第二章・キャリアサポートセンター/『就活闘争20XX』刊行記念 冒頭無料公開③

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こんな地獄を乗り越えないと就職できない世の中、間違ってないか――?

20XX年の近未来、「ウルトラベビーブーム世代」の大学生たちが、今とは比べ物にならないほど激化した就職活動に挑む――

3月26日(火)に太田出版より刊行される佐川恭一『就活闘争20XX』。OHTABOOKSTANDでは本書の発売を記念し、ひと足先にプロローグ〜第二章までを全三回にわたって無料公開。

最終回となる第三回は、第二章の試し読み。合同企業説明会で己の準備不足を痛感し、就活への認識が少しずつ変化していく主人公・太田。そして足を運んだ大学のキャリアサポートセンターでは、謎の美人アドバイザーが現れて……。至高の“就活エンターテインメント”をお楽しみください。

第二章 キャリアサポートセンター

 太田はもう合同説明会だけでバチクソに疲れていた。説明会でこれだけぐったりするなんて、この先やっていけるのだろうか?同じように説明会に参加した小寺の方は、もうピンピンしている。やはりボクシング部でしごかれてきた人間と、帰宅部&帰宅部の人生を送ってきた太田では基礎体力が違うのだろうか?あの合同説明会以来、小寺の言った通り体力というのも仕事にはかなり重要な要素なのだろうな、と太田は思っていた。ボクシングで筆記試験を免除する商社があるぐらいなのだから、やはり多少頭の回転が速くても病弱だったりすぐに疲れたりするような人間よりは、休まずに働き続けても倒れないような強靭な身体を持つ人間の方が、企業にとって望ましいのだろう……太田はそう考え、小寺に電話をかけた。

「おう、なんや」

「あのさあ、ちょっとお願いがあんねんけど」

「おう」

「俺にボクシング教えてくれへん?」

「はあ?」

「やっぱさ、俺体力ないし、ケンカも弱いやんか?そのへんが就職において不利なんちゃうかなって」

「いやいやいや、お前今からボクシングって、もうそんな時間ないって。もっと前から始めとかなあかんことやぞ」

「やっぱそんなすぐに体力なんかつかんか……」

「つかんつかん!それに就活でそこまではバレへんやろ。内定とってからでもゆっくりボクシング教えたるわ。それよりお前、キャリアセンターに相談とかしてるか?」

「キャリアセンター?」

「そうよ。大学にあるやろ、まさか知らんの?」

「知らん」

「お前ほんまにやる気あるんかいな!相談員がおって就職の相談とか色々乗ってくれるはずやから、いっぺん行ってみなあかんで。俺も今週予約してんねん」

「いやーでも、そんなん他人に何がわかるん?ほんまにタメになる話聞けるんかいな」

「それはこっち次第やろ。こんな会社に入りたいと思ってるけどどうですかとか、エントリーシートこんなんでいいですかとか、準備していって聞くねん。模擬面接なんかもしてくれると思うで」

「へえ、やっぱそういうのってみんな行くもんなん?」

「みんなかはわからんけど、思わぬ視点からの助言ももらえるかもしれんしな。別に時間的にはカツカツに追い込まれてるわけじゃないし、お前もいっぺん行ってみいや」

「うーん……」

「俺も同志社の就活相談行くし、そこで面白い話聞けたらお前にも教えるしさ」

「まあ、わかった。せっかくあるんやし行ってみるか」

「おう、ほなまた、それで何かええことわかったら教えて」

「オッケー、ほなな」

 そう言って電話を切ったものの、太田はマジで腰が引けていた。あの説明会の様子を見ると、とにかく就活というのは修羅の集う戦争であり、あの強者どもと戦い抜くのだということを想像しただけでげんなりだった。

