2022年度 英ウォーターストーンズ ポピュラーサイエンス部門 ベスト・ブック獲得。スウェーデンから、アメリカ、ドイツほか各国で続々翻訳された、生物学者・ヨハン・エクレフが詩的に綴る、感動の科学エッセイ『暗闇の効用』(太田出版・刊)の邦訳版が、2023年9月20日(水)に発売されました。
本書では、街灯の照明をはじめとする人工の光が多くの夜の自然の光を奪った結果起きている自然への影響(=光害:ひかりがい) をひもとき、失われた闇を取り戻そうとする呼びかけています。
OHTABOOKSTANDでは、本書から冒頭の一部を抜粋して試し読み公開します。(全2回)
暗闇が消えると何が失われるのでしょうか?
はじめに──消えていく夜
コウモリの翼とヘビのしっぽを持った黒い悪魔の絵を、私の懐中電灯の光が照らす。その悪魔はまるで、光を飲み込もうとしたが耐えきれず、口から光を吐き出しながら後ろに投げ飛ばされたかのように見えた。この闇の生き物は、死に絶えつつあるのだ。私はいま、18世紀に建てられたスウェーデンのとある教会にいる。その教会の壁や天井には、聖書を題材にした絵画が描かれている。かなり奥のほうには、地獄の責め苦を私たちに思い出させるために描かれた、とても恐ろしい悪魔や怪物が見える。これを描いた画家はしかし、暗闇の危険は克服できるのだということも伝えたかったのだろう。キリスト教において、コウモリは悪魔の手先である。それは神の光明の対極にあり、現実の暗闇と比喩的な暗闇の両方を象徴する、忌まわしい動物とみなされる。そのため、教会がコウモリのすみかとなっていることが往々にしてあるのは、少し皮肉な話だ。
私は階段を上り、小さな扉を抜けて屋根裏部屋に足を踏み入れ、この教会の探索を続ける。古い板張りの床には、石化した糞と引き裂かれたチョウの羽が堆積している。この教会がウサギコウモリの巣であるという明らかな証拠だ。窓の鎧板の隙間からちらつきながら差し込んでいた夕暮れの薄明かりは弱まっていき、外の空は濃紺色に変わる。屋根裏部屋に入る湿った夜の空気は、刈られたばかりの芝生、タール、太陽に温められた薪の心地よい香りを運んでくる。このような夜の早い時間帯には、コウモリたちは軒下にはいない。そこで私は、夏の夜に舞い降りるコウモリたちに墓地で会うべく、外に出ることにする。
コウモリは次々に、教会の屋根から近くの木、そして身を隠せる暗がりへと、我先に飛び立つ。気まぐれなダンスをしながら、人間の耳には聞こえない音を立て、コウモリは赤く塗られた木造の教会のそば、生け垣沿い、そして木のてっぺんの周囲を滑空し、昆虫を探す。しかしやがて、夜の闇に飲まれて見えなくなる。
スウェーデンの教会堂や付属する建物は、何世紀のもの間、変わらず維持されていることも多く、常に変わりゆく世界のなかでも、動植物が快適に生息できる重要な場所となっている。毎年、初夏になると、ウサギコウモリが新たな世代を生むために小塔や屋根裏に住みつく。1980年代には、スウェーデン南西部にある教会の3分の2に、コウモリのコロニーが生息していた。ところが40年後のいま、同僚たちと私がおこなった調査によって、光害(ひかりがい)やその他の要因で、コウモリのコロニーが生息する教会の数は3分の1にまで減少していることがわかった。教会が夜もカーニバルのように光り輝いているからだ。どの教区も、自慢の建築を照らすために最新の投光器を次々と導入した。それと引き換えに、7000万年もの間、夜をすみかとしてきた動物たち、そして何世紀もの間、教会の塔の暗がりで安全に暮らしてきた動物たちは、ゆっくりとではあるが確実に姿を消している。もしかすると、完全にいなくなってしまうかもしれない。
7月の夜の墓地に座っていると、コウモリ以外にもともに時間を過ごす仲間がいることがわかる。一匹のハリネズミがいる。星空に向かって草を登っていく甲虫もいる。墓石の上で妖精のように飛び回るトビケラもいる。私の感覚は研ぎ澄まされ、まぶしい昼間には漠然とした印象でしかなかった周囲の世界との関わりが、より繊細な体験へと変わっていく。そして目がだんだんと夜に慣れていくにつれ、深まる暗闇のなかで私は安らぎを感じ始める。ここで私は、ほかの人がわざわざ行こうとしないような別次元へと足を踏み入れるのである。
