ぼんやり者のケア・カルチャー入門
第4回

「ケア」と「面白」の和解を目指して 北村薫のお笑い批評と錦鯉のM1優勝

カルチャー
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『女の子は本当にピンクが好きなのか』・『不道徳お母さん講座』で話題の堀越英美さんによる新連載「ぼんやり者のケア・カルチャー入門」。最近よく目にする「ケア」ってちょっと難しそう…でも、わたしたち大人だって、人にやさしく、思いやって生きていきたい…ぼんやり者でも新時代を渡り歩ける!?「ケアの技術」を映画・アニメ・漫画など身近なカルチャーから学びます。第4回のテーマは、「嘲笑のツッコミ」と「ケアするツッコミ」。

「ケア労働」に閉じ込められる恐怖

最初の出産を控えて実家に里帰りしていたときのことだ。母と一緒に犬の散歩をしていると、見知らぬ中高年女性グループに呼び止められ、仕事から配偶者のことまで根掘り葉掘り聞かれた。あとから母に聞いてみると、弟の同級生の母親たちだという。

「その完全なる他人が、なぜ私に興味を?」

母は、今まで知らなかったのか、というふうにあきれた様子で答えた。

「そりゃあ、あんたは変わり者で有名だったから……」

変わり者。変わり者。思いのほかショックを受ける。子どもの頃は、ちゃんと普通にふるまっていたつもりだったのに。クラスの女子の9割がスカートをひきずるレベルで制服を改造するヤンキー中学で、面倒くさいから髪も染めず、スカート丈も伸ばさなかったほど地味に生きてきたのに。いや9割がヤンキーなら、変わっているのは私のほうなのは事実なのか。でも、ヤンキーにならなかった地味女の半生なんて知りたいものだろうか。

それとも高校時代、異常に居眠りばかりしていたのがまずかったのだろうか。でも、うわさになるほどのとがった話とも思われない。

記憶をせっせと掘り起こしていると、ふいに中学時代の思い出がよみがえってきた。

TMネットワーク。

当時の私は、TMネットワークというミュージシャンに入れあげていた。小室哲哉が所属していたグループで、退勤時にぴったりなBGMとして知られる「Get Wild」を作った人たち、といえば現代の若者にも通じるだろうか。どうしても東京で開催されるコンサートに行きたい。その一心で、夜間の外出を許さない親と一週間にわたって激論を交わした。東京の親戚の団地に宿泊するという条件でどうにか許され、東京行きの荷物を抱えて早朝の人気の少ない商店街を歩いていると、知らないおばさんたちが私のほうを見てひそひそ話をしているのがはっきり聞こえた。

「真面目な子だったのにねえ、ついにワルくなっちゃって」

TMネットワークなのに。解せなさが中学生の頭を駆け巡る。ライブ中に臓物投げつけるパンクバンドなんかじゃないのに。ひとりでは解けない愛のパズルを抱えているだけなのに。多摩ネットワーク略してTMネットワークなのに。そもそも、中学生が東京のコンサートに行くレベルの話が、ご町内に広まっているってどういうことなの。

せつない出来事を思い返して、妊婦だった私が改めて感じたのは、「おばさん」の娯楽の少なさだ。ケア労働に追われるあまり、私といういくら噛んでも味がしなさそうなつまらない一般人のゴシップを追い求めるほど娯楽に飢えてしまうなんて、あまりに気の毒すぎる。世の中にはもっと面白い人がいる、もっと面白いことがあるはずなのに。

そして自分が、地元から逃げ、結婚や出産から逃げ続けて都会の独身OLをやってきた理由も、これだったのだと改めて思った。ケア労働に閉じ込められて、面白いことから引きはがされてしまうのが怖かったのだ。コンサートにも行けず、ご近所のうわさ話がわずかな娯楽だなんて、絶対に自分には無理だと思っていた。どうせうわさ話をするなら、アグリッピナとか則天武后レベルの悪女の話をしたい。絶対ご近所に則天武后いないでしょ。いても困るけど。

それから子どもを産み、本格的におばさん稼業に足を突っ込んではや10数年。当初は授乳タイムを読書にあて、文化にへばりつこうと必死だった。寝不足とホルモンの激動でぼんやりが加速していたが、それでもなぜか読める進化心理学の本にはまった記憶がある。人間を動物として扱う進化心理学の話は、「人間、この複雑なるもの……」と頭を抱えたくなる文学とちがってシンプルで、授乳中のぼんやり頭でも理解しやすかったからだと思う。

