あなたの感想って最高ですよね! 遊びながらやる映画批評
第2回

人種差別も反進化論も批判しているのに…やっぱり昔のSF映画? 『猿の惑星』を初めて見た

カルチャー
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フェミニスト批評家・北村紗衣さんによる「あなたの感想って最高ですよね! 遊びながらやる映画批評」は、北村さんが初めて見た映画の感想をアドリブで話しながら、映画を見る際に注目してほしいポイントを紹介していく連載。取り上げる作品は読者の皆さんからも募集しつつ、北村さんの元指導学生・飯島弘規さんと、担当編集で選定していきます。

連載の中で紹介されていくポイントを押さえておけば、感想が「なんかよかった」「つまんなかった」しか思い浮かばなかった映画やジャンルも、新たな視点で楽しめるかもしれません。

本連載はテキストだけでなく、収録の様子を一部、YouTubeの太田出版チャンネルに公開していきます。記事におさめられていない話も含まれていますので、本記事とあわせてどうぞ。第二回のお題は『猿の惑星』です!

※あらすじ紹介および聞き手は飯島さん、その他は北村さんの発言になります。
※なお、あらすじ紹介の直後に、結末についての言及があります。

あらすじ

ケープ・ケネディを発った宇宙船が、未知の惑星の湖に不時着する。休眠状態にあった4人の宇宙飛行士のうち女性1人が死亡、テイラー(チャールトン・ヘストン)ら生き残った3人の乗組員は沈みゆく船から脱出。辛うじて生存可能な環境であったその惑星を探索するも、そこで目にしたものは野生の人間と、彼らを狩る猿たちという、地球と立場がまったく逆転した世界であった。

テイラーは意思の疎通ができる貴重な人間として、動物心理学者であるチンパンジーのジーラ博士と、彼女のパートナーであり「猿は知能の低い人間が進化した」という仮説を唱えるコーネリアスに保護される。しかし、そんな彼らを猿の指導者であるオランウータンのザイアスは「猿たちこそ神に選ばれた唯一の生き物」とする聖なる書物に反する存在として危険視する。

異端者として審問にかけられるジーラたちは自らの汚名を返上するため、聖なる書物よりも古い文明の跡があるという禁制区域へと向かうことを決意。牢に入れられたテイラーは、同じく捕らわれていた野生の人間ノヴァと共にジーラたちに救い出され、禁制区域のさらにその先へと旅するも、そこで見たのは衝撃の光景であった……。

プロットホールに要注意!

――北村先生はティム・バートン監督『PLANET OF THE APES/猿の惑星』以外の『猿の惑星』シリーズはご覧になっていないとのことでした。『猿の惑星』はいかがでした?

前回と同じようによくわからなかったことから話したいんですけど、テイラー一行は何のミッションで宇宙に行ったんですか? 何をしにこの人たちは宇宙に行ったのかが全然わからなくて。ミッションが終わったらできれば地球に戻りたいと思っていたんですよね? そのわりに行った先で子どもを作るつもりだったみたいなことを言っていましたよね? 

これってまさか『エイリアン』の第1作みたいな展開になるのかなって思ったんですよね。『エイリアン』って終盤に「乗組員を犠牲にしてでも、生きたままエイリアンを捕獲することを優先する」という計画が判明して、乗組員のひとりがずっと不審な動きをしていた理由がわかるじゃないですか。『猿の惑星』も同じように、一部の乗組員にしか知らされていない植民地化計画みたいなものがあるのかなと思っていたら、ぜんぜんそんな種明かしもなくて。

しかもこの映画は最後に、テイラーたちが不時着した惑星は実は地球だったということに気が付くんですけど、気づきませんか!? 「この惑星は地球なんじゃないか」くらい考えません?

最初から地球だと気づいていたらお話が進まないのでしょうがないんだろうと思うんですけど、2024年にこの種の映画を作るとしたら、行き先を地球に設定していたけど計器が地球を指していないとか、気が付かない理由を最初に言ったりすると思うんですよ。わかんないですけど。

――地球よりも空気が悪いとかですかね。不時着してすぐに土の成分を調べて、炭水化物の痕跡について話したりはしていましたね。

まあ猿含めてみんなが英語を話している時点で無粋な突っ込みかもしれないんですが。ただ、こういうストーリー上の矛盾やおかしなところを「プロットホール」といって、そこに注目すると映画を見る際に脚本の問題点などに気づいたりできるおすすめのポイントです。

猿が英語を喋ってる!?

