山口組について語られなかったエピソード・ゼロを記した『山口組東京進出第一号 「西」からひとりで来た男』(著・藤原良)が3月19日に太田出版より刊行されます。
本書では、関西(神戸)で生まれ今でこそ全国に名を馳せる山口組が、関東(東京)で最初期にどのようにして活動基盤を築いていったのか、その道のりが書かれています。
OHTABOOKSTANDでは、全六回にわたってその本文の一部を試し読み公開します。第一回は、第一章よりヤクザの縄張りの概念について深堀していきます。ヤクザの歴史というものは我々が思うよりも長く、発祥から辿ってきた道のりが東西で異なるようです…。
※本書は、暴力団や反社会的集団による犯罪・暴力行為自体を肯定したり助長するものではありません。
縄張りという概念
暴力団の縄張りとは、その団体が誇示する勢力範囲のことで、法的な権限なく特定の土地や領域において排他的に自己の権利を主張し、他団体(別の暴力団など)の進入を拒むテリトリーを指す。
暴対法第九条では『正当な権原がないにもかかわらず自己の権益の対象範囲として設定していると認められる区域』と定義されている。
暴力団の前身である博徒は区域内で賭博運営の総括権を独占し、費場所代やテラ銭と呼ばれる利益を得て、お祭りなどに店を出す的テキヤ屋であれば『庭場』と呼び、区域内での露店営業権を独占していた。
時代が流れ、彼らが暴力団化してからは、主張する縄張り内で、主に飲食店や企業からみかじめ料やあいさつ料と呼ばれる金銭の搾取、企業恐喝、違法薬物の密売、違法賭博を開帳するなど『シノギ』と呼ばれる非合法ビジネスを展開した。
主に関東では、縄張りのことを『シマ』ともいい、他団体のシマでシノギをする際は『借りシマ』 『貸しシマ』と言って、そこのシマ持ちの暴力団に一定のレンタル料を毎月支払うのがルールとなっている。
しかし、関西を中心とした西日本の暴力団には関東のような縄張り意識はない。そもそも縄張りという考え方がないので貸し借りのルールもない。これは関東と関西における暴力団が経てきた歴史の違いによるところが大きい。
暴力団やアウトローと言われても、一般社会から完全に隔離されているわけではない。
彼らも一般社会と共存しており、社会環境の変化の影響を受けざるをえない。
例えば江戸時代では江戸を中心とした関東は幕府による直接的な支配の影響力が強く、暴力団の前身と言われる博徒や的屋と呼ばれたヤクザたちも一般庶民同様に江戸幕府の強力な支配下にあった。
特に江戸は江戸城を中心とした都市防衛意識が高く、大規模な都市改造事業も頻繁に施工されていた。また江戸市中の人口増加による市街地の拡大に伴なって、それまであった寺町や門前町が変化して下町と呼ばれる庶民の生活エリアが広がるにつれて町筋が改められ、人別帳(戸籍帳のようなもの)によっても厳しく区分け管理がなされていた。
こうして管理が徹底された区画整理が行き届いた江戸の町筋に沿って、ヤクザたちも自然とハッキリとした縄張りを持つようになった。
ヤクザの誕生は、飛鳥時代から奈良時代あたりと言われている。中国大陸から双六とサイコロが伝わり、畿内を中心に貴族の間でサイコロ博奕が広まった。
その賭場での下働き衆が『博徒』のはじまりだった。そして彼らは『八九三』と博奕における負け札の数字を使って呼ばれるようになった。
これは賭場に出入りする貴族たちが下働き衆と自分たちとを区別するために名付けた蔑称であったと言われている。
このサイコロ博奕が全国に広がるにつれて、各地域で八九三と呼ばれる博徒集団が次々と誕生し、近代の暴力団まで続く系譜が生まれることとなった。
八九三が生まれた当時、政と呼ばれた臣民統治は、天皇や公家の責務だった。
各集落の失業率を抑え、安定的な生産率の向上と治安維持を確保するため、天皇の指揮のもと、各集落の無職者たちに賭場での下働きの仕事を与えていった。
