ねそべるてつがく
第2回

まだいます

学び
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紀伊國屋じんぶん大賞入賞作『水中の哲学者たち』で話題の永井玲衣さんによる新連載「ねそべるてつがく」。つねに何かを求め、成長し、走り回らなければならない社会の中で、いかにして「考える自由」を探し求めることができるのか。「ただ存在するだけ運動」や「哲学対話」を実践する哲学者がつまづきよろめきながら、言葉をつむいで彷徨います。「考える」という営みをわたしのものとして取り戻す、新感覚の哲学エッセイ!  

ある場で非常勤講師をしていたとき、出勤すると自分の机の上にはよく見知らぬ荷物が山積みにされていた。

大量のプリント、封筒や書類、そして時にはまだ湯気がふわふわと上がっているカフェオレの入ったマグカップ。触ることもできず、どかすこともできないまま、ただ立ち尽くす。

しばらく待っていると、とおくから見知らぬひとが「すいません〜!」と苦笑しながら走ってくる。毎週のようにそれはつづく。荷物は毎回異なっていて、どかしてくれるひとはいろいろいたが、いずれも見知らぬひとだ。仕方がない。わたしは非常勤であり、何年も前から毎日のようにここにきているひとたちと、挨拶をする機会すらないのだ。彼らの日常の中にぬるりと入り込んだのはわたしの方である。

見知らぬひとたちはみな、困ったように「すいませんね」と笑って、その荷物をまた別の講師の机の上にどさっと移し替えることもあれば、自分の机の上に戻すこともある。プリントに書いてある名前も、わたしは誰一人知らない。

見知らぬ荷物が取り払われて、わたしの机の上は、なにもないただの茶色いパイプ机になる。お礼を言ってパイプ椅子に座り、荷物を一つずつ机の上に出していく。たしかにこの机はわたしの机だが、週に一度、この時間しか使わない。だから、普段別のひとの作業机や、物置として使用されるのは効率的である。

それに、この机にわたしはなにか特別な思い入れがあるわけではない。何の変哲もない、ぼろぼろの、これまでにたくさんの講師が入れ替わり立ち替わり使ってきたパイプ机だ。

だが、このことがひどくかなしい。朝、学校に来て自分の席に友達が座って、楽しそうに喋っている姿を見つけたときのことを思い出す。見つけた途端、急いで廊下に飛び出し、掲示物や、生徒会のお知らせなどを読んで時間をつぶす。

かなしむべきことじゃないこともわかっている。彼らに文句を言う気もまったくない。だが、なぜだかこのことがひどくかなしい。かなしいと思ってしまうことがかなしい。

ただ自分の机や椅子を使用されているだけで、自分の存在まで軽んじられているような気がしてしまうのはなぜだろう。しかもそれはほんの一時的なことで、相手に嫌がらせなどの意図があるわけではない。作業の手を止めてひとり考える。時間がきて授業が始まり、思考が途切れて、そのまま忘れてしまう。

めちゃくちゃに疲れている。

心がぐちゃぐちゃで、吐き気がする。スマホを見ていられないほど疲れているのに、スマホから流れ出る細切れの情報を摂取していないと、心がばらばらになってしまうような気がする。微弱な刺激を脳に与えて、そのおかげで浅く息が吸えて、親指がつるつる動いてくれる。

インスタのリール機能や、YouTubeのショート動画は、疲れ切ったひとが最後にたどり着く場所なような気がする。名前も知らない韓国のアイドルたちのダンス、どこかの国の人々が無茶をして怪我をする映像、やたら景気がいい音楽に合わせて身体をゆらす高校生たち、早口でこの正解なき時代を生き抜くメソッドを伝える動画、大自然の中で何かを一生懸命試みている動物たち。立ち上がることはできない代わりに、親指だけが上方向に痙攣するように動く。

スマホを見る。見るというより、ただ目にうつしている。海外のやたら加工されたひとたちが、何かをしているのだが、それが何を意味して、何を意図しているのかまったくわからない。「いいね」が8万ほどついていて、世界のわけのわからなさにおののく。

だが、自分以外のひとたちはみな「わけがわかっている」のかもしれないとも思う。自分だけがここに取り残されている。わたしが疲れ切っているあいだに世界はどんどん進んでいて、そしてそれを不安に思うことすら疲れて、考えることができない。

スマホのバッテリーがまたなくなりそうだ。充電をするという行為にも気力がいる。残り10%になる。微弱な刺激を脳に与えつづける。8%だ。つるり、つるり。ああもう5%だ。「消費税の数字だな」と思いつくが「しょ」あたりで頭の中で発音することをやめたのを感じる。

