この世で最高の乗りものなのでは、と本気で思っているほど日常で使い倒している電動アシスト自転車。しかし、便利で快適な自転車が一旦パンクしてしまうと……それは酒の神様がくれた試練なのか、それともチャンスなのか。
この世で最高の乗りもの
夕方に仕事を終え、スーパーで買い物をしてから家に向かっていたときのこと。突然「パシャン!」という破裂音がして、体がガクンと揺れた。乗っていた自転車の後輪がパンクしたようだ。
子乗せ電動アシスト自転車「Bikke」。この素晴らしき移動手段を手に入れたのは、3年ほど前のこと。当時の娘は今よりずっと小さかったこともあり、保育園への送り迎えは、だっこひもかベビーカーでじゅうぶん事足りていた。しかし、小さな子供とともに近場を移動する手段の近年の主流が、電動アシスト自転車であることは承知していた。
また、うちよりも少し大きいお子さんのいる友達からも聞いていた。「電動自転車、楽だよ〜。あれ乗っちゃうと、もう普通の自転車には戻れないよ!」そういうもんか。遅かれ早かれ、我が家にも導入する時がやってくるのだろう。ならば、がんばって、もう、買おう!
夫婦で話し合ってそう結論づけ、突然の閉店の可能性なども少なく、アフターケアも充実しているということで、家からは少し距離のある大手の自転車屋でBikkeを購入したのが3年前。その乗り心地といったら、確かに、今までの人生で乗ってきたポンコツママチャリとは別次元のものだった。
走り出し、ペダルをぐっと踏みこむと、まるで心優しき巨人がうしろからそっと手を添え押し出してくれるかのように、ぐーんと勢いがついて動きだす。そこからはもう、よけいな力など入れずとも、すいーっ、すいーっと、なんのストレスもなく僕をどこへでも連れていってくれる。もはや漕いでいる足は飾りというか、自転車に「漕いでいます」と伝えるためだけに動かしているようなものだ。その感覚はどこかゲームにも近く、まるで画面の景色がにゅるーんとうしろへ移動してゆくFPS(ファーストパーソン・シューティング)ゲームの世界に入りこんでしまったような感覚すらあった。注意に注意を重ねて運転をしなければいけない自動車やバイクとも違うし、キコキコ汗をかきながら漕ぎ続けなければいけないママチャリとも違う。電動アシスト自転車こそが、この世で最高の乗りものなのでは? と、今でも本気で思っているほどだ。
泣きっ面に蜂
ところがそいつがパンクして初めて実感したのだけれど、子乗せ電動アシスト自転車って、車体がやたら重い。それはもう、普通のママチャリの5倍、いや、10倍はあるんじゃないかというくらい。近所のスーパーから徒歩ほんの数分の距離を押して帰るのが、まずものすごい苦行だ。例えて言うなら、『AKIRA』に出てくる金田正太郎が乗ってる真っ赤なバイク。あれがエンストして、押して帰らざるをえないような。
しかしまぁ、しかたないので押して帰った。やっと家に帰りつき、以降のことをあらためて考える。まず、妻はまだ仕事先から帰宅中だから、保育園に娘を迎えにいかなければいけない。これはまぁ、歩きで行くしかない。それはいい。それよりも自転車だ。どう考えても、修理が必要だろう。が、自動車と違って、電話でJAFを呼んでどうこうみたいなことはできない。えっちらおっちらと買った店まで押していってお願いするほかないだろう。ここでさっきの「突然の閉店の可能性なども少なく、アフターケアも充実している」という理由で自転車屋を選んだことがあだになる。はっきり言って、遠いのだ。家から普通に歩いて、20分以上はかかるだろうか。その距離を、金田のバイクを押して歩いていくって、けっこうなことだ。しかし、自転車は明日からもまた使いたい。行かないわけにはいかないだろう。
僕はすぐに自転車屋に電話をした。これこれこういう理由で、パンク修理をしてほしいと。すると店員さんが言う。
「すみません。修理の申し込みが重なっていて、今持ってきていただいても、早くて明日の夕方になってしまいますね〜。あ、もしよろしければ、子乗せ電動タイプの代替車が1台あるので、お貸しすることもできますよ」
あぁ、この店で自転車を買ってよかった。遠いけどよかった。今すぐに乗れるように直してもらうということはできないようだけど、代替車を貸してもらえるという心遣いがありがたいじゃないか。僕は「それでお願いします! すぐ行きます!」と伝え、徒歩で娘のお迎えに行き、ちょうど帰ってきた妻に、あとの家のことすべてを任せ、自転車屋へと向かった。
両手でハンドルを持ち、前傾姿勢で自転車を押しながら歩く。パンクしたタイヤが一回転するごとに、がしゃん、がしゃんと大げさな音をたて、僕の両腕に刺激を伝える。なんの音なんだこれは。あんなにも快適な乗りものだったはずなのに、この重さはなんなんだ。まるで田んぼの泥のなかを自転車を押して歩いているようだ。辛い……疲れた……。うわ、おまけに小雨まで降ってきた。嫌だなぁ。本降りになったら泣くぞ、おれは確実に。「泣きっ面に蜂」とはまさにこのことだな。今ならそのことわざを考えた奴の気持ちがわかるし、きっと友達になれる。泣きっ面に蜂……いやいや、ちょっと待って。よく考えるとその状況、なにか辛くて悲しいことがあって泣いていたら、さらに蜂にさされるってことだよね? さすがにきつすぎるわ。前言撤回。やっぱりそんな容赦ないことを発想できる奴とは、友達になれないかもしれない。
……と、疲れすぎてもはやよくわからない思考のループにハマりつつ、小一時間かけ、やっと自転車屋に到着し、心優しき店員さんに修理の依頼ができたのだった。
ピンクグレープフルーツ3切れ
貸してもらった代替車はPanasonic製で、Bikkeとはまた違うけれども、やはり素晴らしい乗り心地だった。さっきまでひぃひぃ言いながら歩いていたことが嘘のように、ひと漕ぎでびゅーんと進む。スイスイスイ、グイーン! やっぱり電動アシスト自転車はこの世で最高の乗りものだ! パンクさえしなければ!