進化心理学は、うわさ話はヒトの社会集団が拡大してできなくなった毛づくろいの代わりだということを教えてくれた。私の個人情報を探りたがるおばちゃんたちは、正しく遺伝子の乗り物をしていたのだ。遺伝子サイドからすれば、集団構成員の情報に疎い私は、さぞかし乗りづらかったことだろう。セグウェイなのかな?と遺伝子は思ったかもしれない。というわけで、遺伝子のセグウェイこと私は相変わらずご近所のうわさ話は苦手である。巻き込まれそうになったら、「ごめんなさい、私、人の顔を覚えるのが苦手で、誰のことだか……」と、ぼんやり作戦で逃げ切ってきた。作戦というか、本当に覚えていないのだけど。

ただ、あれほど離れたくないと思っていた面白のいくつかが、遠くなってしまったように感じるのも事実である。

「ケア」で広がった「面白い」世界

「れ」

ママ

ここに

カンガルーがいるよ

これは作家の北村薫のエッセイ『詩歌の待ち伏せ(上)』(文藝春秋、2002年)で紹介されていた、3歳の子どもの詩である。もともとは読売新聞「こどもの詩」に投稿されたものだ。

北村薫はこの詩を新聞本紙ではなく、読者投稿本『VOW4』への転載で目にしたと語る。「VOW」シリーズは、街の変なものを読者が投稿し、それに担当者がツッコミをいれる90年代の人気雑誌の一コーナーから生まれた書籍だ。SNSの登場で誰もが面白いものを投稿し、ツッコミを入れられるようになった現代においては成立しづらいたぐいの書籍だが、ネット以前の世界では確かに人気があった。私も楽しく読んでいた記憶がある。それなのに一読、いたたまれない感覚を覚えた。いたたまれなかったのはもちろん詩そのものではなく、VOWコーナー担当者のツッコミである。「タ、タイトルが『れ』。凄いな。れ。しかもただの子供のたわごとだしなあ」。おそらく子どもの詩を「変なモノ」として投稿した人も、コーナー担当者も、カンガルーを見た幼児が「れ」というたわごとを口走ったと勘違いしたのだろう。

このツッコミを、北村薫は「恐ろしい」と評する。私も思った。この詩の意味がわからないなんて恐ろしい。なぜならどう見ても、「れ」を文字として認識していない幼児が、形からカンガルーを連想して、母親に報告した、(母親がそれを書き留めて投稿した)という詩ではないか。

とはいえ、90年代の私が同じ詩を読んでいたらどう思っただろう。ろくに乳幼児をケアしたことがなく、その世界観を知らなかった私は、子どもの詩にとんちんかんなツッコミを入れて笑う側にいたかもしれない。それが想像できたから、いたたまれなかったのだ。

若かった私は、「VOW」に載るような変なものが好きだった。いや、今も好きだが、当時は異常な情熱で変なものを追いかけていた。サークル仲間との旅行先に、ディズニーランドでも海でもなく、珍スポットとして当時有名だった「神秘珍々ニコニコアハハ園」を選んだこともあるくらいだ。神秘珍々ニコニコアハハ園でエキセントリックな園長の海軍よもやま話を聞くのは、スーツを着た社会人から就活テクニックを聞かされるよりよほど楽しかった。世の中には「昼休みは友だちとボール遊びをしないといけない」とか「高校生になったら誰かに恋愛感情を持って恋バナをしないといけない」とか「会社で働く女はストッキングをはかないといけない」とか「春の流行色は〇〇」とかいったルールがいっぱいあって、ルールブックもないのに少しでも間違えたら「普通」ではない「変わり者」として排除されてしまうんじゃないかというぼんやりとした恐怖があったせいだと思う。変なものを見ると、世の中は意外になんでもありなのかもしれない、という気分になれた。

さらに変なものを見てツッコミをいれれば、自分は「まとも」の側にいられる。でもそれは、嘲笑と紙一重である。

北村薫は、子どもの詩に対するツッコミを「口の端を吊り上げてするような嘲笑」と嫌悪感をあらわにする。今の私も、この嫌悪感に同調せざるをえない。これは子どもがかわいそう、という同情心だけではない。世界を言語で分節する以前の乳幼児の世界の捉え方を観察するほうが、それをただ劣ったものとしてバカにするよりも面白いという感覚が、今の私にはあるからだ。

北村薫によれば、嘲笑には「自己防御の快感」があるのだという。ああ、そうだ、と当時の感覚を思い出す。あの、強迫的に他者を冷笑しようとする90年代の若者文化は、確かに自分の身を守るものだった。