 太田は現実逃避のためにふらりと鴨川に出かけた。鴨川デルタでは、まだ就活に追われていない大学生らが男女入り乱れて楽しそうに遊んでいる。親子連れが飛び石をジャンプして笑っている。犬をのんびり散歩させているおじさんもいれば、バイオリンの練習をしている高校生もいる。大学生を見るとまだ就活のことなんて何も考えていなかった頃の自分を思い出してうらやましくなるし、親子連れを見ると自分に妻や子供ができて家族の関係性を良好に保っている未来がくるのかどうか不安になるし、犬をのんびり散歩させているおじさんを見ると自然の中を犬と語らいながら歩く行為に心底癒やされているのが伝わってきて腹が立つし、高校生の弾いているバッハのカノンはヘタクソだがこれから絶対にうまくなってやろうという気概を感じてそのまっすぐな自分への信頼に圧倒される。これから就活をして社会に出ようというこの時期には、何をしても何を見ても、心が休まることはないのだと太田は思った。いつも何気なく座って風に吹かれていた鴨川デルタも、一瞬にして地獄に変わってしまったのだ。

 太田は自分の部屋に逃げ帰り、仕方なく大学のホームページを見る。京大ではキャリアサポートセンターというところでアドバイザーが学生の相談に乗っていて、大抵の学生は「キャリセン」ではなく主に「キャリサポ」と呼んでいる。平日なら一日に八枠あり、一枠四十五分。今はかなり盛況で、予約をしておいた方がよさそうだった。早速太田はたまたま空いていた二日後の十時から十時四十五分の枠を取った。しかし、やはり気分は乗らない。アドバイザーと名のつくものは大抵詐欺みたいな奴らばかりだと太田は思っていた。アドバイザーは責任を取らない。受験にしても、ちょこっと通ってみた塾のチューターなんてゴミみたいな奴が多かった。大学生がバイトで来ていて、しかも女子高生と付き合ったりするのだ。犯罪だ、と太田は思っていたが、女子高生の目には大学生がまぶしく見えるのか、太田には魅力をよく理解できないチューターでさえも、激カワ女子高生と付き合っているケースが少なくなかった。女子高生は普通に未成年で、「真摯な交際」に基づいていれば問題ないというが、大学生側が女子高生に真摯に向き合っているとは思えなかった。この就職アドバイザーというやつも、よくわからない頼れる感を出しつつ女子大生を狙っているクソオスの集まりなのではないか?

 太田はそんな懸念を拭えないまま、相談当日を迎えた。キャリアサポートセンターは吉田キャンパスの教育推進・学生支援部棟というところの一階にあり、いつも通っている場所だが中に入ったことはない。就職相談室の前で来室目的を入力し、学生証をかざして部屋に入る。そこには思っていたような女子大生狙いっぽい男ではなく、女性が一人、年季の入った木製デスクの後ろに座っていた。スーツにネクタイを締めた、いかにも仕事のできそうな出で立ちの美女である。というか、けっこうデカい胸のあいだにネクタイが挟まっており、良きである、と太田は思う。

「ふうん……君、ほんとに就職する気ある?」

「えっ?」

 太田はいきなり予期せぬ言葉を浴びせられ一瞬あっけに取られてしまう。

「そ、そりゃありますよ! なかったらこんなところ来ませんよ」

「悪かったわね、こんなところで」

「あっ、すみません……」

「いいわ、ここではあなたが本当に就職したいのかどうか、しっかりと考えてもらいます」

「したいのかどうかって、したいに決まってるじゃないですか。しないと生きていけないんで」

「へえ、しないと生きていけないから、就職したいんだ?」

「えっと、まあ、そうですね」

「じゃ、しなくても生きていけるなら、しないんだ?」

「えっと、それは……」

 美人アドバイザーがじっと太田を見つめる。その深い闇を湛えた目を見ていると、なんだか吸い込まれてしまいそうな気がしてくる。太田は思わず目を逸らす。

「あなたみたいな人って多いんだよね。仕事はただ生計を立てる手段、入る企業の名前はただマウントを取る手段。自分の本当の人生は、仕事をしていない時間の方にある、そういう考え方の人」