のどもと過ぎればなんとやらというやつで、すっかりやさぐれた気持ちも消え去り、そしてふと思い出す。今が夜の8時近く。そういえば、今日はまだ夕飯を食べていないじゃないかと。妻には「どのくらい時間がかかるかわからないから、おれのことは気にせず、ぼこちゃんとふたりでご飯を食べて、なんなら寝ちゃってて」と伝えてある。つまりこれは、突然の「ボーナス酒チャンス」じゃないか!
と、気づいた瞬間、目に飛びこんできた一軒の店があった。看板はないが、小さな民家の1階部分を改装して営業しているような飲食店で、入り口に「酒」という赤提灯がぶらさがっているから、きっと居酒屋だろう。おもしろいのはその横ののれんで、真っ白の無地。つまり、外観からはメニュー構成はおろか、店名すらもわからない。この謎感。酒場ライター魂がうずくじゃないか。
思えばここ数年、妻の妊娠、出産、子育て、それからさらにコロナ禍まで重なって、こういうよくわからない店に前情報なしにひとりで飛びこんでみるという、僕がいちばん好きな遊びをする機会が激減していた。と考えると、パンクも悪くなかった。むしろ、お酒の神様がくれたチャンスなのかもしれない。迷わずその店に入店してみることにした。
一見客の僕がドアを開けても驚かれるようなこともなく、気持ちよく迎えてくれる明るい女将さん。壁側にカウンターが数席、テーブルが数席の小さな店。建物は建て替えられてからそう年数が経っていないのか、ものすごくきれいだ。ご夫婦で営む店のようで、3名ほどの先輩がたが飲んでいて、みな気心の知れた常連のよう。
さっそく生ビールを頼み、ごくごくごくとのどを潤す。泣きっ面にビール。うまくないはずがない。
続いて出てきたお通しが最高だった。3つに仕切られた横長の小皿に、レバー煮、きゅうりとわかめの酢のもの、それから、ピンクグレープフルーツ3切れ。もう一度言うけど、ピンクグレープフルーツ3切れ! ……これだから酒場めぐりはやめられないんだよな。
それからつまみに「本日のおすすめ」というボードにあった「ホルモン 辛口」というのを頼んでみる。すると、「辛いの大丈夫?」と大将。「えぇ、大好物です」と返すと、しばし後、たっぷりの豚もつと玉ねぎを炒め合わせたホルモンが到着した。これがふわふわとした食感で、くさみなんてまったくない絶品。うまいうまいと喜んで食べていると、大将がふたたび聞く。
「お兄さん、辛くない? 大丈夫?」
「えぇ、大丈夫です。すごく美味しいです!」
「そうか……じゃあ、これ食べてみて」
そう言ってホルモンの皿にぽとりと追加されたのは、ホルモンと同じ味つけで炒められた、1本の青唐辛子。きっとサービスなのだろう。「ありがとうございます」と伝え、ひとかじりしてみる。
……なんだこれ、辛っ! 辛すぎる! かれ〜! 痛い痛い痛い! こんなに辛い唐辛子、ある? ってレベルだ。なんなんだ、辛口のホルモン炒めを「大丈夫」と言って食べたのが、大将の気にさわった?
と、よくわからないけれども、これぞ酒場の楽しさ! という体験を久々にできて大満足。なんだかんだで、思い出に残るいい一日だったかもしれない。
酒を数杯飲んでしまったので自転車に乗っては帰れないけれど、パンクしてない自転車を押して帰るなど、もはや散歩だ。幸い雨もやみ、心地よい秋の空気を感じつつ、ほろ酔い気分で帰路についたのだった。
筆者について
1978年東京生まれ。酒場ライター、漫画家/イラストレーター、DJ/トラックメイカー、他。酒好きが高じ、2000年代後半より酒と酒場に関する記事の執筆を始める。著書に『つつまし酒 あのころ、父と食べた「銀将」のラーメン』、『ノスタルジーはスーパーマーケットの2階にある』、『晩酌わくわく!アイデアレシピ』、『天国酒場』、『つつまし酒 懐と心にやさしい46の飲み方』、『ほろ酔い!物産館ツアーズ』、『酒場っこ』、『晩酌百景 11人の個性派たちが語った酒とつまみと人生』、スズキナオ氏との共著に『のみタイム 1杯目 家飲みを楽しむ100のアイデア』、『“よむ”お酒』、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』、『酒の穴』(シカク出版)。