英語の話をしたので、ついでに無粋な突っ込みを続けると「言語の設定」も重要になることがあります。

例えば『たったひとつの冴えたやりかた』という日本で爆発的に人気があるSF小説の短編集におさめられている「衝突」という作品では、異星生物と人類で言語が違うために意思疎通できないんですね。異星生物は水に触れると火傷してしまうんですが、意思疎通できないので、人類に水が必要だということがわからなくて。

SFでは80年代くらいから言語の設定がもうちょっと複雑になっていったと思います。テレビドラマシリーズの『スタートレック』も、実在する言語学者が作品内の言語を作っていました。最近だと『メッセージ』も、世界各地に突然現れた宇宙船に乗っている生物の言語を理解しようとする物語ですよね。

言語でコミュニケーションを取れないことが作品の中で重要になったり、あるいは翻訳機を使ってコミュニケーションを成立させたりするんです。この言語の設定がけっこう英語中心的であることも昔のSFだなぁという感じですね。

退場した人物に注目すると見えるもの

あと惑星に不時着する前の宇宙船で、乗組員で唯一の女性のスチュアートが死んじゃうじゃないですか。特にそのことが回収されることもなかったので、いったいなんだったんだ? と思ったんですよね。

しかも、そのあと現地人と初めて遭遇したシーンで、乗組員で黒人のドッジが猿に射殺されていますよね。つまりこの映画って、白人男性以外はすぐ退場させられているんですよ。

これってプロット上、女性や黒人がいるとまずかったってことだったんじゃないですかね。猿によって差別される人間がいて、そのなかで男性と女性、白人と黒人の間の差別を描く、という難しいテーマに取り組むのを避けたのかもしれません。

すぐに退場させるなら、最初から白人男性だけにすればいいし、あるいはテイラーだけが宇宙船に乗り込んでいればいいじゃないですか。いや、なんも考えられてないのかもしれないんですけど。

このように誰がどのように退場しているのかに注目すると、何が描かれていないのかがわかります。この映画が描くのを避けようとしたことがわかるんですよね。これは描かれているものを考えるのよりも難しいと思います。

俳優=役ではないけれど…

それから、主人公のテイラーをチャールトン・ヘストンが演じていることはとても大事なのかもと思いました。ヘストンって後に保守派になりましたけど、若いころから人種差別にすごい反対していたじゃないですか。

『猿の惑星』は、白人男性の典型みたいなマッチョなヒーローが冒険をするという娯楽的な側面と、白人たちを奴隷的な立場に置くことによって、社会が変わると白人男性も差別を受けるのだから人種差別・隔離はよくないのだ、といったことを示唆する社会風刺的な側面がある映画だと思うんですよ。

ヘストンは『ベン・ハー』で1959年にアカデミーの主演男優賞を取っていますが、そんな俳優が『猿の惑星』のような娯楽的な側面もあるSF映画に出るのって今よりも若干ハードルが高いと思うんですよ。それでも出演したのって、『猿の惑星』に自分がやりたいと思う社会的な要素とか鋭いテーマ性がこの映画にあったからなんじゃないですかね。

――ヘストンは、プロデューサーのアーサー・P・ジェイコブスに、フランクリン・J・シャフナー監督を推薦しているんですよね。

なるほど、制作自体にかかわっているんですね。

マッチョなSFのジェンダー観

テイラーって感情移入のできない主人公ですよね。なんかずっとイヤな奴じゃないですか。しかもスチュアートが宇宙船に搭乗していたのは「新しいイブになってもらうため」と言っていて。母親になるために乗っているって性差別的だなって思ったんですよ。

――テイラーが現地人のノヴァに、スチュアートはプレシャス・カーゴ(貴重な荷物)だった、と説明しているシーンもありましたよね。

人間を荷物扱いするって、まず奴隷船が思い浮かびますよね。これって、女性を荷物扱いするような白人男性も場所によっては差別される側になるんだぞ、という社会風刺的な話なんですかね、わかんないんですけど。

あとノヴァの描写も気になるんですよね。この人だけ話をしないし、やたら薄着じゃないですか。しかも妙にテイラーに気に入られているし、一緒にいようとしているんですよね。プロット上、薄着の女性がくっついている必然性はないと思います。

現地人にも嬉しいとか嫌だといった簡単な感情機能はあるように見えるので、乱暴な言い方になりますが、原始的な人間がそばに頭がよくて強そうな男性がいることに喜んでいるって描写なんだと思うんですよね。でも、まるでつがいの片方みたいに女の人をもってこられたら怒りませんか!? 私だったら怒ると思うんですけど。

『猿の惑星』って、社会風刺的なきちんとした映画に見えるんですけど、無駄にお色気場面があったりするのは昔のSFだなあと見ていて思いましたね。

――『猿の惑星』は、猿のほうが女性差別を感じない気がしました。テイラーを保護するジーラ博士は、猿たちに認められていましたよね。

『猿の惑星』から6年後、1974年に公開されたジョン・ブアマン監督の『未来惑星ザルドス』という映画があります。エリート階級と蛮族が完全に分けられて暮らしている未来が舞台なんですけど、ショーン・コネリーが蛮族で、シャーロット・ランプリングがエリート層の人物を演じているんですね。エリート層が、性差別的ではないものの、人間らしくないものとして描かれているんですよ。これまた男性中心的な映画でもあります。