女は家庭でケアをするもの、男は社会で競争するもの、と世界が二分されていた時代。ケアの世界では、「普通」でないと生きにくい。それなら、と逃げ込んだ先は、知識量や読んだ本の冊数、レコードの数等々で競いあう文化系の社会だった。家事どころか身の回りの世話さえ母親任せにして趣味にかまけてきたような人間ほど、優位に立ちやすい社会でもある。いきおいそこでは、ケア要素のない殺伐としたやりとりが中心になる。ダサい、趣味が悪い、教養が無いと思われるのは、すなわち攻撃にさらされることだった。でも、センスの良しあしや教養に客観的な指標はない。ぼんやりとした指標が共有されているとはいえ、それは時代や空気によって移ろいやすいものでもある。センスや教養を競争の道具にしてしまえば、いつだってダサい、バカだと笑われる危険と隣り合わせだ。

だが、ここにはいない他者をみんなで笑えば、ひとときの連帯が得られる。冷笑しているときだけは、自分を守ることができるのだ。そういう意味では、おばさんのうわさ話と似たような、社会的毛づくろいの一種だともいえる。「変わってるつもりかもしれないけど、普通なんだよなあ!」と、なぜか勝ち誇ったように若い女性をバカにする男性に、90年代は何度もお目にかかってきた。普通でいるのはとても難しいことだし、ありがたいことでもあるのに(何しろ町のうわさにならなくて済む)、なんでバカにするのだろう?と当時は不思議だった。ケアの世界に生きるおばさんたちは、ケアの世界になじめない「変わり者」をうわさのタネにするけれど、普通の女性をバカにしたがる男性たちは自分たちのケアを担わず同等になろうとする女に「普通」というレッテルを貼ることで、ケアの世界に追い返そうとしていたのかもしれない。

「恐いのは、笑ってしまうと、そこで人と繋がらなくなってしまうことです。ミスをした選手の姿を見て、滑稽だと腹を抱えた時、同時に彼の胸中を思う人はまれでしょう」

「しかし、同時に他を拒否することにもなる。高みに立って、笑ってやろうと身構えてしまえば、人の心は見えなくなります」

『詩歌の待ち伏せ(上)』北村薫/文藝春秋/70ページ)

北村薫がここで言うのは、冷笑文化におけるケアの無さである。そして「高みに立って、笑ってやろうと身構えてしま」う心のクセ、私にも覚えがある。冷笑されまいと、私も必死だったのだろう。

北村薫はさらに、当時の文化全般についても警鐘を鳴らす。

「世の中は、非常に便利になり、楽が出来るようになりました。一方で消えたものもあります。《貧しくとも健気に生きて行く、子供漫画の主人公》などというのもその口でしょう」

同上/69ページ

ここで現代の私は立ち止まり、タイムマシンに乗って当時の著者に教えてあげたくなる。《貧しくとも健気に生きて行く、子供漫画の主人公》、消えていませんよ。あ、20年後の日本から来た者ですこんにちは。はちゃめちゃに人気が復活していますよ。『鬼滅の刃』っていうマンガの、竈門炭治郎っていうんですけれども。

「彼は、金持ちのお坊ちゃんに、いじめられます。家計を助けるため牛乳配達をすると、その牛乳をお坊ちゃんに取られてしまったりする。罵られても、ひたすら耐える。勝つための手段は、ただ誠意です。こういう、平凡な日常の中を生きる、地味で真面目な主人公は、今の少年週刊誌のヒーローにはなりにくい。逆に笑いの対象になってしまうでしょう。」

同上

1949年生まれの著者は、「家計を助ける」少年がヒーローとして現役だった高度成長期以前に少年時代を過ごしている。それもあって、「非常に便利になり、楽が出来るよう」になった時代に一方的にケアを享受し、ケアすることを知らずに育った者たちが作る文化に違和感があったのではないかと思う。『鬼滅の刃』は平凡な日常とはいいがたいし、勝つための手段は誠意ではなくて毒で弱らせた鬼の首を斬ることだが、明らかに90年代の冷笑文化とは一線を画している。何しろ主人公は、圧倒的な他者であるはずの鬼の胸中を思い、その心をみようとするのだから。そして家族を殺される前の主人公は、「家計を助ける」少年だった。

「嘲笑のツッコミ」から「ケアするツッコミ」へ

「昔の芸人の多くは、自分が笑われていました。そういう役を、真面目に演じていた。ところが、いつの頃からか、誰かを嘲笑う芸が増えて来ました。」

同上

このあたりも、現代のお笑い事情は少し変わってきているように思う。たとえば、昨年末の「M-1グランプリ」で「50歳おバカの大冒険」というキャッチコピーとともに登場し、チャンピオンになったお笑いコンビの錦鯉。「街中に逃げた猿をつかまえたい」という最終決戦のネタで、バナナで猿をおびきよせようとして、「あれ?バナナがある!」と自分が罠にひっかかるというボケを3回繰り返す。誰かを嘲笑う芸ではないが、バナナで滑って転ぶ昔ながらの笑われ芸でもない。むしろ人類の進化を猿以前まで逆走する狂気で笑いをとっていくスタイルだ。もちろん、ツッコミは絶えず入り続ける。でも一番大きな笑い(と拍手)が起きたのは、興奮して暴走しかけるボケ担当をツッコミ担当が老人介護の要領で抱きかかえ、横たわらせるくだりだった。逸脱者を「まとも」の側から否定する通常のツッコミではない。それはあたかも、荒ぶる大自然をケアによって抱きとめ、鎮めるようなツッコミだった。