近年では暴対法(1992年施行)の影響もあって、暴力団事務所自体の開設も困難になり、新しい事務所では神棚や提灯などを置かずに一般の事務所風となったため、これらを見かけることも珍しくなったが、以前は当たり前のように事務所内にあったのは、前述のように成り立ちから天皇や神道の影響があったからである。
八九三という名が差別的名称だったことから、その後も様々な分野で地位の低い職業に従事する者たち、無職者、遊び人たちのことを総じて八九三と呼ぶようになった。
博奕が日本国内に浸透するにつれて、貴族のみならず一般庶民も賭博に興じるようになり、各集落の農民たちが農作業をしなくなったりするなど、その中毒性と治安悪化が問題視されたことで、日本書紀によれば689年に賭博が朝廷によって禁止行為とされ、その後の日本では賭博行為を禁止・違法とする流れが決まったとされている。
しかし、禁じられた賭博の人気は衰えることなく、ヤクザたちが各地で非公式に開帳し、博徒とも呼ばれるようになったヤクザたちは、政に背く庶民の味方という性格を持つ『日陰の商売人』という道を進むようになった。
時には『花会』と呼ばれて、神社のお祭りの日だけは官民共に暗黙の了解で賭場が開帳されることも多々あった。
こうしてヤクザたちは日本各地で活動していたが、この頃のヤクザには縄張りという概念はまだなかった。
各集落は朝廷から派遣された守護や地頭、その後の武家幕府、戦国大名たちによって領土支配がなされており、ヤクザが縄張りを主張できる状況ではなかった。
また縄張りを誇示しようとしても、現在のように住所すらなかった時代、かつ自分たちの縄張りを明確に示す目印も特になかったことから縄張り意識は持ちがたかった。
そうしたヤクザにとって縄張りという概念が明確に生まれたのは、区画整理が進んだ江戸時代あたりからとされている。
しかし、それも関東のヤクザたちに限った話で、幕府の管理や影響力が薄かった西日本のヤクザたちにとっては、縄張りという考え方は無縁であった。
これが明治維新後の近代化が進んだ日本においても、関東ヤクザは縄張りを主張し、関西ヤクザは遥か昔のヤクザのまま、縄張りを持たずにヤクザ稼業を営む習慣が続く背景となった。
江戸のような人口密集エリアでは縄張りを決めることで不要なトラブルを避け、それぞれが商売を営む方法が適しており、関東圏外ではそこまで厳格な縄張りが求められるほどの環境でもなかったことがこの差を生んだともいえる。そしてこの縄張りという概念が今の時代の暴力団でも抗争の発火点となることが多い。あえて言うなら、縄張り意識とは、関東ヤクザのDNAに深く組み込まれている因子なのだ。
江戸で人夫や人足を集める際は、整理された各区域・各町内にいる組頭がまとめ役としてその務めを果たすが、地方集落では組頭の代わりに昔ながらの友人、知人、親戚などの人間関係によって人づてを駆使して人夫や人足を集めていた。双方のやり方を見比べれば、内容によっては組頭主導であれば集まりが早かったり、人づてであれば給料の交渉がしやすかったりと、それぞれの良し悪しがある。
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80年代初め、東と西の「境界」はいかにして崩れたか?知られざる最初期の拠点選びから単独隠密行動、そして拡大まで。「シマ荒らし」はいつも静かにはじまる――。
1980年代、神戸の山口組四代目組長(当時)・竹中正久が率いた初代竹中組の最高幹部でありかつ「山口組東京進出の一番手」として、当時まだ山口組組員がひとりもいなかった東京に単身乗り込み、“たったひとりの山口組”として在京勢力と戦い、その後の東京での山口組の初期地盤を築いた男のドキュメント。
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