【増刷記念】青山拓央『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』<はじめに>

学び
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2016年9月刊行『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』(青山拓央)を、2024年4月に増刷いたしました。増刷を記念して本書の「はじめに」をOHTABOOKSTANDに全文公開いたします。

誰もが一度は考えたことがあるであろう「幸福とは何か」という問いに、なぜ十全な答えを導き出せないのか。幸福についての哲学の本である本書は、私たちが幸福について考えるための手引きとなるだけでなく、哲学者がどのように思索を進めていくか知ることのできる一冊でもあります。

およそ8年の時を経ていますが、私たちが幸福を希求することは変わりないはずです。ぜひこの機会にお買い求めください。

はじめに

 「幸福とは何か」という問いへの答えは、それがどんな答えであろうと反発を受けることが避けられません。断定的な答えはもちろん、幸福とは人それぞれのものだといった答えでさえ、批判を避けられないのです。その理由は、「幸福」という言葉が多義的でありながら、他方でその多義性を自ら打ち消し、私たちを均質化しようとする奇妙な力をもっているからです。

 本書は幸福についての哲学の本であり、幸福とは何かを――なぜその問いに十全な答えがないのかを――読者とともに考えていく本です。そうした手探りの思考については、第2章と第6章でおもに進められています。とはいえ、本書のその部分だけを読み他章を読むことがなければ、おそらく物足りなさが残るでしょう。幸福のより血の通った部分、より日常的で断片的な部分は別の章で取り上げられており、そのため著者としては最初の章から順に読まれることを期待しています。

 ところで哲学とは――世間に広まったイメージとは異なり――気の利いた警句でひとを酔わせたり煙に巻いたりするものではなく、自説の正しさを疑いながら少しずつ考えをつないでいくものです(たとえば、『プラトンとの哲学対話篇を読む』(納富信留、岩波新書)第7章で述べられているように)。その意味で、「哲学」的と言われている著名な幸福論の多くは、実はそれほど哲学的ではありません。たとえばアランの『幸福論』は、人々を勇気づける良書ではあっても、哲学書であるとは言いがたいものです(第6章:ホワイ・ビー・ハッピー)。

 幸福についてわざわざ考え、それを文章にすることは、理論化と断片化のそれぞれの誘惑と闘うことです。頭で作った単一の幸福を絶対のものとして奉じるだけでは、あるいは、日常に散らばる幸福を個別のものとしてスケッチするだけでは、書き手は責任を果たしたと言えません。自分にはこれだけの理論化ができ、同時にこれだけの断片が残った――、こうして書き手の非力さを公にするかたちで書くのでなければ、それは教説か文芸のいずれかになってしまうでしょう(そして教説や文芸を書くなら、それ自体として書いたほうがよいでしょう)。本書はまさにその意味で著者の非力さを露呈した本ですが、理論と断片との隙間を読者が自由に埋められるよう、できるだけ工夫したつもりです。

三つの問い

 幸福についての問いには、少なくとも次の三つがあります。幸福とは何か。いかにして幸福になるか。そして、なぜ幸福になるべきか――。これらの問いはつながり合っていて、どれか一つに答えようとすると、他の問いにも答えることになります。

 私たちが何より知りたいのは第二の問いへの答えですが、研究者にとって――私と同じ哲学研究者を含めて――この問いは答えづらいものです。「いかに」の問いに答えるには、「何」の問いにかなりの程度、答えておく必要がありそうですが、多くの学術研究ではその段階で時間切れとなります。幸福をうまく定義したり、その「量」を測る方法を示したりすることが、非常に難しいからです。

 プロの研究者の目から見ると、「何」の問いに安易に答えを出さず、丁寧な検討を重ねていくことは学問的な誠実さの現われです。しかし、いま実際に幸福を渇望している人々は、そうした誠実さよりも、何らかの指針を欲しています。天下り式に与えられた指針であっても、ないよりはましだというわけです。こうして、「いかに」の問いへの回答は、人生論や宗教に求められていきます。

