の西側、外の世界との境界線である玄関には、窓が無いかわりに小さな覗き穴がある。太陽は半日のうちに西側へと移動して、すると、その覗き穴を通った陽光がこのワンルームに光の筋を落とす。薄暗い廊下にその筋がぼんやりと見えるのは、きっと宙に舞ったホコリがその光を散乱させるからだ。だからそれは、宇宙の中心であるこのワンルームのわずかな綻びだと思う。ならば、なら、そうそう、奈良に王朝があった時代には、世界の中心である大和から見て西側の果てに位置する出雲は、死の世界だと捉えられていたらしい。日の没する方角はつまり、死のイメージと直結している。だから、宇宙の中心であるこのワンルームの西側に位置する玄関もまた、死の象徴としてそこにあるのだと思う。
幼い頃から、死ぬのがこわくてたまらない子供だった。風邪で熱を出した時に必ず見る夢、オレンジ色の常夜灯だけをつけた薄暗い部屋で、微動だにせず布団に横たわる自分自身を斜め上から永遠に眺め続ける夢。夢を見ている時間はせいぜい数分ぐらいなのに何百年も何千年もずっとそのまま眠り続けてきたような気がして、けれども周りには誰もいなくて、ずっと寂しくて、ずっと薄暗くて、そんな夢。その夢が、たまらなくこわかった。僕が死んでも、僕に関係なく世界は回り続ける。世界は変わらず回って、僕は誰にも会えない、何も聞こえない、何も分からない、分からないということすら認識できない、と、いうことさえも認識できない、そんな真実の虚無のおそろしさを、僕は感じた。生まれて初めて、死というものの恐怖を体感した瞬間だった。もちろん言語化なんて到底できない幼稚園児には、ただなんとなくこわい夢を見たとびゃんびゃん泣き喚いてみるしかなかったように思う。
古代から中世にかけて東洋、西洋、ありとあらゆる文明における世界観は決まって天動説に基づいていた。世界の形に関しては、巨大な亀さんの背中に地面が支えられているだとか巨大な天球の入れ物の真ん中に地面が浮いているだとか色々な説があったようだけれど、自分たちの住む世界が中心であるということに関しては世界中誰も疑うことがなかったらしい。たぶん、生まれた時ってそうなんだろう。誰もが、自分こそがこの世界の中心であるということを疑わないんだろう。きっと、僕もそうだったんだろう。だからこそ、死は途方もなくおそろしいことだった。僕は世界の中心ではなくて、僕が死んでもそんなことには関係なく世界は回り続ける。こんなにも僕の命はかけがえがなくて、なのに、世界にとってはほとんど何の価値もない。 そしてその事実は、僕の頭の中では宇宙のイメージと重なっていたように思う。何千年も何億年も存在する宇宙。僕が死んで、人間がみんな死んで、太陽が寿命を迎え、地球が壊れた後もなお延々と存在する宇宙。僕にとっての宇宙の原像は、そういう死の永遠の孤独を想起させるものだったと思う。そしてどういうわけか、それが魅力的にも見えてしまったのだろう。こわいもの見たさともまた少し違う独特の引力を感じながら、いつの間にか僕はそのおそろしい宇宙を研究対象とする道を歩むことになった。
ワンルームの陽が落ちる。日の没する方角に位置する玄関の覗き穴が、ひんやりとこちらを見つめている。世の中もそうだ。死の象徴である玄関をひとたび開けば、世の中はおそろしい。おそろしい病気が蔓延していて、人はおそろしい、人間関係はおそろしい、社会人になるのはおそろしい、地下鉄に乗ることも、お金を稼がなければ生きていけないことも、大好きな人と話をすることも、愛も恋も、高いところも狭いところも、学級会も中間テストも、ていねいな暮らしもインスタグラムも何もかも、おそろしい。自分にとって他人がどうでもいいように、他人にとっては自分もまたどうでもよくって、そのように、他人にとっては自分の死もまたどうでもいい。ワンルームを出れば、もう自分は世界の中心ではない。そんなだから、世の中はおそろしい。
おそろしいものに手を伸ばすことは、こわい。だって、こわいもん。ああこわいこわい。こわいけれど、宇宙の中心であるこのワンルームからなら少しだけ目を向けられるような気もする。パソコン一つで宇宙の真理を覗けるように、このワンルームからなら、おそろしいものにも少しだけ向き合ってみることができるような気もする。向き合うことで僕らは、そのおそろしいものを研究対象にすることができる。対象にできれば、対処できる。だから僕は、文章を書くのだろう。ワープロソフトを開いて、パソコン一つで世界のおそろしさに触れようとするのだろう。大がかりな道具は要らない。何度失敗したっていい。モニャモニャした感情を的確に文章にすることはとても難しくて面倒なことだけれど、それでもパソコンに向き合い続け、そうこうしているうちにあっという間に夜が深まっていく。それが、今の僕の生活だ。そういうことを書きたいなあと思う。そういう生き方をしたいなあと思う。
ワンルームを出ると、まばらに星が現れた。階下で、ほぼ同じタイミングで誰かが玄関を閉める音がした。ばったり会って挨拶しなきゃいけないのもなんだかめんどいので、少しゆっくりと階段を降りる。 降りる時、階段のインコース側にやや体を寄せると、ちょうど廊下の蛍光灯が視界から隠れる。明かりが視界から隠れると暗闇に目が順応するので、少しだけ星が明瞭に見えるようになる。だから、ゆっくりゆっくり階段を降りる間に、星明かりがだんだんと明瞭になっていく。
地動説の誕生は、我々の世界を特権的な地位から引きずり下ろすと同時に、広大な宇宙の下での人間の平等を唱える思想へとつながったらしい。だとすれば、僕が世界の中心でないからこそ、僕の目もこうして平等に暗闇に順応できているのかもしれない。世界の中心でないからこそ、星明かりは僕の下へも平等に降り注ぐのかもしれない。だとすれば、それが本当だとすれば、世の中って本当におそろしいものなのかなあ。
階下の住人が階段を降りる音が遠くなる、なるがなおも、僕はゆっくりと階段を降り続けている。頭上に見えるおうし座のアルデバランは、地球から65光年離れている。だから、僕が今アルデバランを見上げている映像がアルデバランに届く65年後には、僕はもうこの世にはいないのかもしれない。大好きな人も、家族も、友達もみんな、みんないないかもしれない。そして、そんなことにはやっぱり関係なくこの宇宙は当たり前の顔をして存在し続けるんだろう。それってやっぱりおそろしいことだよなあ。ああおそろしいおそろしい、けれどゆっくりと、僕は階段を降り続けている。宇宙の中心であった僕のワンルームが一歩ずつ僕から遠ざかっていく。こわいもの見たさともまた少し違う独特の引力を放ちながら、なおも星明かりは律儀に平等にその輝きの明瞭さを増し続けていた。
だからもう少し、もう少しだけこうしていたいと、僕は願った。
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※1 僕の先輩である軌道制御のエキスパート・尾崎直哉さんが紹介している記事がおすすめ。「Pythonを使って人工衛星の軌道を表現する~軌道6要素、TLE~」https://sorabatake.jp/23655/
【お知らせ】
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筆者について
くぼ・ゆうき。宇宙工学研究者。宇宙機の制御工学を専門としながら、JAXAのはやぶさ2・OKEANOS・トランスフォーマーなどのさまざまな宇宙開発プロジェクトに携わっている。ガンダムが好きで、抹茶が嫌い。オンラインメディアUmeeTにて「宇宙を泳ぐひと」を連載中。