「いや、まあ、僕は確かにそれに近い考えかもしれません。でも、みんな根本的にはそうなんじゃないんですか?仕事で本当に大きな成果を上げて、仕事がそれ以外の時間よりも楽しいって言えるような人は、相当な才能に恵まれた人だけですよ」

「つまり、あなたは仕事を苦しいものだと考えている」

「まあ、そうです。やらなくて済むならやりたくないです」

「じゃあ、あなたは仕事以外の時間で、何をしようと思ってるの?何をしている時が一番楽しい?趣味はある?恋人はいる?何か夢はある?」

 そう聞かれて、太田は言葉に詰まる。正直、趣味はないし、恋人はできたことがないし、夢もない。周囲の夢追い人を見て小馬鹿にしていたが、思い返してみれば彼らは人生を賭ける対象をきちんと見つけ│少なくとも主観的には│迷いなく前進しているのだ。

「ありません。何もありません。恋人も、大学に入ったらできるかなと思ってましたが、できませんでした」

「そっか、恋人ができたことないんだね。じゃあ、今から私があなたの恋人です」

「は?」

「あなたの名前は……」

 そう言って美人アドバイザーは手元のノートパソコンで予約システムを見る。それから顔を上げて笑顔で言う。

「太田亮介くんだね。じゃ、亮くんって呼ばせてもらうね」

「えっ、りょ、亮くん⁉」

「私は榊はるかといいます。ハルって呼んでほしいかな」

「ハル⁉」

 キョドり始める太田。これはどういうキャリアサポートなのだろう……?まったく意味がわからない。

「ねえ、亮くん。二人っきりだね、こんな狭い部屋で」

「え、ああ、そ、そうですね」

「なんか暑くなってきちゃった。暖房はいらないかな」

 そう言って榊はスーツの上着を脱いで椅子にかけ、暖房を切る。そして座っている太田の前にしゃがみこみ、太田の手を触りながら「ねえ、すっごく綺麗な指してるね」とささやくように言った。

「そ、そう?」

「うん。細くて白くて綺麗な指。ちょっと私の頰をなでてみてくれる?」

「えっ⁉い、いいんですか⁉」

「いいに決まってるじゃない。恋人なんだから。嫌かな?」

 太田はもう額に汗がにじみ出て今にも流れ落ちそうなのを、根性だけで止めている感じである。とにかくギリギリの精神状態で、どう振る舞えばいいのかさっぱりわからなかった。

「いえ、そんな、嫌じゃないです」

「よかった。私、あなたの指好きだな。今まで見た指で一番かも」

「そんな、普通の指だと思いますけど」

「そんなことないよ。ほら」

 榊はそう言いながら自分の頰をちょんちょんと指で触る。太田はゴクリと生唾を飲み込み、「じゃ、いきますね」と言った。そうして右手の指で、榊の左頰をそっと撫でた。

「うん、なんだか、すごく心地いいな……あなたはとても優しい人だね。人と競争するのが嫌い。もちろん自分が傷つきたくないからっていう面もあるけど、相手を傷つけたくないっていう気持ちもあるんじゃないかな」

「えっと、自分ではあんまりわかんないですけど、確かに人を蹴落とすのとかは好きじゃないかもしれないです」

 太田がそう言うと、榊はしゃがみこんだまま太田の両手を取り、指を絡め合わせて恋人つなぎをした。

「えっ⁉あっ、あのっ、これは……」

「ぎゅっと握り返してみて」

「えっと、こ、こうですか?」

 太田は少しずつ力をこめて手を握っていく。榊の顔を見ると穏やかな笑顔である。これは一体何の時間なのだろう?ここ、キャリアサポートセンターだったよな?