 心理学における幸福研究では、学問的に「いかに」に答える試みが次第に実を結びつつありますが、その大きな理由の一つは、「何」にこだわらない方法の採用にあります。すなわち、ある人の幸福の「量」を、当人の自己申告――どのくらい自分は幸せか(満足しているか)――によって測るという方法が、そこではしばしば採られるのです。もし、こうした方法を採るなら、どのような条件によって幸福の「量」が増減しやすいかが分かり、それは「いかに」の問いに対する一定の答えを与えてくれるでしょう(第3章:心理学の助言)。

 しかし、こうした方法を採りつつも、心理学者の多くは「何」の重要性をきちんと認識しています。そして、自己申告による幸福の測定が、ちょっとした余計な要因でぶれてしまうことも、心理学では確かめられています(たとえば、申告をしている部屋の美醜が申告内容に影響してしまうこと等)。

「なぜ」の対立

 さきほど私はこう述べました。「いかに」に関する天下り式の指針は、人生論や宗教に求められていくと。その求めに応じて具体的な「いかに」が与えられるとき、人生論や宗教は「何」についても天下り式の答えを与えているものです。つまり、幸福とは他者との連帯であるとか、幸福とは心の平穏であるとかいった答えを。

 ここで、次のことを考えてみてください。幸福とは金持ちであることだとか、幸福とは健康であることだとかいった「何」が天下り式に与えられたとして、お金や健康のための「いかに」が示されたとき、私たちはそれを幸福についての「いかに」として受け止めるでしょうか。おそらく、そうではないでしょう。しかし、これは不思議なことです。他者との連帯や心の平穏についての「いかに」が、お金儲けや健康増進についての「いかに」に置き換えられると、なぜそれは幸福についての「いかに」として受け止めがたくなるのでしょうか。

 二つの理由が考えられます。第一の理由は、他者との連帯や心の平穏といったものが漠然としている点にあります。それらは漠然としているぶん、深さや重さを感じさせ、個別的で実利的な話題とは違った印象を与えます。もし他者との連帯などについても、その「いかに」を具体的なものに細分化したなら――たとえば上手に会話をするコツなど――深遠さは消えてしまうでしょう。

 第二の、より重要な理由は「なぜ」の問いに関わっています。なぜ幸福になるべきかという問いは、一見したところは奇妙です。だれもが幸福になりたいのは当たり前であり、私たちは、幸福になるべきだから幸福になりたいのではなく、幸福になりたいから幸福になりたい――要するにたんに幸福になりたい――のだと言いたくなるからです。しかし、「何」の問いをふまえて「なぜ」の問いを見直すと、話はそう簡単ではありません。

 「何」の問いにはさまざまな回答の余地があり、それらは漠然としたものから実利的なものまで多様です。そしてその多様な「何」の数だけ、「なぜ」の問いも成り立ちます。つまり、幸福1、幸福2、幸福3……といった「何」の各々に関して、なぜ幸福1になるべきか、なぜ幸福2になるべきか……といった「なぜ」が問われることになるのです。

 金持ちであることは本当の幸福とは違う、と述べる人々は、それが幸福の一要素になりうることを否定しているのではなく、だれもが金持ちになるべきだ、といったかたちで幸福が理解されることを拒んでいます。とくに、他の幸福の要素――たとえば連帯――を犠牲にしてまで金持ちになるべきだ、といったかたちで。このとき人々は、表面的には「何」について争いながら、根底では「なぜ」について争っています。もしそうでないなら、多様な「何」が述べられたとしても、ただそれだけのことにすぎません。「本当の幸福とは違う」といった批判を、わざわざする必要もありません。

 「幸福とは何か」という問いへの答えが、どんなものであれ、反発を避けられない理由もここにあります。どれほど個人的な幸福についても、それが「幸福」として語られたとたん、聞き手はそこに「なぜ」の強制を読み取り、他の「なぜ」のもとで反発したくなるのです(第2章ではこの問題が、幸不幸という概念の「規範化」、あるいは「正邪化」として論じられています)。

主観と客観

 哲学者のトマス・ネーゲルは、こんな話を書いています。――聡明な大人の男性が頭に怪我をし、幼児のような精神状態になってしまった。しかし彼は満ち足りた「幼児」で、みんなに優しく世話をされながら、食べたいときに食べ、遊びたいときに遊んで暮らす。彼の心の中だけを見るなら、幸福感に包まれている。