「バッテリーが充電されなくなった」という表現は、患者のこうした症状を上手く表している。彼らはもはや働くことも活動することもできない。ただコップに水を注ぐためにも、力を振り絞らねばならない。[……]ある患者の報告によれば、「それはほんとうに、携帯電話が4パーセントしか充電されていないような感じである。ほんとうに一日中4パーセントしかなく、しかももう再び充電できないのである」という。

「疲労ウイルス なぜ私たちはこんなに疲れているのか?」ビョンチョル・ハン『TATTVA Jan, 2022 Vol4.』BOOTLEG

ビョンチョル・ハンは、コロナ禍での疲労について哲学的な考察を試みている。ここでの「患者」とは「慢性的疲労症候群」に苦しむひとびとのことだ。新自由主義的な成果主義社会で生きるわたしたちは、このような病にかかっているとハンは述べている。

単に身体を動かしただけの疲れと、何か成果を出さなければならない労働の疲れは、決定的に異なっている。労働が終わっても、爽快な空腹感もなく精神が息切れをしたまま、戻らない。帰りに蛍光灯がまぶしいコンビニによたよたと入るが、何ひとつ食べたくないと感じる。

意味のない滞在を切り上げ自宅に戻るが、なんだか普段より、家がめちゃくちゃなような気がする。家を出る前にやっとの思いで食器を洗ったのだが、鍋だけ残してきてしまった。わたしはいつもこうだ。シンクに鍋だけが捨てられるようにして置かれていて、そこから鍋を洗うということができない。 いくら食器を洗ったって、鍋をきれいにしないと料理ができない。だからこのまま眠るしかない。家がめちゃくちゃなのか、心がめちゃくちゃなのか、もはやわからなくなる。

ひどい疲れのために、わたしがなぜこうして工場の中に身をおいているのかという本当の理由をつい忘れてしまうことがある。こういう生活がもたらすもっともつよい誘惑に、わたしもまた、ほとんどうちかつことができないようになった。それは、もはや考えることをしないという誘惑である。それだけが苦しまずにすむ、ただ一つの、唯一の方法なのだ。ただ土曜日の午後と日曜日にだけ、わたしにも思い出や、思考の断片がもどってくる。このわたしもまた、考える存在であったことを思い出す。

『工場日記』シモーヌ・ヴェイユ/ちくま学芸文庫 /2014年/58ページ

ああ、シモーヌ。うつくしく聡明な哲学者シモーヌも、疲労の前ではこれだ。
その通り。わたしも、もう何も考えたくない。

考えましょうとわたしは言う。本心だ。でもほとんどの時間、疲労のせいでわたしは考えることができない。そもそも、考えることが苦手だった。ねばねばした何かにどっぷりと浸かって目を回しているだけだ。

休みがあっても意味がない。何という絶望だ。魂を傷つけられてしまったひとたちは、たまの休みも、どろどろに溶かしてしまう。布団の中でおそろしい気持ちでいっぱいになる。

それに、シモーヌ・ヴェイユは考えることができないどころか、考えることは苦しむことであると言う。ソファに積み上げられた洗濯物に埋もれて考えはじめようとすると、涙がじんわり滲んでくる。そうしてだんだん、自分に「考える」なんて贅沢なものがゆるされているはずないとさえ思えてくる。

この奴隷の身であるわたしが、どうしてこんなバスに乗ることができるのだろうか。ほかのだれかれと同じ資格で、12スー出して、バスを利用することができるのはどういうわけだ。これこそ、尋常でない恩恵ではないだろうか。もし、こういう便利な交通機関はおまえのような者の使うものではない、おまえなんかは、歩いて行けばいいのだと言われて、荒々しくバスからつきおろされたとしても、その方がわたしにはまったくあたりまえのように思えるだろうという気がする。隷属状態にいたために、わたしは自分にも権利があるのだという感覚を、すっかり失ってしまった。

『工場日記』シモーヌ・ヴェイユ/ちくま学芸文庫/2014年/137ページ

劣悪な労働環境で魂を傷つけられるシモーヌ。これはひとつの究極的な形だが、共鳴するひとも少なくないのではないだろうか。

「安い賃金で働かされてるとさ、だんだんと周りが、自分を雑に扱うようになってくるんだよ。どれだけ待たせてもいいし、連絡もしなくてもいい存在になる。これだけ安くて不安定だから、こいつは適当にしていいって価値が転倒していくんだ」

もう何年も、ぐらぐらとした足場を生きざるを得なかった知人が言う。職場では、誰も彼をわかりやすい形で罵倒したり、排除したりはしない。だが、やんわりとした尊重の欠如が彼を覆う。だんだんとわからなくなる。自分はこの机で弁当を食べてもいいのだろうか?自販機の前で手を止めてしまう。ミルクティーなんて贅沢な飲み物を、自分が飲んでもいいのだろうか?壊れた電子レンジを買い替えてもいいのだろうか?なくてもやっていけるのではないか?