また、『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』でも取り上げているのですが、『すばらしい新世界』というディストピア小説があります。大きな戦争の後、宗教など文化が否定され、妊娠・出産は人工的に行われ、階級もあらかじめ決められています。一方、その周縁には「野人」たちがかつての生活様式で暮らす保護区があるんですね。

『未来惑星ザルドス』では、人間らしくないエリート層が性差別をしない。『すばらしき新世界』のディストピアは、文化的なものを否定する一方で、女性が苦痛を感じることなく再生産ができるんです。何が言いたいかというと、私はたいへん気に入らないんですが、男女の差がなくなることが人間らしくないこととされる傾向がマッチョなSFにはあると思うんですよ。

『猿の惑星』に関して言えば、ジーラはすごいいいヒト……っていうのは人間中心的ですね! すごくいいサルなので、イヤな感じはないんです。ただ、他に女性の猿が出てこないので、ジーラは実力があるから認められているだけで能力主義的なのかもしれないし、育ちがよさそうにも見えるので貴族主義的なところのある世界なのかもしれないですね。

反進化論法裁判のさなかで…

あと、アメリカでは定期的に学校で進化論を教えるべきではないみたいな反進化論法裁判があるんですが、『猿の惑星』が公開された68年にもアーカンソー州で裁判があったんですね。

偉い猿たちは公正な科学研究とか教育を抑圧しようとしているわけですよね。進化論を厳密にいうと「猿が人間になりました」という単純な話ではないはずですけど、この映画は進化論そのものを扱った映画で、進化論を学校で教えたがらないような人たちを結構風刺しているものなんじゃないかと私は思ったんですけど、どうなんですかね。

――ザイアス博士は「猿たちこそ神に選ばれた唯一の生き物」を完全には信じていないっていうのが肝ですよね。うすうす気づいている。

そうですね。プロバガンダのために教育・研究の場からそのことを隠しておきたいと思っているわけですよね。

ザイアスを見ているうちに『薔薇の名前』を思い出しました。あのお話には、アリストテレスの『詩学』のうちの一冊をみんな探していることを知っているのに、キリスト教の教義上都合が悪いから隠している人が出てきます。学問の自由が抑圧されているみたいな映画だと、事実を隠そうとしている人が一人は出てくるので、ザイアスもそういうよくいるやつなんだろうなと思ってみていました。

『猿の惑星』はキリスト教原理主義的な、科学研究の自由を認めない立場をおそらく批判しているんだと思います。ただ一方で、進化論って必ずしも公正さを重視する思想として受容されたわけじゃなくて。「アフリカから来た黒人が猿に近い」みたいなのは、進化論を優生思想とかと結びつけた科学的人種差別だと思います。いや、全然科学的な態度じゃないんで、実際は科学の皮をかぶった人種差別なんですけどね。そういう意味で、この映画は人種差別も、進化論を認めない立場も、両方とも批判しているんだろうなと思うんですが。

それにもかかわらず性差別的なのは、やっぱり昔のSFって感じですよね、本当に。開明的なSFって、性差別や性的マイノリティー差別は批判してないことが多いから、そういうことなんだろうなと思います。

動物というメタファー

最後に、この映画を何の事前情報もなしに見たら動物の権利の話だと思う人もいるかもと思ったんですよね。

動物の権利というのはいろいろ論点があるんですが、大変ざっくりとよく出てくるポイントを説明すると、動物も痛みや苦しみを感じるのでそれに応じて人間と同じように権利を尊重するべきだという考え方があります。この映画で人間って、馬で追い回されたり檻に入れられたりしますし、猿からは知性がないものとして扱われていますよね。

人間と猿を逆転させて、知性って見方や背景によって変わってくるものなのだからそれを根拠に動物に対して非人道的な扱いをしてはいけないんだ、という話としてとらえることは十分にあり得ると思うんですよ。

ただ、映画で動物の権利の話をするのって難しいんですよね。日本で公開されたばかりの『チャレンジャーズ』のルカ・グァダニーノ監督は、その前に『ボーンズ・アンド・オール』という作品を撮っています。これはカニバリズムを扱った映画なんですが、原作はビーガニズムの話らしいんですね。でも、映画だけを見ても、原作がビーガニズムを主題としていたことには気づけないと思います。私も全然気が付きませんでした。

たぶん動物の権利やビーガニズムのような話を映画で表現するのって意外と難しいんだと思うんですよ。人間にあてはめて人間にわかりやすいよう表現すると、全部が人間世界の話だと解釈されてしまうような気がするんですよね。