 「彼」は、自分に与えられているものに満足し、そこから喜びを得ています。ある人が幸福であるとは、当人が幸福だと感じることであるなら、「彼」は幸福かもしれません。しかし私たちは普通、彼が幸福だとは思わないでしょう。彼のようになりたいかと問われて――あるいは、大切な人に彼のようになってほしいかと問われて――同意する人はごくわずかでしょう。ここには、主観的な幸福と客観的な幸福のずれが現われています(第2章:手をたたく)。

 通常、主観と客観とがずれた場合には、主観のほうが錯覚で客観のほうが真実だと言えますが、幸福についてはそう言いきれません。先述の例と対照的な、次のような状況を考えてみましょう。頭が良く、容姿も良く、身体健康で財産もある一人の女性が、周囲の人々に愛され仕事でも十分に活躍しつつ、なぜか満ち足りない精神状態に陥り、主観的には不幸で堪たまらない状況。客観的に見て、彼女が不幸である理由を見つけることは困難ですが、だからといって、彼女は本当は幸福であると言いきることはできません。

 少し教科書的な話をすると、現代哲学における幸福の議論には、三つの代表的な説があります。そのうち、「快楽説」と「欲求充足説」と呼ばれる立場ではおもに主観的な観点から幸福が理解されており、「客観的リスト説」と呼ばれる立場では、その名の通り、客観的な観点から幸福が理解されています(第6章:ホワイ・ビー・ハッピー)。

 快楽説によれば快楽こそが――肉体的な快楽だけでなく精神的な快楽を含めた――幸福を形成します。快楽とは何かをめぐってはさまざまな見解がありますが、どの見解を採るにせよ、快楽とはまずは主観的なものです。また、欲求充足説では、快楽を得ることではなく欲求を満たすこと(別の表現で言えば、選好を充足すること)が幸福であるとされますが、欲求もやはり各人が主観的に有しているものです。そのため、これらの主観的な説では、どんな快楽を得た場合でも、どんな欲求が満たされた場合でも、当人は幸福だということになります。客観的に見てどれほど奇妙な快楽や問題のある欲求充足についても、それらは本当の幸福ではないとして退ける根拠は、ここにはありません。

 他方、客観的リスト説によれば、幸福な人生には満たされるべき「客観的なよさ」のリストが存在します。たとえば、安全な住居で暮らすことや、他者との良好なつながりをもつことなどが、そのリストには入っているかもしれません。しかしすぐに思いあたる疑問は、どうやってそのリストを作るのか、というものでしょう。リストの項目は快楽や欲求からの独立性をもっており、それゆえ当人にとって不快であったり望まなかったりするものがリストには含まれている可能性があります。この意味で、客観的リスト説は一種の押し付けになりかねず、それを押し付けでないものにするには、「なぜ」の問いに答える必要があります(第6章ではこの問題を、「なぜ」と「何」の問いのもとでの「共振」に目を向けて検討しています)。

上昇と充足

 書店にはたくさんの「幸せになる」ための本が並んでいます。世界中で読み継がれている本もありますし、すぐに消えてしまう本もありますが、内容の良しあしとは別に、そうした本は大きく二種類に分かれます。「上昇」について書かれた本と、「充足」について書かれた本とにです。

 「上昇」とは、収入や地位やその他多くのものの向上を意味します。技能や健康状態の向上もそこには含まれています。もう一方の「充足」は、いま与えられているものの価値を認識し、それを十分に味わうことで、満ち足りた気持ちになることを意味します。充足の側から上昇を見れば、いつでも何かに追われているようで、上昇の欲求にはきりがありません。そこで得られる幸福は、表面的で壊れやすいものに見えます。しかし、上昇の側から充足を見れば、それは自分をだますことであり、社会的成功への原動力を私たちから奪うものです。

 主観的幸福と客観的幸福の区別は、いま見た「充足」と「上昇」の区別に、部分的に対応しています。現在の環境に充足できる人は、たとえその環境に欠けたものがあっても、主観的な幸福感を得ることができるでしょう。他方、社会的な上昇を続ける人は、自分の環境を客観的なかたちでより良いものに変えていけるでしょう。これはちょうど、世界の見方を変える生き方と、世界の在り方を変える生き方の違いとして、理解することができます。