そしてついにはこう思う。「考える」なんてこと、自分にゆるされているのだろうか?と。

ソファで洗濯物に埋もれている。ダイニングテーブルに、書類や汚れた器、どう処分したらいいのかわからないものが積み上がっているのが見える。そこに、かつての自分の机に載せられた荷物の情景を重ねる。あのとき、自分は何を思ったんだったっけ。

シモーヌ・ヴェイユのように自分を奴隷だと感じてしまうほど、劣悪な労働環境ではなかった。だからこそ、こんなことでかなしいと思うことがかなしかった。頭の中で何かがちかちか点滅する。「本当に?」問いが話しかける。疲労の中で考えることはできない代わりに、問いにずっと話しかけられているのを感じる。

―荷物を置かれていることがかなしかった?

 いや、それは別にかなしくないよ。

―じゃあなんで?

 わからないよ。

―ちゃんと思い出してみたら。

もう疲れて考えたくないのに、問いがわたしにしがみついたまま離れてくれない。考えなくてもいいから、思い出せとでも言いたそうだ。頼りのスマホは、バッテリーがとうとう切れてしまって、目にうつすことができない。目をつぶって、ゆっくり思い出そうとしてみる。

 まあしょうがないか、って思ったことがかなしかった。

―どういうこと?

 存在が軽んじられていると思ったときに、どこかでそれが自分で当然だと思ったことがかなしかったんだった。

問いと話す中で、ようやく気がつく。
わたしは自分で自分を軽んじたことがかなしかったのだ。

何かを考えるときも、わたしたちは自分を軽んじることがある。どう思いますか?とあなたに問いかけると、あなたは驚きのあまり目をひらく。このわたしが考えるんですか?まさか、あなたが、わたしの考えを聞きたいんですか?あなたはそう言いたげだ。

でもあなたは一瞬でその動揺を隠して、それっぽいことを言ってくれる。一般的にはこう言われますよね。こういうことを言うひとがいるかもしれませんね。あなたは上手に自分を草むらに隠して、頑丈な「意見」を見せてくれる。わたしを満足させようとしている。

その時も、わたしはとてもかなしい。

数年前、友だちとふたりで作業をしているときのことだ。日が沈んで、夜になった。それでもふたりで、手を動かしていた。

突然ぱちんと電気が消えた。もう遅くて誰もいないと思って、誰かが消したのだ。だが、わざわざ点けに行くほどでもない薄暗さで、わたしは「おっ」とだけつぶやいて、またうつむいた。その途端、隣から大きな声がした。

「まだいます!!!!!」

わたしはおどろいて、友だちの横顔を見た。友だちは迷いなく、電気の方へ顔を向けて、叫んでいた。電気まであわてたようにして、ふたたび部屋が明るくなる。まぶしさに目がくらむが、友だちはまぶしさにも動じることなく、また手元の作業に戻っていく。

まだいます、ここにいます、ここ、ここです!という友だちの声。それは、存在することをあきらめるなと言われたような心持ちだった。まだいます、と言うこと。もしくは、友だちに叫んでもらうこと。それにおどろいて、まどろみから少し目が覚めること。そんな小さなことを、どうにか重ねていくことはできないだろうか。

そんなことをふと考えて、ソファに横になったまま、もそもそと着替えはじめる。寒さをようやく感じて、暖房をつける。靴下が床にぼとりと落ちたことに気がつき、身体をゆっくりと起こした。

筆者について

永井玲衣

ながい・れい。哲学研究と並行して、学校・企業・寺社・美術館・自治体などで哲学対話を幅広く行っている。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)。詩と漫才と念入りな散歩が好き。

  1. 第1回 : ぱちん
  2. 第2回 : まだいます
  3. 第3回 : 豆乳鍋と抵抗
  4. 第4回 : ぬるり
  5. 第5回 : 重いの
  6. 第6回 : 絶句
  7. 第7回 : 笑う
  8. 第8回 : 遅くなりました
  9. 第9回 : 手のひらサイズ
連載「ねそべるてつがく」
  1. 第1回 : ぱちん
  2. 第2回 : まだいます
  3. 第3回 : 豆乳鍋と抵抗
  4. 第4回 : ぬるり
  5. 第5回 : 重いの
  6. 第6回 : 絶句
  7. 第7回 : 笑う
  8. 第8回 : 遅くなりました
  9. 第9回 : 手のひらサイズ
  10. 連載「ねそべるてつがく」記事一覧
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