『射精責任』──センセーショナルなタイトルの本書が刊行されることが告知された日、SNSでそのタイトルを目にした人々から、多くの共感や賛辞、強烈な拒絶など様々な反応が寄せられ、Amazon人気度ランキング1位に躍り出ることとなり、一夜にして注目作になった本書。多くの人に「見逃せない」と思わせる本書は、中絶の是非が大統領選の争点にもなるほど議論が活発なアメリカにおいて、望まない妊娠による中絶を根本から問い直す28個の提言をまとめた一冊。
アメリカでも大きな論争を巻き起こし、ワシントン・ポスト紙には、「セックスをする人、セックスをしたい人、あるいは将来セックスするかもしれない人を育てている人にとって必読の書」と言わしめ、ニューヨーク・タイムズ・ベストセラーに選出。世界9カ国に翻訳されている。
そんな本書から、日本版の解説を抜粋して全3回で紹介する。最終回となる今回は、日本の避妊・中絶をめぐる歴史と現状※1について。
※1 日本の中絶をめぐる著作は数多くある。入手しやすくかつ比較的新しいものでは、塚原久美、2022、『日本の中絶』ちくま新書や荻野美穂、2014、『女のからだ──フェミニズム以後』岩波新書がよい。
解説者:齋藤圭介(さいとう・けいすけ)
社会学者。神奈川県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(社会学)。現在、岡山大学大学院学術研究院社会文化科学学域(文)准教授。専門はジェンダー研究。
堕胎罪の欺瞞と中絶政策の無節操さ
アメリカでの中絶をめぐる激しい価値観の対立と比べると意外にも思えるが、日本では中絶をめぐり市民社会が表立っては分断していない。その一番の理由は、すでに中絶へのアクセスが女性に広く開かれていることが挙げられるだろう。日本は他の先進諸国から「中絶天国」と批判的に言及されたこともある。中絶は、身近に当たり前にあるものとして市民社会に受け入れられており、特に議論を要しない話題だったのかもしれない。
とはいえ勘違いしがちなので注意が必要だが、日本において中絶はいまだ刑法上の犯罪である。あれ? と思った人がいても不思議ではない。中絶は、インターネットをはじめ各種メディアや日常会話でも身近な話題のひとつだからだ。刑法上の犯罪だったなんて知らなかったとしてもしかたがない。
1880年公布の旧刑法で堕胎罪が定められた。その後、1907年に改正された新刑法では、212条から216条で堕胎罪について規定があり、女性と堕胎を行ったもの(医師など)が罰せられる。一方、相手の男性への罰則規定はない。
2023年現在も堕胎は刑法上の犯罪であるのだが、ただし、1996年公布の母体保護法(元は1948年公布の優生保護法)第14条によって、配偶者の同意があれば※2、以下の理由の場合にのみ刑法上で規定している違法性を阻却するかたちになっている。つまり原則禁止だが、以下の2つの条件に合致するときだけは例外的に中絶を認めるという二段構成である。
母体保護法第14条
一 妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの
二 暴行若しくは脅迫によつて又は抵抗若しくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの
望まない妊娠による中絶の場合、どの条件に合致するのだろうか。ほぼ経済的理由で中絶手術を実施しているのが実態だ。これは経済条項による中絶と呼ばれる。もちろん、そのうちどれだけの数の中絶が、本当に経済的理由なのかはわかりようがないし、わかる必要がないのかもしれない。任意の中絶をする自由と権利は、日本においても法制度上は女性に保障されていない、ということがここで強調されるべきことだろう。
また、日本の中絶政策は戦前、戦後で180度かわっていることが広く知られている※3。戦争中は「産めよ殖やせよ」政策で、人口の量の確保が目指された。人口を増やすために、中絶を厳しく取り締まることで、本来中絶されるはずだった子どもを産むしかない方向に誘導し、出生数の増加を目指した。
しかし、戦後は状況が一変する。当時はまだ避妊の知識が普及していないことに加え、戦地からの帰還兵・引揚者がかなりの人数おり、本土の人口は急増した。当時の出生数はおよそ現在の3倍であり、食糧難や住宅難という問題が生じた。人口の急激な増加を抑え込み管理をする観点から、また強姦による妊娠の増加や混血児の増加への対処の観点から、さらに不法な闇中絶で命を落とす女性が多くいたことへの対応の観点から、日本政府は中絶を認める方針に転換し、中絶へのアクセスを容易にする政策を推し進めることになった。