 幸福に生きたいと願う人は、ときに、上昇と充足との微妙な選択を迫られます。今の仕事を続けるべきか否か、今の恋人と結婚するべきか否か等々、そこには上昇と充足との具体的な選択があるのです。「幸せになる」ための本の多くが一時的な効果しかもたらさないのは、上昇と充足のいずれかの観点に偏りすぎているせいでしょう(そこにはしばしば、書き手の国民性が反映されています)。もちろん理想的なのは両者のバランスを取ることですが、難しいのはまさに、そのバランスの取り方です。たんにバランスを取るべきだと言っても、個々の選択の場面において何をすればよいのかは分かりません。

 アリストテレスは倫理学を「習慣」の学として規定しました(第1章:中庸と習慣)。彼はとりわけ「中庸」に関して、幸福に生きるために必要なそれは、理詰めの証明によってではなく、習慣の洗練によって得られると述べました。アリストテレスの倫理学は客観的リスト説と親和的に――一種のエリート主義として――理解されることもありますが、私としては、上昇と充足とのバランスの取り方、あるいは客観と主観とのバランスの取り方に関しても、彼の中庸論は正しいと考えています。というのも、ある人にとって最適な上昇と充足とのバランスの取り方は、その人固有の資質や環境や運に大きく左右されるため、日々の成功と失敗のなかで習慣を洗練させていく以外に、よいバランスの取り方は見つからないからです。

 だからこそ、天下り式にではなく「いかに」の問いに答えることは難しく、人生論においてはしばしば、語り手が実際に成功をしたという体験談のかたちでのみ、バランスの取り方の「いかに」が述べられます。そうした「いかに」はどうしても結果論の側面をもってしまうため、一般論として聞くことには限界があります(第4章:成功者の助言)。

本書について

 幸福をめぐる三つの問いのうち、本書の約半分は「何」の問いを、残りは「いかに」と「なぜ」の問いを扱っています。学術論文のように形式ばった書き方はしていませんが、専門家の方にも価値のある話を各所に含めたつもりです。参照文献に関しては手に入りやすく読みやすいものを優先的に記しましたが、いくつか挙げた専門論文もインターネットでそのほとんどが読めます(書誌情報・頁番号については、筆者所有の版に準拠しました)。なお、本文のなかで人名を挙げることがありますが、肩書がとくに述べられていない場合は、哲学者であると考えてかまいません。

 第2章と第6章についてはすでにいくらか述べましたが、残りの章についても簡潔にその内容を見ておきましょう。第1章はそれだけで一つの完結した話となっており、ある重要な、ただし唯一のものではない「幸福」の意味が論じられています。第3章と第4章は直線的な議論からこぼれた断片を――具象的になりすぎないように留意して――ゆるやかな連関のもとで並べた章で、つづく第5章は小さな子ども宛ての「付録」です。

 最終章の第7章は、すべての方が読む必要はありません。事実、本書の草稿はもともと第6章までで、内容的にもそこで終わっています。そのうえで、あえて第7章を書いたのは一種の楽屋裏を見せるためですが、それを見ることで一部の方は本書が実は何の本だったかを知るでしょう。第7章は同時に、筒井康隆氏の小説『モナドの領域』への特殊な論評にもなっています。

(〈はじめに〉にて紹介した心理学的な知見については、〈第3章:心理学の助言〉で挙げる複数の著書を参照しています。また、現代哲学における幸福の三説の区分(上述した、快楽説・欲求充足説・客観的リスト説の区分)は、〈第2章:世界と時制〉で挙げるデレク・パーフィットの著書が、その先駆けとなっています。)

青山拓央(あおやま・たくお)
一九七五年生まれ。現在、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。哲学の観点から、とくに時間・言語・自由・心身関係を考察。慶應義塾大学より博士(哲学)を取得。県立浦和高校、千葉大学文学部、同大学院博士課程、日本学術振興会特別研究員、山口大学時間学研究所准教授などを経て現職。二〇〇六年、日本科学哲学会より第一回の石本賞を受賞。二〇一一年、文部科学大臣表彰科学技術賞を研究グループにて受賞。おもな著書に『時間と自由意志――自由は存在するか』(筑摩書房)、『分析哲学講義』(ちくま新書)、『心にとって時間とは何か』(講談社現代新書)、『新版 タイムトラベルの哲学』(ちくま文庫)など。

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