ただ、最近はもう少し手法が洗練されてきて、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』は、緊急時は人間だけではなく動物も避難させないといけない! という文脈で動物の権利の話をしていたし、イルミネーションのアニメ映画『FLY!/フライ!』も鳥の視点で料理業界の恐ろしさを描くことでそのへんをうまくやっていると思いました。

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』はマーベルの中でも政治色がないシリーズだと思うし、『FLY!/フライ!』も可愛くて面白おかしいアニメが得意なイルミネーションが作ったんですが、そういう王道娯楽系のところのほうが人情に訴えるみたいな方向性で動物の権利の話をうまくやっているというのは最近のちょっと面白い傾向かと思います。こういう映画のほうが、動物が死ぬとショックを受けやすい子どもとかをターゲットにしているせいですかね……。

「原作はこうだから、映画もこう」はNG

――この映画の原作者であるピエール・ブールは、日本軍の捕虜になった際の経験に基づいて『猿の惑星』を書いたのではないかという話があります。実際には捕虜になっていないなど諸説あるようですが、原作者の経験は、映画や、その感想、批評にとってどのくらい大事なのでしょうか。

著者の実体験が正確にわかるなら話してもいいと思います。

例えば20世紀に活躍したイギリスの作家ヴァージニア・ウルフの『オーランドー』という作品は、長年のガールフレンドをモデルにしたことがはっきりとわかっているので感想や批評をする際に結びつけてもいいと思います。一方で私が研究している17世紀の話だと、いつ生まれたのかもわからない人がいっぱいいるんですよね。

『猿の惑星』は原作者の実体験にどの程度基づいて書かれたのかが不確かなようなので、調査なしの感想レベルで、著者の体験と結びつけるのは難しいんじゃないですかね。

そもそも原作と映画が同じ態度で作られていると考えないほうがいいんですよ。だいたい一人か二人で作られた原作に対して、映画や演劇はたくさんの人がかかわって制作されているので、原作者が完全にコントロールできているということはなかなかないと思います。コンセプトや表現方法の変質が大きく発生しているはずです。

ディズニー映画はまさにそうですけど、例えば『ノートルダムの鐘』と原作の『ノートルダム・ド・パリ』って基本のプロットはけっこう似ていますけど、言っていることは全然違う話になっていると思うんですね。

原作が何かの信念に基づいて作られていたとしても、映画がそうだとは限らないんですよ。「原作がこうだから、映画もこうだ」って話はそもそもしないほうがいいことが多くて、大事なのは映画を単体としてみて、いかに忠実な感想・批評を話すかなんじゃないですかね。

ちなみに19世紀に活躍した作家のオスカー・ワイルドは、面白ければ作品に対して忠実でない批評だっていいんだぜ……みたいな過激なことを言っているんですけど、そこまで過激なことをいう人はそんなにいないですし、オスカー・ワイルド自身も実際にはそんな過激なことはやっていません。

特定の作品について解釈がわかれているときは、どれくらい説得力を持って主張されているかを見ないといけないですし、ひとつの解釈に納得できることもあれば、複数の解釈のどちらもあり得ると判断することもあります。そこはケースバイケースなんだろうと思います。

以上が、『猿の惑星』を初めて見た私の感想です。

まとめ

『猿の惑星』のポイントとしては、この映画は人種差別や、進化論を否定するような非科学的な態度を諷刺するという寓話的なSFなんですけれども、一方で性差別は温存されている……ということかなと思います。

これは昔からSFには存在していて、いろいろな社会秩序を問い直しているわりに性別二元論とか男女の性別役割分担とかは当たり前のものとして温存してしまっているSFは多いんですよ。『猿の惑星』にもそういうところがあると思います。

私が批評をするならそこに注目して、今日のお話でここまでにあげたような他のSFと比較して書くかなぁ……と思います。

最初はジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』の、ガリヴァーが賢いウマ型生物フウイヌムと人間に似た蛮族ヤフーの国に行くお話から始まって、いろいろなSFでこういう思考実験みたいなことが行われてきて、それは人間の想像力を広げるという点でSFの役割そのものなんですけど、一方でなぜか問われずにそのままにされているものもありますよね……みたいな方向性の批評にするかと思います。

***

この連載では私が初めて見た映画について、苦労しながら感想を話しつつ、取り上げる作品だけでなく他の作品でも使えるポイントを紹介していきたいと思います。なお、私が見ていなさそうな映画でこれを取り上げてほしいというものがありましたら、#感想最高 をつけてX(旧・Twitter)などでリクエストしてください。

筆者について

きたむら・さえ 武蔵大学人文学部英語英米文化学科教授。専門はシェイクスピア、フェミニスト批評。著書に『批評の教室――チョウのように読み、ハチのように書く』(筑摩書房、2021)など。2024年度はアイルランドのトリニティ・カレッジ・ダブリンにてサバティカル中。

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