中絶の権利とは、女性の生き方を女性自身が決める権利である。しかし、アメリカの中絶の権利と同様に、日本の中絶の権利も、基本的人権として普遍的に保障されているものではない。日本においても当事者である女性以外が、中絶を介して、女性の身体とセクシュアリティを管理しようと常に画策してきた歴史があった。
現在の日本社会において中絶を考える際、その欺瞞と無節操さが目につく。欺瞞とは、中絶手術を依然として刑法上の犯罪としながらも、実態としては経済条項を拡大解釈して運用していること。無節操さとは、場当たり的な人口政策(中絶政策や避妊政策)を歴史的にしてきたし、現在も次節でみるように場当たり的な政策しか実施できていないことである。
※2 女性団体からは、女性の自己決定権を阻害するとして、配偶者同意の要件の撤廃を求める動きが根強くある。じょじょに、配偶者同意の要件を緩和する動きも始まっているものの、医療者側からは訴訟対策で必要との声があることに加え、配偶者同意を撤廃することは男性の無責任さを助長するのではないかという声もあり、完全撤廃には至っていない。
※3 日本の中絶政策に関心がある読者には、ティアナ・ノーグレン、[原著2001]2023、『新版 中絶と避妊の政治学──戦後日本のリプロダクション政策』岩波書店、塚原久美、2014、『中絶技術とリプロダクティブ・ライツ──フェミニスト倫理の視点から』勁草書房、荻野美穂、2008、『「家族計画」への道──近代日本の生殖をめぐる政治』岩波書店がよい。
最新の中絶をめぐるトピックと翻訳の意義
最新の話題のひとつに経口中絶薬がある。経口中絶薬とは、文字通り人工妊娠中絶を目的に服用する薬である。WHOの基準では最も安全な中絶方法のひとつとして推奨されており、世界的にはすでに広く普及しているメジャーな中絶方法である。しかし、日本では認可を求める声が長らくあったにもかかわらず、日本の女性たちが手にすることはできていなかった。
2023年4月にやっと厚生労働省の承認がおりたとニュースになった。経口中絶薬の認可は、世界的な潮流と比べると遅きに失した感がある。しかし、すでに認可済みの低用量ピルや緊急避妊薬(アフターピル)などと一緒に、女性が自分の意志で生殖や中絶を管理できるようになるための選択肢がまたひとつ増えたことには違いない(価格や入手のしやすさ、配偶者同意の要件など、まだまだ課題は山積しているが)。
同時に、本書を読むとなおさら痛感することだが、今回の経口中絶薬をめぐる一連の議論においてもしかり、これまでの低用量ピルや緊急避妊薬についての議論もしかりだが、女性が自分の身体とセクシュアリティを管理する手段を認めるか/認めないか、認めるとしてどのような条件を付すかなど、どこまでいっても、女性が妊娠したところから中絶の議論を始めている。この議論の仕方にはどこか既視感がある。2・2で論じた通り、女性が望まない妊娠をした状態からその妊娠をどう扱うのかを、アメリカと同様、日本の中絶・避妊政策の場でも議論しているからだ。そもそも望まない妊娠をしないためには、男性による無責任な射精を正面から議論の俎上にのせる必要があるのだという話はついぞ聞いたことがない。
本書はアメリカ社会の文脈で誕生した書籍であることは間違いないが、日本社会の文脈にもそのまま当てはめて考えることができる指摘ばかりだ。本書が日本語に翻訳された意義はとても大きい。
日本の避妊・中絶政策は、アメリカをはじめ先進諸国と異なるといわれる。日本では避妊の手段として、コンドームの使用が他の先進諸国と比べて圧倒的に多いことが指摘されている。加えて、女性が主体的に選択できる避妊手段は、他の先進諸国と比べるとまだまだ十分ではない。日本ではコンドームの使用率が高いから、日本の男性はすでに射精責任を(他国と比べて相対的に)果たしている、と考えたくなる人もいるかもしれない。しかし、事実はむしろ正反対だと考えるべきだろう。避妊手段としてコンドームが圧倒的に主流であるにもかかわらず、年間12万6174件(2021年度)の中絶手術が実施されている。毎日345人の女性が中絶手術を受けている計算になる。射精責任という考え方は、避妊手段としてコンドームしか普及していない日本において、よりいっそう重要な意味を持つとさえいえる。
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