「これって一体何の時間?ここってキャリアサポートセンターだよな?そう思ってるね?」

「えっ、あっ、すみません!」

「いいよ、無理もないからね。ちょっと目を閉じてくれる?」

「あっ、はい……」

「あなたはとても優しい心を持った、すばらしい人間だね。少し会っただけでそれはわかったよ。あなたと働きたいって思う人はきっとたくさんいる。それは私が保証するよ。それだけじゃない。あなたと一緒にいたい、触れ合いたい、愛し合いたいっていう人も、絶対にたくさんいるよ。もしそう思えないなら、あなたはそういう人とまだ出会っていないだけ」

「えっと、本当にそうなんでしょうか」

「本当だよ。私を信じて」

「じゃ、じゃあ、あなたは僕とキスできるんですか⁉」

 太田は思わずそんなことを口走ってしまい、しまったと思う。

「あっ、や、すみません、今のは冗談……」

「できるよ?」

 その瞬間、目を閉じていた太田は、唇に柔らかいものが触れるのを感じる。目を開けると、榊の美しい顔が目の前にある。

「⁉⁉⁉⁉」

 太田は混乱と幸福のいりまじった感情に襲われ、どうしていいかわからなくなってしまう。

「ね?」

「ちょ、えっと、すみません変なこと言って……本当にすみません!」

「そんなに謝らないでよ。恋人だって言ったでしょ?」

「でも、こんなことさせちゃって……」

「大丈夫だよ、したくない人にはしないから」

 榊はそう言って自分の席に戻る。

「あなたはとても善い人間だと思う。私は人としてあなたのことが好き。でも、それと就職活動はまた別の問題なの。わかるよね?」

「はい、それはわかります」

「特にここ何年かは競争が激化し続けていて、普通にやってたら大企業には入れない。だから、無茶をしてガクチカを作ろうとしちゃう人も出てくるんだよね」

「ガクチカ……学生時代に力を入れたこと、ですよね?」

「そう。あなたは何かある?正直に答えてみて」

「うーん、大学の単位は順調に揃ってますけど、サークルにも入ってませんし、塾講師のバイトはやってますけど、そんなに根を詰めてやってるわけじゃないです」

「なるほどね、でもそんな感じの人も多いよ。でも、それじゃ埋もれちゃうからって、あなたの先輩で大きな勝負に打って出た人が何人もいるわ」

「大きな勝負?」

「うん。一人はろくに登山経験もないのにいきなりエベレストに登るなんて言い出して、その様子を配信してたんだよね。その動画を企業へのアピールに使おうとしたってわけ。でも途中で映像が途切れて、そのまま行方不明」

「えっ……それって……」

「まあ、どこかで生きていてくれればいいんだけどね。他には太平洋を横断するって言ってそのまま行方不明になった人もいれば、アマゾンを探検し始めてそのまま見つけた村に定住して戻ってこなかった人もいるし、スポーツ経験すらないのにYouTube の格闘技企画に出場して骨をバキバキに折られてそのまま引きこもりになっちゃった人もいるし、大学でピアノを始めて世界的なコンクールに出て優勝した経験をアピールしたのに第一志望に落ちて、結局ピアニストにもならずに腐ってホームレスになった人もいる。とにかく、大企業で求められるガクチカのレベルがおかしくなってるんだよね。もちろん、平凡な体験の中から自分が得たものを自分独自の視点で取り出して説明する、っていうやり方も生きてるんだけど、やっぱり大企業だとそれじゃ歯が立たないところまで過熱しちゃってる」

「いやいや、それってちょっとおかしいですよね」

「おかしいと思うよ。でも、ありのままのあなたを好きになってくれる企業だって必ずある。ただし、その企業はたぶん誰もが知っている企業ではない。あなた文学部だったら知ってると思うけど、思想家のルネ・ジラールは『人間は他者の欲望を模倣する』と言っているし、精神分析家のジャック・ラカンも『人間の欲望は他者の欲望である』って言ってる。つまり、あなたが有名企業に入りたいという理由は、そこが有名企業だからというだけ。あなたが京都大学に入った理由も、ここが有名難関大学だったからというだけだと思うんだよね」