暗闇を享受しているのはコウモリと私だけではない。この遅い時間まで私と一緒にいるハリネズミのように、多くの哺乳類は日没後の薄明の時間帯に、より活発になる。地球上の昆虫の半分は夜行性であり、ここ数年、その昆虫たちが消えつつあるという警告があふれかえっている。林業、環境に流れ出る有害物質、大規模農業、気候変動──多くの原因が指摘される。しかし、なかでも特に急激に減っている虫の種類は、光に敏感なガだというのに、その原因として光が挙がることは滅多にない。暗闇のなかで花の蜜を探すガ(蛾)は、あらゆる光の影響をすぐに受けてしまう。夜明けが近いと勘違いしてまったく飛ばなくなったり、月明かりを頼りに向かう方角を決めようとするも、いくつもの光線で方向感覚を失ったりするのだ。そうして疲れ切って息絶えるか、天敵に食べられるかするガは、夜の使命を果たせないので、受粉する植物も減少する。玄関の明かりや街灯の下に集まっているガを目にしたことがある人は多いだろう。光が強くなればなるほど、虫はそこに引き寄せられる。光は昆虫を森林から人里へ、田舎から都市へとおびき出し、生態系全体を消耗させる。
ここ、モッセボー教会に投光器はないものの、外からの光は届いている。歩道にはいくつかの街灯があるし、近くの村々から出るほのかなオレンジ色の輝きが上空に見える。これが“光害”である。過剰だとみなされた、あらゆる種類の光がまとめてこのように呼ばれる。ところが実際に、その過剰な光はどれも、私たちの生活や生態系に大きな悪影響を与えている。
“光害”という言葉を作ったのは天文学者だが、いまでは、夜がなくなるとどのような害があるのかを研究する生態学者、生理学者、神経学者も、この言葉を使用する。もはや光害は、星や昆虫だけの問題ではない。私たち人間を含む、すべての生物に関係するのだ。地球が生まれてからずっと、昼の後には夜があった。そしてどの生物のどの細胞にも、そのリズムと調和する仕組みがあらかじめ備わっている。自然の光は私たちの体内の概日リズムを調整し、ホルモンや身体のいろいろな働きをコントロールする。
電球が発明された約150年前まで、自然光によって調整されるこれらの働きはゆっくりと、何の支障もなく発達していた。しかし今日では、街灯や投光器の照明が不穏なほど幅を利かせ、夜の自然な光の地位を奪い、この古来の概日リズムを乱している。人工の光、有害な光のほうが、いまでは支配的だ。その光は真夜中に鳥を歌わせ、卵から孵化したウミガメを間違った方向へ誘導し、月明かりの下の岩礁でおこなわれるサンゴの交配の儀式を阻害する。
人類は世界に光明をもたらしたいと強く望んだ。その結果、宇宙から見た地球は夜も煌々と輝くようになった。あらゆる街、あらゆる通りが、遠い宇宙の闇のなかからでも見える。これはおそらく、私たちが人間の時代、「人新」という新しい時代に突入したことを示す最も明白な証拠だろう。私たちが作った、光で照らされた都市の空には、もはや星はひとつも見えない。天の川がどのようなものか、覚えていない人も多いだろう。息を呑むような眺めの壮大な空、流れ星、そして時折見える、驚くほど美しいオーロラ──こうした自然の偉大な宝を、私たちは失いつつある。
“光害”という言葉は多くの人にまだ知られていないが、それについての研究は急速に広がっており、やがて光は騒音と同様に、厳しく規制されるようになるだろう。最新のLEDは、個人の庭や大規模な駐車場における照明を爆発的に増やすことになったが、この問題の解決策にもなる可能性がある。光と闇のバランスは白か黒かではないのだ。やろうと思えば、人工の光を適切にプログラムしたり弱めたりして、もっと自然の状況に合った形にできるだろう。
本書で私は、暗闇や夜がすべての生命に対してどのような意味を持つかを考察したい。いくつもの短い章に分けて、コウモリ研究者、旅行者、暗闇の友として夜に奉仕してきた私の20年間の経験と思考をシェアしたいと思う。本書を読む人に、夜を私たちの生活の一部だと考えることがいかに重要かを思い出してもらうとともに、人工の光がどれほど有害かを知ってもらいたい。そして本書が、自然な暗闇を守るためのひとつの挑戦、およびマニフェストとなるよう願っている。
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本書『暗闇の効用』(ヨハン・エクレフ=著、永盛鷹司=訳)では、光害の実例はもちろん、生態系と夜の関係、人類への影響、宇宙における闇、さらには闇を求めるダークツーリズム、作家・谷崎潤一郎『陰翳礼讃』についても言及。「光」だけに当てられがちなフォーカスを「闇」にあてています。
『暗闇の効用』は全国の書店・電子配信先で発売中です。