このような現代のお笑い事情を「誰も傷つけない笑い」と評する人もいる。最高に面白いお笑いを見て、面白くない自分に傷つく人もいるだろうから、「誰も傷つけない」のは実際には不可能だ。だが少なくとも、傷つけてやろうという攻撃性があからさまな人の活躍の場は、年々小さくなっているように見える。

ずいぶん前のバラエティ番組で、当時司会者として活躍していた中高年の男性芸人が若い女性芸人の容姿を執拗に攻撃しているのを目にしたことがある。ただ容姿をブサイクだと言い募るだけで、ひねった形容などの笑える要素はどこにもない。リアクションしづらい罵倒を一方的に浴びている女性芸人は、今にも泣き出しそう。明らかに異様な雰囲気だった。やがてその女性芸人はコンビを解散し、テレビでは見なくなった。男性司会者も、いつの間にか芸能界を引退していた。その後、彼が舞台裏で男性若手芸人やスタッフにもひどいパワハラをしていたことが報じられた。

冷笑文化で才能を発揮できるのは、ケアをしない人々だ。若くて権力を持たないうちは、人を人とも思わない不遜さがかっこよく見えることもあるだろう。だがそんな彼らが加齢で権力を握れば、苦しむ人々が増える。現代において中高年として社会を牛耳っているのは、まさにケアすることを知らずに育った世代である。そんな社会の事情も、(少なくとも意図的には)「傷つけない」お笑いや、ケア要素のあるカルチャーが若者たちの人気を集める原因のひとつとなっているのかもしれない。

ケアを押し付けられた女たちが「普通」から逸脱しないようにうわさ話で相互監視する世界も息苦しいものがあるが、「普通」からの逸脱を目指してケアを放棄する面白ワールドも息苦しい。息苦しいのは、同質性が強く、どちらも他者にひらかれていないからだ。北村薫のエッセイは、そんな文化が時代のあだ花にすぎなかったことを教えてくれる。ケアと面白は分けてはいけなかったのだ。われわれおばちゃんに面白を楽しむ自由を。面白大好き人間にケアのともしびを。社会的毛づくろいにマウンティング。猿から進化してきた私たちは、猿であることからは逃げられないのかもしれないが、どうにか隙間道を見つけて面白とケアのいいとこどりをしたいと思う。セグウェイに乗って、のろのろ運転で。

筆者について

堀越英美

ほりこし・ひでみ。1973年生まれ。フリーライター。著書に『女の子は本当にピンクが好きなのか』・『不道徳お母さん講座』・『モヤモヤする女の子のための読書案内』(河出書房新社)、『スゴ母列伝』(大和書房)、訳書に『自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界』(河出書房新社)、『ギタンジャリ・ラオ STEMで未来は変えられる』(くもん出版)、『ガール・コード』(Pヴァイン)など。

  1. 第1回 : 『鬼滅の刃』胡蝶しのぶ人気と『ビルド・ア・ガール』に見るケアの復権
  2. 第2回 : ケアのおせち、あるいはケアの倫理と学校道徳はどう違うのか
  3. 第3回 : 読む女、手を動かす女 「かけ足が波に乗りたるかもしれぬ」と『ミシンと金魚』考
  4. 第4回 : 「ケア」と「面白」の和解を目指して 北村薫のお笑い批評と錦鯉のM1優勝
  5. 第5回 : 子どもの言葉を聞き続けるということ 映画『カモンカモン』の「暗がり」について
  6. 第6回 : 『平家物語』における語るケア
  7. 第7回 : 「人間」を疎外するシステムで、包摂される人々―『コンビニ人間』『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』評
  8. 第8回 : カルトは家庭の顔をする――『母親になって後悔してる』『ミッドサマー』から考えるカルトへの抗い方
  9. 第9回 : 『教えて?ネコのココロ』から考える猫と家父長制
連載「ぼんやり者のケア・カルチャー入門」
  1. 第1回 : 『鬼滅の刃』胡蝶しのぶ人気と『ビルド・ア・ガール』に見るケアの復権
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  9. 第9回 : 『教えて?ネコのココロ』から考える猫と家父長制
  10. 連載「ぼんやり者のケア・カルチャー入門」記事一覧
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