「あんまりその、ぶっちゃけよくわかってないですけど、確かに大学はそうやって選んだというか、選ばされた気がします」

「あなたは一応、ここまで競争社会を勝ち抜いてきた。経歴上はね。私はそれもすごく立派なことだと思う。誰にでもできることじゃないし、そこには自信を持ってほしい。ただ、そのレースの延長戦上にある大企業競争にこのまま参加するのか、もう少ししっかりと自分を見つめ直して、愛し合える恋人みたいな企業を探すのか、今はそれを考えなきゃいけない段階だと思う。そもそも、本当に組織で働くのかどうか、という点も含めてね」

 そう言われ、太田はこれまでの人生を振り返った。確かに、競争社会の中で戦ってきた二十年だったのかもしれない。高校受験も大学受験も、親に言われたところを目指してがんばってきた。その中では人並み以上に努力もしたし、うまくいかなくて苦しんだこともたくさんある。だが、自分の頭で目標を決めたわけではなかった。人に目標を決めてもらって、親や先生の言うことにしたがって、こうすればみんなに評価してもらえる、という方向にただ走っていただけだった。思い返してみれば、周りには自分のやりたいことを軸に学校を選んでいる奴もいた。スポーツだったり音楽だったり、美術だったり、演劇だったり、文章創作だったり……太田はそういう奴らを昔から軽んじていた。スポーツで、音楽で、美術で、演劇で、文章創作で、プロになって食っていけるわけがない。みんな現実を見ていないのだと思った。勉強で良い大学に入れば、まず間違いはないのだと信じていた。そういう意味では、太田は親や先生の思想に洗脳されている状態にあったのかもしれない。

「……どうかな?って言っても、今すぐに考えられることじゃないよね。本当に正直なところを言えば、あなたのこれまでの大学生活で、大企業に通用するようなガクチカは作れない。もしやるなら、あなたの先輩たちみたいに、今から無茶をすることになると思うよ。命、懸けられる?」

 榊は真面目な顔で太田を見つめる。命懸けのガクチカ作り……果たしてそんなことをしてまで、Z社や大企業に入らなければならないものなのだろうか。しかし、ここまで一応挫折なくやってきた人生で、そのレールを迷いなく降りるというのも難しい……太田は、自分が実は京都大学に合格したことを誇りに思っているのだということを思い知らされた。京都大学の学生なのだから、下手なところには、無名の企業には行けない。そんな感覚が自分の中にあるということを、はじめて強く実感したのだった。

「僕は確かに……京都大学に入って、そのまま大企業に入りたいという思いを強く持っているのかもしれません。でもそのくせに、就職に向けた努力をろくにしてきませんでした。就活という競争のステージが自分に向いていないということを、多分無意識のうちにわかっていたんでしょう。たぶん、僕は一人でがんばれば何とかなることばかりがんばって、ここまでやってきました。やっている時には何も考えていませんでしたが、僕にはそれが向いていたんです。ここにきて、急にこれまでの人生で必要とされなかった能力を求められて、でもそのことに背を向けて、就活が始まる今の今まで、現実に向き合ってこなかった。でも、僕は、そんな自分を変えたい、とも思っているのかもしれません。こうして話していて、それでもやっぱり、僕は大企業に入りたい。その頂点にあるZ社に入りたいと思ってしまっているんです」

「うん、それもまたひとつの正解だと思うよ。でも、このままじゃ難しいっていうのも事実。どうかな、深い自己分析とガクチカ作りのためのプランがあるんだけど、一週間ぐらい空けられる?」

「一週間なら、別に大丈夫だと思います。それで単位を落とすようなこともないと思いますし」

「……うん、いいでしょう。じゃ、あなたにはこれから山にこもって修行してもらいます。たった一週間だと思うかもしれないけど、かなり厳しい日々を過ごすことになる。でも、これに参加すれば自分をしっかり見つめ直すことができるはずだよ」

 そうして榊は一枚の白黒のチラシを見せてきた。そこには「我が狼山修行体験ツアー」と書かれている。

「このツアー、情報はそれほど広く出回っていないけど、参加者のうち何人かは毎年Z社に合格してる。みんなに紹介するわけじゃないんだけど、なんとなくあなたにはこれが合うような気がするんだよね。我狼山は滋賀県の奥地にあるそんなに知られた山じゃないんだけど、山の上には小さな街があって、大きなお寺がひとつだけある。そこでずっと暮らしながら修行している人もいるから、誰かが師匠になってしごいてくれるよ」

 太田はなんとなくヤバそうな気配を感じながらも、それに参加するしか道はないという気もしていた。これまでの人生は、苦手なことやつらいことを避けながらでもそれなりにやってくることができた。しかし、これからはそうはいかない。困難に立ち向かうマインドを手に入れなければ、目の前の就活においても、人生の長い時間を占める仕事においても、きっと思うような成果は手に入れられないだろう。失敗してもいい、やるだけのことはやってみよう……

「……わかりました、参加します。あの、そのためにはどうすればいいんでしょうか?」

「オッケー。大学からバスが出るから、今日中に最低限の生活用品を揃えて、明日の朝五時に時計台前に来て。周辺の大学の子も何人か一緒に行くことになると思う。がんばってね」

 そう言うと、榊は太田をぎゅっと抱きしめてきた。太田は両手をどうしていいかわからなかったが、意を決して榊を抱きしめ返す。

「生きて帰ってきてね。じゃ、時間です」

 太田が腕時計を見ると、予約していた枠の四十五分間がちょうど過ぎていた。太田は慌てて榊から腕を離す。

「あっ、あの、今日は本当にありがとうございました。キャリアサポートセンターの人っていうのがこんなに親身になってくれるなんて思ってなくて……あの、ほんとに助かりました」

「うん、役に立てたならよかった。また会えるのを楽しみにしてるよ」

 榊は遠距離恋愛の彼女が別れる時に見せそうな笑顔で手を振った。太田は挙動不審になりながら、ぎこちない笑顔で手を振りつつ部屋を出た。

 キャリアサポートセンター、最高やん……

 太田は榊とのキスや、抱きしめ合った感触を思い出してフワフワしていた。というか、よく考えてみれば、これが人生におけるファーストキスだった。ファーストキスがキャリアサポートセンターのアドバイザーで本当に良かったのだろうか? ファーストキスは本当に好きな人と、きちんと交際してからすべきだったのではないだろうか?そんな疑念も頭をもたげたが、太田は数秒で「まいっか」と思った。榊が激キャワだったからである。太田はこの二十年余りの人生の中で、あの部屋で過ごした四十五分間が最良の四十五分間であると確信していた。さて、明日の朝は早い。太田は部屋に帰って修行ツアーに向けた準備を整え、シャワーを浴びてさっさと寝ようとした。しかし、どうにも榊のことを思い出して悶々としてしまい、結局眠りにつくことができたのは午前二時過ぎだった。その時には、我狼山での修行があれほど苛烈を極めるものになることなど、まったく知る由もなかった。

続きは3月26日(火)発売『就活闘争20XX』(著・佐川恭一)で!

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銃撃をかわしながら出身大学OBを探す「OB訪問」やSNSでの10万人フォロワー獲得をめざす「インターンシップ」、歴戦の就活猛者たちと激論をかわす「グループディスカッション」、そして多くの就活生が命を落とす「面接試験」。生死を賭けた選考に挑む就活生たちの悲劇を克明に描き、現代の新卒一括採用システムに一石を投じる、“就活エンターテインメント”登場!

『就活闘争20XX』(著・佐川恭一)は3月26日(火)より現在全国の書店、書籍通販サイトで発売予定です。

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